1話「行き倒れる女たち」
そう遠い昔の話ではない。
長く続いた魔族と人族の戦いが終わり、魔族は魔族で、人族は人族で、同族同士の縄張り争いを初めた頃の話だ。
戦乱の世。
特に人族の大多数の住む中央大陸は酷いもので、土地はあれども統治者がおらず、どこの支配も受けていないような土地がごろごろ転がっていた。
そのへんの集落の長が決起して国を立て、隣の国に攻め入って滅ぼし、すぐにまた隣の国から攻撃を受けて滅ぶ。その隣の国もまたすぐに……。
滅ぼし、滅びが当然とした世であった。
人族が人族として、魔族が魔族として団結していた頃の方が平和だったのでは?
という疑問を発する者も数多く存在したが、答えられる者はいない。
どれだけの戦が繰り返されただろうか。
盗賊と傭兵が激増した。
農民は家族を皆殺しにされ、田畑も焼かれ、やむなく盗賊か傭兵となった。それしか生きる道は無かった。需要と供給がつりあっていないため、持たざる者は他人から奪うしかなかった。
孤児も大量に生まれた。
その中には騎士に拾われ、小姓のような立場につけるものもいたが、それは一握りの運のいい者だけであり、普通は奴隷となるか、盗人となるか……大抵はどちらにもなれず、餓死した。
少ない食料を奪い合う泥沼のような情勢。
だが、そんな泥沼の中でも、人族は次第にまとまり始めていた。
中央大陸は肥沃な土地だ。特に南と西に近づくにつれて平原が消え、食いつぶそうとしても食いつぶせないほどの緑の土地が広がっている。戦乱と飢餓によって減った人間を養えるだけのポテンシャルを持っているのだ。
そこに気付き、しっかりとした土台を作った国があった。
一歩抜きん出たその国を、王竜王国と呼んだ。王竜山に守られ、長い時間をかけて地力と資本力を蓄えた、実に豊かな国だ。
地形にも恵まれていた。
どんと聳える王流山のおかげで、その国に至る道はたった二本しかない。
安全な遠回り。危険で険しい近道。
安全な道のりは平地に走る街道を抜ける道だが、王竜山をぐるりと迂回しなければならないため、遠く、時間もかかる。だが、他国に攻め入られた時に守りやすい。時間を除けば利点しかない。
逆に危険な道のりは、道しるべも食料も無い、とても常人には渡りきれない死の荒野が続いている。しかしながら王竜王国への道のりは安全な道のりの、四分の一で済む。ゆえにこの荒野を抜けようとする者が後を絶たないが、抜けられた者はほとんどいない。
物語は後者。
死の荒野にて、始まる。
★
見渡すばかりは荒れた大地。
草木はほとんど見当たらず、木は毒の実をつけたものが、ぽつぽつと生えている程度。ガサガサに枯れた土の上には、時折白骨が転がっている。
遠くにそびえる王竜山が無ければ、方角が分からないぐらいの殺風景。
この風景は、三日三晩歩き続けても変わることは無い。
一ヶ月。隣国から徒歩で一ヶ月分。荒野は広がっている。
これを広いと見るか狭いと見るかは人次第だろう。
生物はいる。動物の死肉をあさる砂虫が数多く生息している。逆に言えば砂虫しか生息していない。空には鳥すら飛んでいない。生物の息遣いの聞こえぬ不気味さ。それにはなんらかの理由があるのだろうと主張する学者もいるが、だからなんだというのだろう。
軍勢の通過はもちろんのこと、旅慣れた旅人ですらこの荒野ではあっさりと命を落とす。それほど危険で険しい場所である。
しかし、王竜王国への最短ルートであった。
その荒野に少年が一人。
「ふんふふ~♪ ふんふ~♪」
ガチャガチャと鳴る鎧に合わせ、鼻歌を歌いながら荒野を突き進んでいた。
銀色に輝く騎士鎧を身に纏い、背中には巨大な大剣を背負っている。
ザンバラに斬った黒髪は砂が絡んで随分と痛んでいるが、その下にある顔は精悍で、どこか浮世離れした 雰囲気すら纏っている。
このクソ熱いのに騎士鎧を脱ごうともせず、旅なれていない歩きかたは無駄だらけ。
しかし、その表情はどこまでも上機嫌だった。
「もうすぐだな~」
彼の胸にあるのは英雄願望だ。
幼い頃より聞かされた、いくつもの英雄譚。彼はずっとその主役になりたいと思っていた。もうすぐその夢が叶うのだ。
というのも、少年が向かう先の町では現在、竜退治のための募集がされているらしい。
竜は最強の生物だ。
群れとしての強さもさることながら、地上最大の生物であるとともに、強い魔力を持ち、高い知能を備えている。
竜は、最強の、生物である。
竜が怒り狂い人間の国を襲って滅ぼした例はあっても、人間が竜の住処に踏み込んで、その竜を全滅させて戻ってきた例はない。
だが少年は、自分なら、一人ででも竜を倒せると夢想していた。
夢見がち、と、全ての人が彼を評価するだろう。正しい。
彼の目標は、御伽噺で聞いた英雄騎士。
百万の軍勢を打ち破り、悪の竜を倒し、世界に平和をもたらすような、荒唐無稽な存在である。
そうした妄想を抱くのは、男の子ならさして珍しいことでもない、夢も娯楽も少ない時代だ。小さい頃にそういった夢を見る子は多い。一種の病気、麻疹のようなものだ。
少年の名はアレックス=ライバック。通称アール。
病気にかかったままの少年である。
そのためだけに騎士の資格を得たり、死の荒野を抜けたり、竜に挑んだりする。
重症患者だ。
「早く行かないと始まっちゃいますからね~……っと?」
