ストーカー
みなさんこんにちは。劇団剃り残し一本です。
面白そうな企画なので拙作を投稿させて頂きました。
正統派ストロングスタイルのホラーを目指しました。
皆様の暇つぶしになればと存じます。
お読みいただいた方の背筋が涼しくなって頂けたら幸いでございます。
●待ち伏せ妄想
1
「これは、私の友達が本当に遭った話なんですか……」
ありきたりな口上から語り出したのは、後輩の井上舞美だ。
彼女の携帯には都市伝説のまとめサイトが多々、登録してあるという。三度の飯(普通、女子高生はダイエットに余念が無いはずだが)より怪異の話が好きという、少し残念な子なのだ。
私みたいに、オカルトに全く興味の無い人間もいるという事を、多少は理解した方がよい。
アルコールランプの火に蓋をすると、酸欠になった内部で青白い炎が燐を吹いて消えた。私は湧いた湯を素早くポットへと移した。紅茶の茶葉が開く適温は摂氏97度。スピードが命なのである。
我が科学部は今日も平和だった。
もう一人、井上のどうでもよい語りを聞いていない者がいる。無表情、というよりは自分の世界に閉じこもっているような暗い顔で試験管を磨くのは彼女と同学年、つまり私の一つ年下の男子、田中毅だ。
常に物静かな男である。親が寺の住職をしており、彼の落ち着いた性格も災いして、なぜか年上からも田中さんと呼ばれる悲しい男だった。
井上とだけはよく話しているようだ。もっとも、絡む井上に田中が文句を言うだけなのだが。しかし幼馴染だという二人が案外とウマが合う事を私は知っていた。
話が盛り上がりをむかえたらしく、きゃあ、とか、わあ、と雑な悲鳴が上がった。私は熱い紅茶を一口すすり、今日の実験の説明を開始した。
2
この季節、帰宅時間になっても十分に明るい。
私たちが住む街は、大き過ぎず小さ過ぎず、なんとも個性の無い地方都市である。まあ、そのぶん住みやすいとは思う。
うちの学校から住宅地へと続く田んぼのあぜ道を、私と井上、田中の三人が歩いていた。
実は私はここの生まれではない。親の転勤のおかげで、中学2年の秋からこの街に引っ越してきた。
友達がいないというわけではないが、特定の親友と呼べる存在がいない事も確か。なんとも寂しい人生だ。
だから、私のマンションと井上の自宅が歩いて10分ほどの距離だと知った時は、なんと嬉しい偶然だと喜んだのであった。
残念な事に田中の家はそこから更に自転車で20分ほどの山間部にある。今は私たちに合わせて自転車を押してくれている。おかげで彼と私たちの歩幅が合うので、まあ良しとしよう。
相変わらず井上は田中の自転車のかごにスクールバッグを乗せ、くだらないちょっかいを出して遊んでいた。私のバッグまで乗せようとしたが、そこまで彼に迷惑はかけたくない。
からかうのに飽きたらしく、井上が私の横に並んだ。
「まったくつまらない男ですね、あいつ。無口だし、面白味もないし」
「そういう事言わないの。いいじゃん、口数が多い男なんてロクなもんじゃないわよ」
「えー!? もしやセンパイ、あいつみたいなのがタイプなんですかぁ?」
くだらない事聞くな、と井上を軽くいなす。深い意味はなく、彼女はすぐ部活の話に変更した。
私の勘では、井上は田中が好きだ。
幼稚園からの幼馴染だという二人。ほぼ毎日、井上は暇を見つけてはいつも田中をからかう。正直に言えば仲のよい兄妹みたいだけど、田中としても本当は憎からず思っているのだろう。
ここは優しい先輩が一肌脱いでやるべきなのだ。
そんな機会を私は常に窺っているのだが、現実は非常である。残念ながら今の所、チャンスは訪れていない。
3
「センパイ、聞いてます?」
「え? ……ああ、うん、それで……何だっけ?」
「もう! ひどいです!」
いつのまにか住宅街に入っていた。生返事を繰り返す私に、井上は小さな頬を膨らませて抗議する。
馴染のコンビニの前を抜けて、十字路を曲がった。道を薄暗い街灯がわずかに照らす。
私の、足が鈍る。
「……私がついてますから、平気ですよっ!」
励ましてくれる後輩には申し訳ないが、やはり足取りは重い。
初めてストーカー被害に遭ったのは半年前の冬の事。
相手は同じ学年のMという男。この通学路のどこかに住んでいて、現在学校は休学している。という情報を送られてきた手紙から知識として得ている。
被害の内容は月並みである。手紙の投函から始まり、暗い夜道をついてくる気配、そして盗撮やごみ漁りとしっかり犯罪の領域まで踏み込んできた。
実害というほどのものは確かにまだないが、私にしたら充分に最悪な事もされたし、今でも思い出すのはためらってしまう。
慎重なのか臆病か、いまだに私の前にその顔を表すことは無いのだが。
それでも私の精神を削ることには成功しているのだから、Mの思うつぼなのだろう。
井上と田中。この二人の優しい後輩がいてくれたことは、私にとって最大の支えになった。毎日、こうして家まで送ってくれるナイト気取りの二人には感謝してもしきれない。
だからこそ、せめて私がキューピットになってあげたい、そう思うのだ。
「待って!!」
「うひゃうっ!?」
言うやいなや、田中は自転車にまたがり、私たち二人の脇をすりぬけていった。
と同時に先の方にある電柱の陰から何者かが逃げていくように見えた。恐怖で震える私たちを置いてソレと田中は住宅地の闇の中へと消えていった。
少しの間だが、馬鹿みたいに唖然と見送る私。
「あ、大丈夫ですか?」
「うん。でも驚いたね。何事かと身構えちゃったョ」
私の半身に温かなぬくもり。ぴたりとくっついてきた彼女の体もわずかに震えていた。
恐怖よりも保護欲が勝って、私は彼女の小さな体をぎゅっと抱きしめた。
4
私のマンションは1階がオートロックになっていて、エントランスにはゲスト用のソファーがある。
私と井上はそこで、彼女の兄が迎えに来るのを待っていた。5分も待たずに彼女の携帯が振動した。
「じゃあ帰ります!」
「気を付けてね。何も無いと思うけど」
「平気ですよっ! センパイこそ戸締り用心、忘れないで下さいね!」
肉親が来て安心したのか、蒼白だった彼女の肌に桃色の生気が戻っていた。
「それと……本当に警察には言わなくて、いいのかな?」
「田中の事ですか? へーきへーき。あいつ、ああ見えて結構頑丈なんですよ。祖父が古武術の道場をやってて、昔はよく稽古で泣いてました!」
「うん。でもまだ連絡ないしさ」
「あいつが後れをとるなんて、絶対にありえません! 連絡がないのは無事な証拠って言うじゃないですか」
それは家を出た息子を心配する表現だ。
「どうせまた、寝てるんだと思います。勝手に警察なんて呼んだりしたら、面倒だって怒られますよ、きっと」
私にはわからない二人の信頼の絆。なんとなく少し寂しい。
「そこまで言うなら、わかった」
「すぐに連絡きますよ。それじゃ、行きますね」
「うん。また明日」
「はいっ!」
そう言い、彼女はかわいらしいツインテールを揺らして走っていった。
インターホンの下の鍵穴に家の鍵を差し込み自動ドアのセキュリティーを外す。中に入り、ガラス戸の締まり際に振り向くが、当然、誰もいない。
「気にしすぎ、ねぇ」
私はびびりながらエレベーターに一人乗りこむ。
結局この日、田中からの連絡は無かった。
●訪問者、相談者
5
私はソファーに横たわり、井上と無料通話アプリのチャットを交わしていた。
彼女の反応はどこか上の空のよう。強がりは言っても、やはり心配なのだろう。いつまでも連絡がとれない田中に私たちの不安は募っていく。
こんな日に限って両親が不在なのである。まったくついてない。
リビングのテレビは大音量でバラエティ番組の機械的な歓声を上げた。それでも一人でいる孤独感はごまかせなかった。
時計が23時の時報を鳴らし終えた後、不意打ちのように鳴り響くチャイムに、私は実際に飛び上って驚いてしまった。
心臓が張り裂けそうなほど脈打ち、息が荒くなった。
インターホンの遠隔画面は玄関の横についていた。廊下の電気をつけ、おそるおそる向かう。軋む床板ですら私の恐怖心を煽る。
(やだやだ、見たくない! こんな時間におかしいよ! こわいこわいこわいっ!)