と、アールは己の行く先にボロ雑巾を見つけた。
正確には、ボロ雑巾のようなもの。汚らしい茶色の布っきれ。
「いえ、これは人ですか」
よく見れば、それは倒れた人間だった。ボロボロの外套に包まれて、栗色の髪の小柄な少女がうつ伏せに寝転んでいた。
死体か、とアールは思ったが、即座に否定した。
死体にしては砂虫が付いておらず、かといって白骨化しているわけでもない。砂虫は腐った肉しか食わないため、つい先ほど息を引き取ったとも考えられるが……。
アールはその背中にぺたりと掌を当ててみる。
ほの暖かな熱と、鼓動が感じられる。
やはり、まだ生きているのだ。
「行き倒れですね」
アールは無造作に少女を仰向けにひっくり返した。
なかなか丹精な顔立ちをした少女だ。浅黒い肌。恐らくベガリット大陸の出だろう。頬に切り傷があり、少年のようだ。目を閉じていてもそれとわかるキレ長の瞳。栗色の髪は浅黒い肌と荒野によく似合う。背は低く、痩せているが、奴隷のようにガリガリではない、筋肉はあるようだ。
「失礼します」
アールは少女の体をまさぐる。
死体あさりをしようというわけでも、紳士にあるまじき猥褻な行為に耽ろうというわけでもなかった。外傷が無いかを確かめたのだ。外傷どころか、着衣の乱れも無し。モンスターや賊に襲われたわけでは無いらしい。こんな所にモンスターや賊がいるのかどうかなど知らないが……。
彼女は旅慣れた旅装だったが、食料や水などの必需品は持っていなかった。腰に下げられた水筒の中身もカラだ。
大方、食料も水も尽きて、空腹か脱水症状で倒れたのだろう。
「英雄に大切なのは人助け。さぁさぁ、お飲みなさい」
アールはそう言って、自分の水筒の中身を少女の顔に向かってぶちまけた。
たっぷり二秒後、少女は堰をしながら虚ろな目を開いた。鼻にでも入ったか。
「げほぇ、ゲホッ……?」
その表情には戸惑いの色が強かったが、最初の乱暴な仕種が嘘のような優しい手つきで口元に水筒を添えられ、少しだけ流し込まれる生ぬるい水を少女は戸惑うことなく嚥下した。意識は無くとも体は正直だ。
すぐに少女はまた意識を失った。
「よっ……さぁてと、死なないでくださいねっと」
アールはその少女を肩に担ぎ上げると、また鼻歌を歌いつつ荒野を歩き始めた。
その足取りは、軽い。
英雄を目指す彼は、人助けをライフワークとしている。
人を助ければ、英雄への道が一歩前進。だから、常日頃から倒れた人や困った人がいないかと目を光らせているのだ。
人の不幸が嬉しいなどという暗い考えの持ち主ではないが、人が倒れていれば助け起こせるし、それは自分の利になる。困っている人は大歓迎だ。
もちろんアールはどれだけ人助けをしても、自分の望むような、後世に伝わるような英雄になれないことを知っているが、何事も積み重ねだ。小さな事でも普段から英雄として自覚を持って行動しておけば、いざという時にも道のはずれた行動をしないですむ。
それに、アールにとってはいかな状況であれ、少女の一人や二人を抱えて町まで歩くことぐらい造作もない事なのだ。
「悪を~叩き潰す~♪ 俺の拳が~♪ 潰される~♪ おおっと?」
また数時間ほど歩いた頃だろうか。
ふと、アールは自分の行く先に黒い大甲虫を見つけた。人間の家屋の隙間に住む、忌むべき黒い存在はさまざまな種類があり、一部の地域では一メートル強まで巨大化し、人を襲うこともあるとか。
正確には、黒い大甲虫のようなものだった。光を反射する黒い金属。
「いえ、虫ではありませんね」
的確には、黒い鎧をつけた人間だった。
日差しによってチンチンに熱された黒鎧を着た、やたらと背の高い女が、うつ伏せになって倒れていた。
死体だ、とアールは決め付けた。それほど生気を感じさせない倒れ方だった。先ほどの少女がギリギリで生きているのだとしたら、こっちの女はギリギリで死んでいる。これから腐って砂虫のご馳走になるのだろう。
馬鹿な女だ。日差しを遮るものの無い荒野で熱の篭る黒い鎧をつけてうろつくなど。
「僕のように銀色に輝く甲冑で日光を反射しないと。まぁ……それでも熱いけど」
けど英雄が熱さ程度でヘコたれるわけにはいかない。
何事も形からだ。英雄が鎧を着ていないなんて、話にならない。
さて、死体とはいえ、見つけたのも何かの縁、せめて身元の確認をするべきだろう。アールは肩に担いでいた荷物をどさりと落とした。「グゥふ……」うめき声が聞こえたが、無視。うつ伏せに倒れている女を仰向けにひっくり返す。
「……あれ?」
砂に汚れた顔は真っ赤で、まだ生気が残っていた。
頬に手を当ててみると、熱射病なのか、やたらと熱かったが、それでもまだ息はある。
予想外に、倒れてすぐなのだろうか。
アールは自分の向かう方向へと首をめぐらせる。
天高くそびえる霊峰、王竜山の麓から煙が上がっているのが見える。もうあと一時間も歩けば荒野は終わり、少しは食べるもののある平原が見えてくるだろう。そんな位置。
運の悪い女だ。
もう少し頑張れば、たどり着けたというのに。
いや、ここでアールに見つけられたという事を考えると、むしろ運がいいのかもしれない。なぜならアールにとって行き倒れた女の一人や二人を助けることなど、造作も無いことだからだ。
アールはチンチンに熱された鎧を慎重にはずす。黒い鎧の下から、城の侍女の着るような黒服が現れる。各所に黒い鎖が編みこんである物々しい服だ。