がちがちと歯の根が鳴り、背筋を寒いものが走る。……ただ、知らないものを知らないままにすることが一番恐怖だという事を、私は知っていた。
モニターを覗いた瞬間、恐怖は全て吹き飛んだけれども。
「やっほー、センパイ、来ちゃいました!」
「……とりあえず上がって」
画面の中で揺れる小さなツインテールを見て、それだけ吐きだした私はへたりこんでしまった。
「なんで言ってくれなかったの?」
「えへへ。サプライズですよお」
「まったく。今後は絶対にしないでね!」
10分後。私はリビングで井上と一緒にジュースを飲んでいた。彼女はお泊まり会がしたくてと笑って言っていたが、本音は私を心配してに違いない。
それに田中の事が心配なのだろう。彼女も一人では心細いのだ。
「センパイ、あいつの事なんですけど」
「うん。どうしたんだろうね」
「センパイはどう思ってますか?」
「うへ?」
「……」
「別に無口で静かな奴だなとは……え、え、どういう意味よ?」
予期せぬ質問に焦る私を、井上は真面目な顔でじっと見た。
何故? あ、もしや、私を恋のライバルだと勘違いしてるのかしら。いやいや、だって私なんて彼女みたく可愛らしくないし。勝てる要素なんて一つもないよぉ!?
「別に変な意味じゃないです。毎日いっしょに帰るじゃないですか? 嫌じゃないかなって」
「嫌だなんて、無いよ。男子がいるだけで安心感が全然違うし、本当に助かってる:
「ならいいですが。あいつ、いつもああだから、けっこう皆に勘違いされてるんです。怖いとか、何考えてるかわかんないとか」
「酷い話だね。あんたくらいは優しくしてあげなきゃ」
「むぅ。それはまた別の話です」
「なはは」
私につられて笑顔を見せる井上。やはりこの子は笑ってる顔が一番、いい。
6
24時の時報が鳴った。
テレビ番組も深夜のインディーズ音楽が流れる時間。交代でシャワーを浴びた私たちはそろそろ寝ようかという事になった。
「じゃあ、一緒に寝る?」
「いいんですかぁ!? やったー!」
「あ、ごめん、冗談なんだけど」
「はぁ? 酷いですよセンパイ。私の期待した気持ちを返して下さい!」
「えー、本当に一緒がいいの?」
「もちろんです! センパイは私とじゃ嫌ですか?」
「う……嫌とかじゃなくて……」
ポォン♪
「ひっ!?」「きゃうっ!?」
無音になっていたリビングに突然、ケータイが鳴った。思わず素っ頓狂な声を出してしまった私たちは、照れ隠しに笑い合う。
確認する井上。それは田中からの連絡であった。
『今から××川まで来い』
ようやく連絡が取れたことに安堵したのか、ほっと溜息を吐いた井上は素早い指の動きで返信を打った。
「無事でよかったね。でも」
「どういう意味でしょう?」
待ってみたが、受信したのはその一件だけ。電話は相変わらず発信音だけが続く状況だ。
本当に何かあったのか。
「私、行ってみます。センパイはここで」
「ダメよ! 一人じゃ危ない」