(侍女って武装するものなんですかね……)
メイドが鎧を着て荒野を踏破する。
その理由が思いつかず、アールは首をかしげた。
「……事情は人それぞれ、か」
ややあってアールはそう呟くと、鎧を一まとめにして紐でくくり、背中に背負う。
そして女に残りの水を全てぶっ掛ける。どうせ木陰は無い。まっすぐ街に向かうのがいいだろう。死ぬか生きるかは、女の体力次第。
アールはそう思い、少女を左肩に担ぎ、女を右脇に抱える。
彼は英雄を目指している。
ゆえに一人や二人、助けることなど造作もないのだ。
王竜王国で一番大きな酒場。そこはいつにも増して込み合っていた。
アールはその「いつにも増して」の部分は分からなかったが、他の酒場と比べても決して少なくない席は満員。さらに、客ですらなさそうな集団が壁の方でたむろしており、多分、そこが「いつにも増して」の部分なのだろう。
なぜ今日に限ってそこまで人が多いのか。
その理由に関しては、アールは心当たりがあった。
アールが王竜王国まで旅をした理由でもある。
今日は王竜退治を依頼した者が、その概要について参加者全員に説明する日であり、その会場がこの酒場なのだ。
さて、それはそれとして。
「おかわり!」
「こっちも!」
アールの目の前では、二人の女性が競い合うように皿を空にしていた。
一人は切れ長の目を持つ、凛々しいというより剣呑な顔をした小さな少女。小柄な体をボロボロのマントに包み、ひたすら、特に肉を中心に意地汚く食らい続けている。
もう一人は、知的というか、むしろ冷酷な顔立ちをした背の高いメイド。侍女服の上に真っ黒い鎧を身に着けており、姿形は上品な騎士を思わせるのだが、今は上品さの欠片もない目でテーブルの上の料理に狙いをつけている。
怖い少女と怖い女だった。道端で肩でもぶつければ因縁つけられてケツの毛までむしられてしまいそうな、そんな印象を受ける。
この二人は酒場に入った瞬間に目を覚まし、眠っていたお陰で回復した体力を振り絞るように我先にと店内へと駆け出し、野犬のごとき獰猛さで先客を追い出してテーブルを確保し、矢継ぎ早に料理を注文し、現在に至る。
並んで座る二人の正面の席についたアールの事など眼中に無いかのように。
いや、実際に眼中には無いのだろう。
失われた栄養を補給することで精一杯なのだ。
「いやぁ、それにしてもすっげぇメンツが集まったもんだなぁ」
自分に向けられた声ではないが、ふと聞こえたその声に、アールは耳を傾けた。
どうやら彼らは、この集まりになんの関係もない旅人らしい。それとも商人だろうか。酔っ払って酒臭い息を周囲に撒き散らしながら、上機嫌で周囲を見回している。
「あっちにいるのが王竜王国の王立騎士団だろ?」
「有名じゃな! 率いるは『驚愕獅子』レオナルド=ポンパドール! 不可能を可能に変える男。幾多もの侵攻作戦を成功させ、幾多もの防衛作戦を完遂した真の男よ!」
アールは男たちの目線の先に目を向ける。
酒場の一角に、十名ほどの全身鎧の一団を見付ける。鋼色の甲冑。兜につけられた赤い羽根飾り以外には一切の無駄な装飾のない実直な装備。鎧に刻まれた王竜王国の紋章が無ければ、どこぞの傭兵団と間違えたかもしれない。
見てくれは地味だが、王竜王国の誇る王立騎士団は噂に名高い。
時折、王竜山からはぐれ竜が降りてきて人里を襲うが、それの退治は彼らの仕事だし、酔っ払い達の話どおり、戦場でも役に立つ。この戦乱の世で王竜王国という一つの大国を建国が維持できているのは、彼らの実力によるところが大きいだろう。
大国の誇る実力派の騎士団。
弱いわけがない。
「で、あっちのはほれ、原豹傭兵団じゃねえか?」
「おお、間違いねえ。大陸であの豹柄の上着を身に着けられるのは原豹傭兵団しかいねぇもんなぁ! しかもありゃ、原色師団の一つ、青豹師団だぜ!」
アールもそちらに目を向ける。
王立騎士団からテーブルを二つ挟んで隣。その一団は目に付いた。
酔っ払いの言葉どおり豹柄の上着を着た一団がいる。
鮮やかというより、けばけばしい青の下地に黒紋の豹柄だ。
原豹傭兵団といえば、中央大陸で最も巨大な傭兵組織だ。首領『ビッグ・パンサー』を頂点に、赤青黄白黒の五つの原色師団が存在。さらにその下にそれぞれ四つ下位の師団が存在する。構成メンバーは十万を超えるとまで言われている。軍隊規模の傭兵団だ。
その集団の中で特に目を引くのは、短髪を上着と同じけばけばしい鮮やかな青色に染めている猫背の男。おそらく彼があの一団のリーダーだろう。貫禄がある。
ふと目があった。
彼はアールには興味が無いようだったが、その視線の奥、皿をガッツク二人の女性のどちらかを目にして、その表情を歪ませた。知り合いなのだろうか。アールが見ると、青豹は舌打ちして酒を煽っていた。
「二階にいるのはなんだ?」
「眩しいばかりの白鎧。破邪装甲を身に着けてるのはミリスの神聖騎士団以外にあるめぇ。ミリス神聖国の誇る断罪部隊。神殿騎士団よりタチが悪いってぇ噂だが、だからこそ強力だ。圧倒的な退魔装備で魔女だろうがなんだろうがぶっころしちまう」
目線を傭兵団から上へ。