「平気ですよ~。いざとなれば大声出します! 私の声量を舐めないで下さいっ」
「でも……なら警察に」
「何て言うんです? 知り合いの男子高校生からメールが来たから一緒に捜せって、そんなの、今時はだれも心配すらしませんって」
確かに私も本心は懐疑的だ。ストーカー被害に遭った当初、涙ながらに訴えたところで何も出来ないと突っぱねた国家権力に、私は失望していた。
でも彼女だけを一人で行かせるのは絶対にだめだ。
「なら私も」
「センパイが来たらダメです! 何かあったら困りますから」
「ううん、絶対行く。むしろストーカーがいるんだったら、はっきり文句言ってやる! 絶好のチャンスだわ」
「でも……」
「大丈夫! でも、もしもの時は護ってね。頼りにしてるっ」
体温の高い彼女の手をしっかりと握る。震えているのは、はたしてどちらの手だろうか。
7
私と井上は自転車を漕いだ。
怖くないはずが無かった。でも何もしないで後悔するくらいなら、恐怖に身を投じた方がまだマシだと少ない人生経験でもわかる。
それに彼女もいるのだ。護らなきゃという気持ちが、心に余裕をもたせてくれた。
専らの不安は田中の安否である。不謹慎な事を言うつもりは無いのだが、正直、これまでの流れを鑑みて不審に思わないはずがない。
彼が今どのような状況にあろうと、私たちがここまで心配している事に気付かない程の朴念仁ではないだろうと信じたい。
その事は井上の方が理解しているはずだった。だからこと私に心配をさせないように、精一杯の強がりを見せたのだ。別に年相応の弱音を吐いてくれてもかまわないのだけど。
そして堤防に着いた。
ここまでは申し訳程度の街灯があったが、その先は闇。不可視の領域の奥から微かな水音が流れていた。
「田中ぁーっ! どこにいるのよぉーっ!!」
井上の叫びが響くも、返事は無い。
自転車を立てかけて、私たちは携帯電話を手に持つ。堤防の階段をその明かりが照らした。
二人でくっつくように階段を上がり、暗い堤防の上から周囲を見渡した。はっきり言って何も見えない。地面を照らしても、川に伸びる斜面が微かに見える程度だ。
もし足を踏み外したらきっと暗闇の中に飲み込まれてしまうのだろう。
ガシャン!!
「あひょえっ!?」
「……田中っ!?」
自転車が倒れてしまったようだ。驚いたことを悔やみつつ、自転車を起こしに階段を下った。
「あっちゃー。こりゃまずいかも」
「二つともですね。これじゃあ、直すのも大変ですよ」
残念な事にチェーンが外れてしまっていた。加えて、片方のチェーンがもう一方のペダルに絡まってしまっており、はがそうとしても引っかかってしまって取れない。
「なんて日だ!」
「……田中を見つけて直させましょう。あいつ、自転車が趣味なんで」
私は不運を嘆いた。冷静な井上には悪いけど、心中穏やかではなかった。だって、こんなに嫌な事が続く日なんて、正直このまま無事で済むとは思えないじゃん!?