そこには青豹師団以上に目立つ一団があった。白い鎧を身に着けた一団。神聖騎士団だ。正式名称はミリス破邪装甲兵団。あの白い鎧には極めて高度な対魔術付与が為されており、それが破邪装甲と呼ばれる、聖騎士団にしか支給されない強力な防具だ。
正式には、彼らはミリス国の正式な騎士ではない。だが他国民にとって、ミリスの騎士と言えば聖騎士。彼らのことだ。自国から滅多に出てこない神殿騎士より、大陸の至る所に存在する聖騎士の方がよく知られているのだ。
その中の一人、聖騎士という単語がまるで似合わない野卑な相貌をした男が、驚きの目でこちらを見ていた。アールと目が合わないところを見ると、やはり女性のうちどちらかの知り合いらしい。青豹師団の長同様、唾棄すべきゴミ虫を見つけたかのような苦々しい顔をすると、ふいと顔をそらした。
「おいおい、あっちのムキムキの連中はなんなんだ? 暑苦しいな」
「バカよせ、聞こえたらどうすんだ。ありゃ武道団体、鳳凰の巣の連中だよ。ヤツラの故郷じゃ武器や防具になるような金属が取れねぇから、素手による戦闘術が発展したんだ。ま、今では目的と手段が逆になっちまったみたいだけどな」
鳳凰の巣。
アールも名前だけは知っている。何の必要があるのか、拳による格闘術だけであらゆるモノと戦う武道集団だ。拳は確かに強力な武器だ。誰もが持っているため携帯性に優れ、鍛えれば鍛えるほど威力を増す。さらにあらゆる武器の中でリーチが最も短い。技術さえ伴えば密着した相手に大ダメージを与えられる。
だが、厳然たる事実として、人は武器を持ったほうが強い。
リーチが短いから、携帯性に優れるからなんだというのだ、リーチは長い方がいい。
そんなことは百も承知であろう彼らは、席に着いていなかった。はた迷惑にも、酒場の隅の方で暑苦しくトレーニングをしていた。リーダーらしき者がひときわ若い者に指導をしているのが見える。
全員が上半身裸で、一見無駄とも言えるような筋肉で覆われている。
だが鳳凰の巣のある地域には、人よりも巨大で硬い皮を持つモンスターが多数生息しているらしい。人間を相手にするなら邪魔な筋肉でも、そうした怪物を退治するのには決して無駄にはならないのだろう。
もちろん、幾らでも武器が輸入できる時世、そんな事をしてどうするのか、という疑問は残るが。
「あっちの陰気な連中はなによ?」
「ああ? 北の方にあるなんとかってぇ魔術団体だろうよ。草世葉木だかって名前だったと思ったが、俺も詳しいことはしらねえ。ただ言えるのは、全員が全員、宮廷魔術師クラスのバケモノだってぇ噂だぜ」
地味な集団だった。
茶色か紺色のローブを身に纏い、端の方のテーブルで静かに食事を取っている。ほとんど会話をしていない。賑やかで酒臭いこの場に似つかわしくない。
ぴりぴりした気配を感じるのは、場に神聖騎士団がいるからだろうか。ミリス神聖国では魔術が禁止されているためか、聖騎士はあらゆる魔術使いと仲が悪い。ミリス神聖国は魔術師の入国を拒否しており、密入国した魔術師を断罪するのは神聖騎士団の仕事だ。さらにいえば、ミリス教団の教義に反する悪い魔女を探し出して撲滅するのも彼らの仕事だ。
人間は同胞を殺されれば、いかな理由でも怒りが先にたつ。
魔術師も異質な存在とはいえ、人間だ。やはり怒っているのだろうか。テーブルの端に座る魔術師の集団からはそうした表情は読み取れない。
ふと、その中の内の一人、少女と眼が合った。
うすボンヤリした眼でアールの視線を受け止め、首を傾げる。
アールは視線をはずした。
ややあって。
酒場のお立ち台。
いつもは旅の吟遊詩人か何かが演奏をするステージに、その男は護衛を伴って現れた。
黒紫色の肌と四本の腕、一目でわかる魔族だ。
そして、彼が魔族であるなら、間違いあるまい。この集会の主催者だ。
酒場が静まり返る。あの酔っ払いたちですら、口を閉じた。何しろ、五つの強大な組織が周囲ににらみを利かせていた。これで口を開ける者はいない。
食べ物を咀嚼する音ですら、見咎められそうだった。
最も、周囲の見えていない二人の女性には関係のない事なのだろう。二人は周囲の目線などどこ吹く風でズルズルと麺状の料理を啜っていた。
「儂はユリアン=ハリスコ。あー、一応、武器鍛冶をしているが、そのぐらいの事はこの場にいる者達なら誰でも知っている事だろう」
さして大きな声ではなかったが、静けさに満ちた酒場の隅まで響くに十分だった。
発声器官がそれほど発達していない種族の者なのだろう。魔族らしい、しわがれた声だ。
まだ若い。時に千年、万年を生きる魔族がいる中、彼の年齢はまだ五百に届かないだろう。外見からでは判別がつきにくいが、魔族は一般的に年齢を重ねるにつれて獰猛になっていくもので、彼にはまだ餓えた獣のような獰猛さを感じない。きっとまだ若いからだ。
「ここに集まってもらった理由は、この場に集まった貴君らの方が詳しいだろう」
一瞬だけ酒場がざわつき、いつもの喧騒を取り戻しかける。
が、それは本当に一瞬のこと。すぐに静かになった。
「儂は剣を打とうと思う。既に理論は出来上がり、工房の用意もできている。が、ただ一つ、足りないものがある、材料だ」
端的な言葉で、話は本題へと入る。
「王竜山の主、王竜王カジャクトをその材料とする。そのため貴君らに王竜山へと踏み入り、王竜王の死体を、爪の垢に至るまで余すことなく持って帰ってきてもらいたい」
王竜!