私の予想通り、堤防の向こうからの物音に私たちは戦慄した。
●水音に誘われて
8
ぼちゃん。
「……」
「……」
「……音、したよね」
「何かが、川に落ちたような感じでした。あいつですかね?」
「わかんないけど……。行く?」
「……はい」
先頭を私、背後から井上は繋がらない電話をかけ続けていた。
堤防を下らないとらちが明かないようだ。おそるおそる、二人で体を支えつつ雑草の茂る斜面を下る。見た目ほどは急ではなく、慣れれば明かりに頼らなくても降りる事ができた。
ケータイの光が黒々とした水面を照らした。さわさわとした穏やかな流れからは、先程の音の正体は掴めない。もっともこんな時間に川に入るのは、酔っ払いか河童くらいなものだろう。
ようやく井上は通話を諦めた。暗くて見えないその顔は、きっと心配で強張っている。
「手分けして探しませんか?」
「……、え、ええ~っ!? 本気ですかぁ?」
「怪我をしていて意識がないのかも。音がしたからには、そんな遠くにはいないはずです」
「それはそうだけど」
「向こうの橋まで行って、一度戻ります。上で合流しましょう。センパイも気を付けて下さいね」
「あっ、ちょっと!?」
まるで私の言葉が聞こえていないかのように、上流へと歩いて行ってしまった。
「……」
一人取り残されてしまう。じめっとした地表から湧きあがる恐怖に、ぶるりと身震いが走る。
……ぽちゃ。
「……あ」
暗闇から水音、のような気がしてライトを向けた。だが、耳に残る音はすぐに川の流れに紛れてしまう。
その場に留まることができず、私は下流へと歩を進めた。
9
新月の夜。その闇は深い。
微かな明かりを頼りにして慎重に進んだ。所々がぬかるんでいて、がぽっと運動靴がハマるたびに泥だらけになってしまう。
ここで私は何をしているのか。
本来ならばクーラーの効いた自室でのんびりケータイをいじっている時間。それが、こんなムシムシした場所で虫に刺されているのは、一体誰のせいなのか。
あのストーカーが全て悪いのだ。だいたい、男のくせにウジウジ他人に迷惑をかけるような相手を、誰が好きになどなるものか。急に怒りが湧いて、歩幅がじょじょに広くなる。
とっとと田中を見つけて帰る、私はそう決めた。
「……っ!?」
ぼおっと、遠い水面に浮かび上がる光。暗闇に慣れた目にまるで人魂のように映る。
よく見ればそれは私たちと同じケータイの光のようだ。それは人間大のシルエットを川の中に映し出していた。
ポォン♪
「ぎゃおっ!!」
『来てくれたんだね』
「な、な、な、なっ!?」
不意打ちに心臓が早鐘を打った。こんな暑いのに、ぞぞぞっと鳥肌が全身に立った。
影が動いた。足を踏み出す度、川の水がぱしゃりと音を立てる。
おかしい。絶対におかしい。
脳の指令をストライキする足。その場に立ち尽くし、私は男が川の中から近寄るのを眺めた。
本能が危険のシグナルを発する。このままアレが来るのを待つのは自殺行為だ。一刻も早く井上の下へ逃げなくては。
そう思えば思うほど、緊張する足の筋肉が痙攣してしまう。
更にケータイの明かりが落ちた。
「……いやあああっ!!」
突然の暗闇に、たまらず叫んだ。慌ててケータイを落としてしまった私の耳に、ざばざばと音だけが接近する。私の中の恐怖はすでに限界だった。
膝をつきケータイを手探りで探す。だが、ごつごつとした石の感触しか見つからずに私は涙目になっていた。
そして、私の肩に彼の手が触れる。
「……!!!」
「川にケータイ落としちゃったんです。いやあ、まいった」
聞き覚えのある声。
「……た、田中なの?」
「はい?」
彼のズボンから、川の藻の匂いが伝わる。それがまるで生命の香りに感じて、私の涙腺はついに崩壊してしまった。
10
私は涙に濡れた顔を隠すようにしてケータイを捜した。
それはすぐに見つかった。足元に落ちていたのを拾い上げると、ようやく私の中に安心感が戻る。
ただ、落下の衝撃だろうか、電源はつかなかった。
「ううう……」
「きっと直りますよ。画面もほら、割れてないし」
「そっちはそうなんだけど」