他の竜に比べ圧倒的な巨体を持ち、高度な重力魔術を操ることでその鈍重そうな肉体を軽々と跳躍させる竜。
群れでの強さは赤竜に及ばぬ。山に一歩足を踏み入れただけであらゆる生物を食い尽くす赤竜には敵わない。
しかし、単体での戦闘力は最強。
王竜は最強の竜。
そして、王竜王カジャクト。
その名はどの竜よりも有名である。何万の時を経ていき続ける古竜。
人魔大戦の折には人間側についた妖族の英雄ランシャオと戦い、勝利を収め、魔神よりこの王竜山を賜ったのだという。
かの大戦に生きた者は、ほとんどいない、かの王竜王以外では、魔族の一領を預かる不死の魔王アトーフェぐらいなものだろう。それほど昔の大戦だ。
王竜王カジャクト。人知の及ばぬ生物である。
「報酬は。一生遊んで暮らせる額を用意した。そしてさらに、王竜王より生み出されし我が剣の内、最高の一本をやろう」
再度どよめきがあった。
人知の及ばぬ生物であろうが、人知に及ばぬ生物であろうが、関係ない。
人は欲望に生きるもの。
金を手に入れ、さらに剣を売り払えば、一生どころか、十代先まで繁栄を約束されたようなものだろう。
人々は期待に色めき立つ。
「いけ! 王竜は山にいる!」
「おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
魔族の鍛冶師、ユリアンの号令で、酒場は元の、いいやそれ以上の喧騒を取り戻し、主だった集団から我先にと酒場を後にしていった。
つかの間の盛り上がりの後、あっという間に酒場から人気が無くなっていく。
残ったのは竜退治になどまるで興味が無い酔っ払いだけだ。
「む……」
若干出遅れた感を持ちつつ、アールは慌てて立ち上がる。
こうしては居られない。竜を倒すのは自分だ。
他の者に遅れをとってなるものか、無駄な時間を過ごしている暇はない。
すぐにでも駆け出して連中を追い抜こう。そして王竜王まで一直線だ。
「今行っても無駄よ」
と、そんな声を聞いて、アールは脚を止めた。
見れば、幸せそうな顔をして爪楊枝を加えている背の高いメイドの姿があった。熱射病で真っ赤だった顔は色白の肌に戻っており、その満足げな仕種に妖艶な印象すら受ける。メイドにあるまじき妖艶さだ。
その隣では、凛々しい少女も似たように満足げな顔をして食後の茶を飲んでいた。
アールは女に問う。名前すら知らない女だが、何故だか今の彼女の言葉には重みが感じられた。
「無駄とは、どういう事ですか?」
女は、そんな事もわからないのかと言い放つ。
「意味が無い、という事よ」
「だから、意味がないとはどういう事ですか?」
アールが堂々巡りになりそうだと思いつつも問いを重ねると、女は首をかしげた。
「何? もしかして貴方の目的は竜退治じゃないの? 私の勘違い?」
「勘違いじゃありませんよ。僕は竜を倒して英雄になるつもりです」
アールは自信をもってはっきりとそう口にしたが、英雄という言葉に女は苦笑した。冗句だと思ったのだ。
だが本気であるアールはそれを侮蔑と受け取った。
顔に出たのだろう。女は目をぱちくりさせて頭を下げた。
「あら、ごめんなさい。竜を倒して英雄になるのも、一つの立派な夢よね」
「そんな事より、無駄とはなんですか?」
謝罪を受けて、一瞬のいらつきを霧散させたアールは再度質問した。
今度こそ、女は答えてくれた。
「大勢で山に入れば、王竜は警戒するわ」
「つまり、警戒して王竜王カジャクトは奥へ引っ込むと?」
「さぁどうかしら。自分から出てきて迎え撃つかもしれないけど、でも多分、人間が何をやろうと無視してる可能性が一番高いわ。だから一日じゃ終わらない。一週間から二週間、長い目で見て一ヶ月ぐらい探索を続けないと王竜王は見つからないわね。今出てった一団が戻ってきて補給するだろうから、入れ違いに動くのがいいわ。私だったらそうする」
大勢で出かければ、王竜王はともかく、若い王竜は刺激されて怒り狂い、戦うはめになるかもしれない。あの集団なら、どれも王竜の二匹や三匹ぐらい同時に相手できるだろうが、山の中が混乱するのは間違いないだろう。
それなら、誰も出歩いていない時に単独で行動した方が安全で、かつ山の奥まで少ない労力で探索できる。女はそう言っているのだ。
情報収集は他の集団の作った痕跡からでも十分だ。
「ま、無駄と分かっていても逸る気持ちが抑えられないなら、行きなさい。げぷっ」
彼女はそう言って、下品なゲップをかました。
アールは女の言葉に納得し、椅子に座りなおした。
「詳しい話を聞きましょう。僕はアレックス=ライバック。アールと呼ばれています」
「ライバック……ライバック? どこかで聞いた事があるような気がするわね。地方の有力貴族だったかしら……?」
「ええ、地元ではそこそこ名前の売れている家だと思いますよ。こんな遠い異国の地で知っている人がいるとは思いませんけど」
「北の方の方なのかしら? 顔で判断して悪いけど、北方大地のテツガン冷原のあたりとお見受けするけど?」
「まさか、もっと東ですよ」
「そう……随分田舎から来たのね」
テツガン冷原の東にはもう彼女の行ったことのあるような国はない。脳内の地図を見ながら、適当に相槌を打つ。
「助けていただいたお礼を言うのが遅れてしまったわね。ありがとうアール。そして初めまして。私はシャイナよ。シャイナ=マリーアン」
妖艶な笑みを口の端に貼り付けて、優雅に一礼。
「職業は放浪騎士。傭兵と言い替えてもいいけど、一応、まだ騎士のつもりよ」
そう言って手を差し伸べる。
アールはそれに応じ、二人は握手を交わす。
「放浪騎士ですか、カッコイイですね」
そのメイド服はなに? という問いは喉の奥に飲み込んだ。
シャイナは苦笑した。
「そんなにいいものじゃないわよ。要はどこの騎士団にも入れてもらえない、家無し騎士なんだから」
騎士は、国王の任命を持って騎士となる。戦で手柄を立てたとか、剣の腕が立つとか、理由は様々だが、誰でもなれるというものではない。礼節を重んじ、作法をわきまえた者にしか、騎士の称号はもらえない。
王が騎士の称号を与えるわけだが、騎士は国が滅んでも騎士と名乗っていいことになっている。これを放浪騎士と呼ぶ。仕えるべき王家を持たぬフリーの騎士だ。
騎士は傭兵とは違う。根本的に仕事が違う。騎士は戦うだけではない。野卑なる傭兵と違い、高貴なる騎士は祭典や礼典の時にも役に立つ。他国への折衝の際、護衛として腕のたつ騎士が配下に居ないとき、放浪騎士を雇ってその護衛の任に当たらせることも多い。
放浪騎士も様々だが、国によってはそれこそ傭兵さながらの荒っぽい働きも期待される所も多いだろう。
恐らく彼女は、儀礼だけに出るようなナヨっちい騎士ではなく、実戦において最も頼りになるタイプだ。
アールは彼女の手を握ることでそれを察した。この手は式典の際に振り上げるだけの軽い儀礼剣を扱う手ではない。使える者の手だ。
だからアールはにこやかに笑った。
「どこの騎士団にも入れてもらえないなどご冗談を、引く手数多でしょう?」
シャイナは興味深そうにアールの手を揉んでいた。
「アール君こそ、竜退治を志すだけあって、中々の手並みね」
「ええ、僕は強いですよ」
「自分で言っちゃうなんて、大した自信ね」
「自信と覚悟がないと勝てませんから」
アールはそう言って手を離した。
「ごちそうさまでした」
と、同時にテーブルにコップが置かれた。
凛々しい顔立ちの少女が、一息を吐いてアールの目を射抜いた。
実際には、ちょっと視線を送っただけなのだろうが、射抜くという表現が相応しい、力強い眼力だった。
「お前のお陰で助かった。チキは、チキータという。名前だ。覚えてくレ」
そう言ってアールに手を差し伸べる。
「チキは殺し屋をやっていル。ココには仕事できた」
アールの手が一瞬だけ止まりかける。
が、職業に貴賎なし。
殺し屋は職業だ。殺人鬼とは違う。
「アレックス=ライバックです。アールと呼んでください。チキさん」
「わかった。アール。そレにしてもあの荒野を二人担いで踏破すルとは、すごい体力だな。何を食ったらそうなルんだ」
「そうでもないですよ。二人とも、あと少しという所まできていましたからね」
アールはこともなく言った。
何もない荒野とはいえ、たかだか一週間の旅路だ。水と食料と、十分な装備を持っていけば誰でも踏破できるはずだ。
アールに言わせて見れば、どうしてあそこが死の荒野として旅人から敬遠されているのか分からないのだ。
「ああいった荒野の旅の仕方にはコツがあるんですよ」
「コツ?」
「そう、例えば、死肉をあさる砂虫は実は食べられるし、結構栄養豊富なんですよ」
チキは嫌そうな顔で握手していた手を離した。
死肉をあさっていた生物を食べたということは、つまり死肉を食ったのと同じような意味だ。悪食にも程がある。
「砂虫は乾燥肉一切れで釣れますからね。あいつら、地中の奥底の湿った部分に住んでるから水分も豊富ですし。あの荒野を旅する必需品ですね」
チキは嫌そうな顔のまま首を振った。
「チキは都会っ子だ、ムシなんて食いたくない」
「そうですか。僕の田舎では皆普通に食べてるんですが……確かに美味というわけでもありませんし、そんなものですかね」
味の問題じゃないのだが、アールがそれで納得するならと、チキは何も言わなかった。
出会ったばかりの命の恩人の趣味趣向に文句をつけるほど、チキは恩知らずではない。
「虫も食べられないで行き倒れるなんて、チキさんは旅が得意ではないのですか?」
「そんなことはないぞ。チキはスゴ腕の殺し屋だ。今回のはちょっとしたミスだな」
「なるほど、シャイナさんもそうなんですか?」
アールは二人の話を黙って聞いていたシャイナに話を振った。
「私はミスじゃないわよ? 出掛けにあの鎧を着たまま一人で荒野を踏破できるわけないって挑発されてね、意地を張ったらあの様よ」
「それで死んだらどうするつもりだったんですか……」
呆れたアールの言葉をシャイナはどこ吹く風で流した。
「こうして生きてたどり着けたのだから、別にいいじゃない?」
「騎士の言う通リだ」
チキは大きく頷いた。
「そうかもしれませんけど……」
言いながら、アールは自称スゴ腕の殺し屋少女を観察する。
なるほど、確かに物腰は鋭い。その腕前の深い部分までは窺い知れないが、少なくとも、そこらの路地裏で息巻いている自称殺し屋のような素人臭さは無い。
だが、背も低く、全体的に小さい印象を受ける彼女が、正面きって誰かを殺しにかかる場面は想像が付かなかった。
もしかすると、暗殺者に近いのかもしれない。小さい体を利用してどこかに忍び込んだり、人ごみにまぎれて後ろから刺したり。それなら想像が付く。