絶大な信頼感は人の心を惑わす。あの田中さんが、こんなにも頼りに思えるのだから。
下半身をずぶ濡れにしながらも飄々としている彼の雰囲気は、私の勇気の残滓を掘り起こしてくれたようだ。
「あ、そうだ。井上ちゃんに連絡しないと」
「……。それならもう平気ですよ。安心して下さい」
「そうなの? ならいいんだけど、あの子、すごい心配してたんだから。ちゃんと後で謝りなさいよね」
「んー、まあ、そうですね。じゃ、行きましょう」
そう言って田中は生意気にも私の手を握った。
背筋が凍った。
「えっ!?」
「……離さないでくださいね」
まるで氷の塊を掴んだような。
その手はしっかりと私を握り、引っ張る。
不可解すぎて声が出せない。私はそのまま川に入る彼に連れられ、足を濡らした。
●彼岸
11
川の深さはひざ下ほどしかなかった。
ただ、暗くてよく見えないが、ふくらはぎには腐臭を放つ水草がねっとりと絡んで、一歩ごとにその不快感が増した。
手をひかれながら、私はそんな事を考える。否、それしか考えられないというのが正解だろう。
「……パーイ」
「あっ!」
堤防の上を走る少女の影。ぼんやりと見える陰にサラサラの髪が揺れるのが見えた。
「ほら、あっち行かないと。ねえ!」
「……」
「ねえってば! 離してよっ!」
振り向きもせずに川を渡り続ける男。ダメだ、このまま行っては。
私の気持ちを無視して腕を引く力が強くなる。もう、怖いとか思ってる場合じゃない。
私は最後の勇気を振り絞る。
「ここっ! ここにいるよっ! 助けてっ!!」
叫びが届いたようだ。手を振る影がこちらへと向かって走る。
「連れてかれてるっ! 早く助けてっ! ……むぐぐ!?」
男の手が私の口を塞いだ。斜面をこちらに向かって来てくれる彼女の姿はここからでは見えない。
せめて、向こうまで行けば、きっと助かるはず。
「がぶっ!」
「ぎゃあっ!?」
冷たい指を噛んだ。歯に食い込む骨の感触が気持ち悪い。それでも私は精一杯噛んでやった。
そして掴まれた腕を振りほどき、井上の名前を連呼しながら私は川を渡る。
「助けてっ!」
「ちょ、待てって!」
河原の向こう側の気配に、私は手を伸ばす。
なんとか指先に触れた。
もっと、腕を伸ばして掴めば、届く筈。
と同時に、襟首を引かれた。喉が急に締まり、一瞬意識が飛びそうになった。
「ぐ……う……たす……」
「馬鹿! 早くこっちに!」
男の腕は私をしっかりと抱え、ざばざばと川を渡る。
薄れゆく意識の下で、ぼんやりとみえる対岸の影。
河原に投げ捨てられ、男の荒い呼吸を聞きながら、私の意識は途絶えた。
12
目が覚めた時、私は自分のベッドの中にいた。
重い頭を持ち上げて部屋の中を見る。そこに井上の姿は無い。
なんてアクロバティックな夢をみたのだ、と思う。
枕元のケータイを掴む。普通に画面が光った。
この歳になって、怖い夢を観るなんて。恥ずかしいと思いつつ、私はもう一度目を瞑った。
朝の登校時、いつも通り待ち合わせた井上の顔に変わった所は無い。
聞くと、昨日の夜は出かけていないという返事。当然私の家になぞ来ていないと首をかしげる彼女に、私は苦しい誤魔化し方しかできなかった。
1時間目の休み時間。1年生の教室を覗きに行こうと席を立った。偶然にも階段を上る田中とはち合わせ、移動教室だという彼に、昨日のお礼の言葉をかけるが、なんとなく歯切れが悪い気がした。
チャイムが鳴ってしまい慌てて教室へ戻ろうとする私に、田中がかけよって来て呟いた。
「すいません。後で少し、いいですか?」
13
放課後、部室には寄らずに、田中の提案に従い空き教室で話をすることにした。
窓からは紅い夕焼けが眩しかった。窓から風が通り、なんとなく心地が良い。
などとのんびりしている所に田中がやってきた。
「遅くなりました」
「いいよん。それで、何?」
「昨日の事なんですけど……」
急くように田中は話し始めた。
昨日の帰り、謎の陰を見かけた田中は自転車で追いかけた。でも、道を曲がった先ですぐに見失ってしまったらしい。
回りに隠れる場所もなく、一応、周囲の家の表札を調べてから、彼は帰宅したそうだ。