先ほど彼女は仕事で来た、と言ったが、彼女が誰を殺すためにこの国に来たのか、アールはあえて聞かない事にした。あまり興味が無かった。
英雄とは人を救うものだが、殺しを否定する者ではない。
アールが誰かを救ったことで、別の誰かが死ぬかもしれない。
チキが誰かを殺すことで、別の誰かが救われるかもしれない。
一歩先まで考えれば、どちらも同じことなのだ。アールもチキも、仕事でやっているに過ぎないのだ。
「時に、アールとやラ」
「なんでしょう」
なにやら改まった表情で
「オマエは命の恩人だガ。チキは金を持っテいない」
「ここの支払いなら、気にしないでいいですよ?」
チキは首を振った。
「……いやそレもあるが。チキは命を助けらレたのた」
「そうですね」
「チキは人の命を奪う仕事をしていル。命には値段があルのだ。ならば助けらレたのなら、相応の対価を支払うべきだ。わかルか?」
「わかります」
壊すのに料金がいるなら、作るのにも料金がいる。
殺すのに金が要るのに、助けるのに金が要らないなどあってはならない。
それが彼女の殺し屋としての理論なのだろう。
「でも、僕は助け屋ではないので金銭は要りません」
「ふむ、しかし何も無しではチキの気が収まらん」
「と、言われましても……」
自分に何かを要求しろ、と解釈したアールは顎に手を当てて考え込み、やがていい事を思いついた、とばかりに手を打った。
「どうしてもと言うなら、体で支払ってください」
「……なぁっ!?」
チキは眼を見開き、頬を染めた。
そのまま目をぐるぐるさせて数秒間硬直した。その後、おろおろと周囲を見回し、隣に座る女が冷めた目線をアールに送っているのを見て、言葉を飲み込んだ。
睫が伏せられる。
「そうか、体か……いいだロう。しかし、チキは見ての通リ貧相な体だ。アールを満足させラレルとは思えない。そレでもいいのか?」
「貧相なんて謙遜はしないでください。僕はチキさんをここまで担いできたんですよ? 強靭なバネと柔軟性を併せ持ち、活力に満ち溢れた素晴らしい肉体です」
「そ、そうか? そういうことを言わレるのは初めてだ。熱烈だな。うん。こういう場面は何度か目にしてきたが、面と向かって言わレると照レルものだな。あー、なんだ、ええと、そのだな。ベッドの上では優しくしてくレよ?」
チキは頬を真っ赤に染め、体をもじもじさせながら上目遣いにアールを見る。
アールはその様子に首を傾げていた。
「ベッド? いえ、山で頑張ってもらうつもりですが」
「ヤマ!?」
チキは驚愕した。彼女は耳年増な少女だ。ああいった行為は本来は屋内でやるものという知識はある。屋外でするのは上級者の技だ。
「恥ずかしながらチキは初めてなんだ。せめて……」
不安そうな声を、アールが遮る。
「大丈夫ですよ。僕も始めてですから。だからこそ山です」
自信満々に言うアールの言葉に、チキの心中に生まれたのは純粋な驚きだった。生物が誕生してからずっと続く営みは日々進化を繰り返しているということだろうか。思い返せば、少ない知り合いの誰かがそんな事を言っていたような気がする、青い空の下、開放感に包まれながら、しかし危機感に煽られながらやるのが一番だ、とかなんとか。
「だ、だからこそ、なのか……知識が無くてすまないが、初めては、山でやルのがいいのか?」
「城とかも憧れますけどね、暗い森の奥で、昔魔王が住んでいた古城なんか」
「ほ、ほう、そレはロマンチックだな。うむ、そっちは理解できルぞ」
「でも、やっぱり竜退治は山じゃないと」
「………………………………竜退治?」
聞きなれない単語を聞いて、チキは俯かせていた顔を上げる。
「相手は王竜王カジャクト。一筋縄では行きませんからね、僕も仲間が必要なんですよ」
時計の針が三秒ほど進む頃、チキの上気していた頬は普段どおりの色に戻っていた。
隣に座り、口に手を当てて目をニヤケさせている女騎士をにらみつけた。
「おい騎士。今のチキは馬鹿みたいだったか?」
「ものすごく馬鹿みたいだったわね」
「ふん! だロうな。チキもそう思う」
鼻息一つ。
チキは腕を組んで視線をアールに戻した。若干、見下ろすように顎を上げて。
「竜退治。いいだロう。チキは人間専門だが、連レて行けば何かの役に立つこともあルかもしレん。命分の働きはしよう」
「ありがとうございます」
アールは自分よりもずっと若い少女に深く頭を下げた。彼は王竜王とて一人で倒せる自信を持っているが、他の誰かに先を越されたら元も子もない。探索は人手が多い方が絶対に有利なのだ。
一人より二人、二人より三人。アールは視線をシャイナに向ける。
「それで、シャイナさん」
シャイナは嫌そうに顔をゆがめた。
「何? 私はいやよ?」
「しかし、シャイナさんもここには竜退治にこられたのでしょう? 先ほどのシャイナさんの真否眼には感服しました。是非とも僕に力を貸してください」
「イ・ヤ・よ。足手まといは連れて歩かない主義なの」
完璧な拒絶の声。駆け引きではない。彼女に要求するものは何もない。
しかし、アールは諦めきれない。
彼女は慣れている。まさか竜退治はしたことがないだろうが、多数の組織だったグループと競い合い、それを出し抜いて勝利する術を知っている。アールは竜を倒す自信を持っていても、一番最初に竜にたどり着ける自信まではない。そこは専門外だ。
アールは竜退治をしたいのであって、竜探しをしたいわけではないのだ。