そして、地域の郷士である祖父に、その事を相談したらしい。電話までしてくれ、家族構成はすぐに判明した。いずれも成人した子は就職のために都市部へ引っ越し、残っているのは老人だけなのだそう。
彼は次に古新聞を掘り出して、過去の事件を調べ始めた。インターネットも使える年齢だが、この地方で事件など数えるほどしかない。小さな出来事はすぐに情報の波に流されてしまうだろう。
寺のお堂で新聞紙を広げる息子は、住職にとって邪魔だっただろうが、優しく見守ってもらえたとの事。
気がつけば、寝てしまっていた自分の体に毛布がかかっていた、と彼は淡々と話した。
「それで、何か見つかったの?」
「ええ。……2か月前の日付で、男子高校生が自殺したと」
嫌がらせの手紙から、直接のつきまといに変わった時期だ。
「平気……ですか?」
「……うん。続けて」
「新聞によれば、その男は橋の上から××川に身を投げたそうです。遺書は無かったですが、警察はすぐに自殺と判断したと書いてありました」
パズルのパーツが、繋がっていく。
「それで、今朝、父親にその話をしました。葬式はしなかったらしいですが、お経だけでもとその家に呼ばれたそうです。友達もおらず、家族からも無関心で、辛い人生だったろう、と彼は言いました。もし何か見たのなら、それは無念だろう、と」
14
高校1年生の冬。みぞれの降る、テスト期間で半ドンの日だった。テスト勉強もあるので寄り道をせずに帰る私は、道端でしゃがみ込む同年代の男を見かけた。
彼の腕には震える子猫がいた。正直、知らない相手とかかわり合いになりたくなかったのだが、猫と目が合ってしまった私は、しばらく目を逸らすことができなかった。
寒くて震えてるのかな? と初めは思ったのだが、よく見れば毛皮が赤く染まっていた。息も荒く、小さな舌を伸ばして喘いでいるようだった。
今考えれば、それをその男がやったと決めつけるのは早計だろう。でも事実はもう墓の下に埋もれてしまった。
「死なないよね?」
「わかんない」
それだけを交わして、私は逃げるようにその場を去った。
わずかに残っていた記憶を、私は掘り出すことが出来た。同時に、目に涙が滲む。哀悼とか追憶とかそんなんじゃなくて、ただ、悲しいなってだけの無色の涙。
「……今日、彼がもう一度お経を上げてくれるそうです。そうすればもう彷徨う事も無いだろうと。もし何か被害があれば私の力が及ばなかったのが原因だから、何でも言ってくれと」
「それは平気。被害は無かったんだし」
田中の指を見た。包帯で巻かれている指にハッとなる。彼も気付いたようで気まずい顔を見せた。
「だから、これも気にしないでいいですから。噛まれるとは思わなかったんで」
そう言って、彼は不器用に笑った。
15
少し遅くなってしまったが、日が沈む前に三人で帰ることができた。
「センパイ~。本っ当に何も言われてないんですかぁ?」
「しつこいなあ。だから部活の予算で相談してたって言ってるでしょう? 部室だとあんたがうるさいから、落ち着いてできないの!」
「むうー! あいつ、男の風上にもおけねぇ!」
何か勘違いしてるのだろうか? 私は井上の耳に小声で話す。
「ねぇ、田中ってさ、あんたの事が好きなんじゃない?」
「はぁ? あのね、センパイ。あいつはセンパイの事が好きなんですよ? 気付いてないんですか?」
「えええっ!?」
「でなきゃ、無理して毎日送るとか、今時無いですって」
「で、でも、あんただってまんざらじゃないのでは?」
「腐れ縁です」
きっぱりと言われてしまった。だったら、今までの私の心労はいったい?
自転車を押す田中を盗み見た。高い背に、小さめの整った顔。その下には引き締まった肉体が隠れている。実はなかなかの優良物件なのだ。
私の少し赤くなった顔を、井上が見てにやりと笑みを浮かべた。
終
お読み頂きありがとうございました。
文章量が少ない割にプロットから推敲までおよそ3日もかかってしまいました。まだまだですね。
どんな内容でもかまいませんので、ご指摘、ご感想お待ちしております。