竜探しにおいて、きっと彼女は頼りになる。是非とも同行して欲しい。
ダメならダメ、と、いつもなら考える所だが、チキが手伝ってくれると言ってくれた手前、あわよくばという欲もある。
とはいえ、どう説得したものか。
悩むアールは言葉を持たない。
「おい騎士。オマエの主義は命よリも重いものか?」
助太刀はすぐ近くから来た。チキだった。
シャイナはチキにねめつけるように見上げられ、眉をハの字にして苦笑した。
「それを言われると辛いわね」
「なラ、手伝ってやレばいい。そレとも報酬を独リ占めしたいのか?」
「そうじゃないわよ。私一人じゃ王竜なんて倒せないわけだしね……でもね、うーん……どう説明したものかしら……」
シャイナは腕を組んで唸る。
彼女には彼女なりの理屈があって、それに従って断ったのだろうということはアールも察していた。
確かに命の恩は返さなければならない。騎士とは義理と名誉で動く職業だ。放浪騎士であってもそれに違いは無い。それでも渋る理由があるのだろう。
「アール君は、どうして竜を退治したいの?」
シャイナはしばらく唸った後、そんな質問をしてきた。
結論を少しだけ後回しにし、外堀を埋めることにしたようだった。
「どうして、と言われましても」
アールは苦笑した。
「お金のため?」
「いいえ。僕は自分でいうのもなんですけど、いい所のお坊ちゃんですからね。なんなら、報酬の金銭は差し上げても構いませんよ?」
こともなげにそう言う。
「あら太っ腹ね。じゃあ、あの魔族の鍛冶師が打った剣が欲しいの?」
「いいえ、我が家に数百年も伝わるこの宝剣が僕の相棒です。少なくとも、これが折れるか何かして使えなくなるまでは、他の剣は使いませんよ」
背中に背負った剣の柄に手を当てて、こともなげに、そう言う。
「そう欲がないと、何か変なことを企んでいるんじゃないかって疑ってしまうわね」
「欲はありますよ」
「そうなの? じゃあ何が欲しいの?」
「僕は英雄になりたいんです。ですから欲しいのは、名声ですね」
「名声? はっ!」
そんな単語をシャイナは一笑に付した。
今度こそ、本当に侮蔑の篭った笑いだった。
アールとて、今の世の中で名声や英雄がどれほどのものか知っている。
名声。
それは手に入れるものではない。いつの間にか重石のようにくっついているものだ。
一度戦場に身を晒せば誰もが手に入れる可能性を持つ、ごくごくありふれた代物だ。戦場で生きてさえいれば、おのずと手に入る。名声とはそんなものだ。
アールは侮蔑の篭った笑みを受け、しかし、先ほどのように不機嫌そうな顔にはならなかった。
軽い気持ちで侮蔑されたのならアールもイラっとするが、彼女の場合はもっと重い。名声という言葉に激しい嫌悪感を抱いているのだ。
「そんなものを手に入れてどうしようというの? 名声を手に入れて、英雄なんて呼ばれるようになってどうしようというの?」
「何といわれようと、王竜王カジャクトを倒して、名声を得て竜退治の英雄と呼ばれることには、意味があるんですよ」
「そんな事に意味は……」
「あるんですよ」
アールはかみ締めるように、もう一度言った。
シャイナが名声という言葉に嫌悪感を抱くのはいい。だが、名声を得ようという意志自体は悪くないのだ。
それに、アールがなりたいのは、世間一般的に言われているそれではない。
もっと私的で、しかも偶像的なものだ。
だから、アールはシャイナを、ただ見つめた。
「……」
「な、によ……」
シャイナは口をつぐんだ。
たじろいた。
息を呑んだ。
「意味は、あります。少なくとも、僕にとっては」
アールにはそうとしか言えない。
もし意味が無いのなら、自分はこんな所にまで来てはいない。
英雄と呼ばれる事には、意味がある。なくてはならない。
アールは英雄に憧れているが、しかし憧れだけで英雄になろうとしているわけではない。
その複雑な気持ちを、言葉で表す自信は無かった。アールは弁が達者な方ではないのだ。一から説明しようとしたら、自分でもよくわからなくなるに決まっている。
だが、ただ一つだけ、言える事があった。
「お願いします。王竜王は、父の仇でもあるんです」
アールはそう言って頭を下げた。
どれぐらいそうしていただろうか。
シャイナがふっと肩の力を抜いた。
「……わかったわ。そこまで言うなら手伝ってあげる」
「それじゃあ……」
アールが喜色に染まった顔をあげると、シャイナは「ああ」とため息をついて天井を仰いでいた。葛藤の中、天秤がどちらにも偏らず、結局、自分の望まない方を選んでしまった時のような顔をしている。
「でも一つだけ約束して。取引じゃないわ。約束よ。これを守ってくれるなら、王竜退治だけじゃなくて、ずっと仲間でいてあげてもいいぐらい、大切な約束よ」
「僕に守れることなら」
神妙に頷いたアールに、シャイナは力ない目線を送った。
泣きそうな顔にも見えた。
「簡単よ」
顔とは裏腹に、本当に簡単そうに、簡単な事のように言う。
「何かあって、危なくなったら、私を置いて逃げて欲しいの」
アールはにっこりと微笑んだ。
「なんだ、そんな事ですか」
即答であった。
この正義感ぶった少年は断るだろうと、その場にいた少女は思った。
そんなことは出来ないと首を振るだろうと。
「お安いご用です」
直後、チキの噴出した茶がアールの顔に掛かった。