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小娘つきにつきまして!  作者: 甘味処
2幕 学校の噺
8/23

#7 惨憺たる結果

 僕が通う高校の授業は通常六限で終わるのだけど、月曜だけは七限目まであった。ゆとり教育改善システムだかなんだか知らないが、鬼畜な教師たちは週が始まって早々、僕ら学生の心をくじきにかかるのだ。とはいっても、僕は楽しみを後にとっておくタイプの人間なので、嫌なことは週初めに起こって欲しいと思う。


 今日は、一限目の日本史から始まり、七限目の体育で終わるという、なかなかにきついカリキュラムが組まれていた。朝っぱらから体育があるのも面倒な話だが、最後の最後を体育で締めくくるのもいささか面倒な話であった。


 正門から下駄箱へ行き、靴をはきかえ、教室までの廊下を歩く僕。


 道中、沙夜さよは影の中から顔だけ出し、一辺のようすをうかがっていた。不恰好な姿勢のまま僕と並行しているので、傍から見るとその光景はさも床下を泳いでいるように映る。そんなこともできるのか、と僕は唖然とさせられた。


 興味深い物を見かけるたびに沙夜は、『あーー! ご主人様、見てください、額縁に絵が飾ってありますよっ! バッハですか? ゴッホですか?』とか、『きゃー! これが職員室というやつなのですねっ!』とか、初めて日本に訪れた外国人のようにハイテンションで感嘆の声を発するのだが、ことあるごとに構っているのも面倒くさく、放っておくことにした。


 時々僕が、「ああ」とか、「そうだな」とかいう何気ない相づちを打つと、沙夜はさぞかし嬉しそうな顔をする。僕の方へ意味もなく笑顔を向けてくる時もあった。心を許したわけではないけれど、彼女のこの表情はなんとなく好きだったりもする。


 手すりが所々錆びているほこりっぽい階段を上ると、細長い廊下に出た。右方を向けば、窓を通して中庭が一望でき、左方を向けば、1A、1B、1C、1Dの順に四つの教室が整然と並んでいる。ちなみに突き当たった先には視聴覚室があった。


 僕は1年A組なので、僕らから見て一番手前にある教室が僕のクラスルームだ。そのように教室の場所を教えてやると、沙夜は影から飛び出てきて、転校初日の学生のようにそわそわしながらドアの前に立ち、


「ご主人様、早く行きましょうよ~!」


 僕を急かした。


 別に待たずとも勝手に入ればいいのに、と他人事のように思ってから僕の脳内に沙夜の言葉が蘇った。


 ――『きものは普通に生活しているだけです。ただ、一般人に見えないというだけで、これだけの混乱をまねくことになるんですね』


 そうか、沙夜がドアを開けてしまえばそれはもう完全に心霊現象だな。このようにして科学では説明できない怪奇現象が世の中に生み出されるわけだ。目からうろこがはがれるような感触を覚えながら、沙夜の代わりにドアを開けてやった。


 すると、開いたドアの先には精悍せいかんな面構えをした坂土泰誠さかつちたいせいたたずんでいた。どうやら、眉目秀麗な彼が、ちょうど、教室から出ようとしていたところに僕らは出くわしたらしい。


 登校時同様、またしても沙夜の方に気を取られていたので、僕は異様な表情をしていたのだろう。泰誠が心配そうな顔付きで僕の顔を覗きこんできた。


 いや、心配してくれるのはありがたいが、お前に覗きこまれたところで微塵も嬉しくない。イケメンだというのだから、余計に腹立たしい。


 僕はまじまじと見つめてしまわないように目をそらした。泰誠は肩をすくめながら薄く笑う。


「よぅ、あっちゃん。大丈夫か? なにかに取り憑かれたような気の抜けた顔してるぜ?」

「ははは……。おはよう」


 正解。勘がいいというかなんというか……。


「それで、今からお前はどこに行こうとしていたんだ? もうホームルームが始まる時間じゃないか」


 僕はそんなことを泰誠に聞いてみた。


 泰誠が他クラスへ遊びに行くというのは考えられない。なぜならば彼は寒い日になると、猫にこたつ、締切追われた小説家に仕事場、といった具合にひどく出不精でぶしょうになるからだ。


 そうはいっても、トイレかな、トイレだろうな、トイレに違いない、とタカをくくっていたので、僕が発した言葉は、なんとなく問いかけたに過ぎなかった。


 しかし、泰誠の口から見当違いのものが返ってくる。


「ほら、一限目が体育のクラスがあるだろう?」


「まぁ、あるんじゃないか?」


「女子更衣室前の空いたスペースにゴミ捨て場があるだろう?」


「………………まぁ、あったような気がしないでもない」


「そこに置かれた大きなゴミ箱の中で張り込んで、着替えを終えた女子生徒が――」


「それ以上しゃべるな」


 そろそろ周りの目を気にし始めた僕は、彼の発言をさえぎった。


 泰誠の言葉を通訳すると、つまり彼は、女子更衣室から出てくる女子生徒を寒空の下で覗く、と言っているのだ。ただし、泰誠の人間性のためにひとつだけ弁解させていただくが、着替えているさまを覗くわけでなく、出てきてわずらわしそうにグラウンドへ向かう女子生徒を彼は覗き見ようとしているのだ。


 ――『お前にはわからないだろうが、女子高生ってのは、ああいった油断している姿が一番魅力的なんだよ』


 なんて話を彼の口から聞いたことがある。もちろん、僕にはわからない。わかりたくもない。わかってたまるか。


 根性という点においては、そこらの刑事よりも張り込みの才能があるような気がした。ある意味では、警察のお世話になる確率ナンバーワンの生徒もこの男な気がするわけだが。


「そりゃねぇよ!」


 聞こえる泰誠の声を背において、僕は自分の席に腰を下ろした。沙夜は影の中へ身を収める。


 僕の席は、試験時の並びとは打って変わって、ストーブから一番離れた右列の最後尾だった。かじかみつつある手を所在しょざいなげに口元まで運び、息で温めていると、沙夜が女子特有の直感を発揮したのか、影の中から僕にこんなことを問いかけてくる。


『ご主人様。あれが、変態ってやつですか?』


 それも正解。

 大正解。


 僕は強く誓う。泰誠と沙夜を巡り合わせてはなるものかと――。


 沙夜のような可憐な少女に口づけをせがまれたら、泰誠は二つ返事でそれに応じるだろう。受け入れる泰誠も泰誠だが、要求する沙夜も沙夜だ。そう、ある意味ふたりは変態同士なのである(以上の話は勝手な想像に過ぎないけど、九分九厘確信している)。なにかのきっかけでふたりが対面してしまえば、妙な化学反応が起きかねない。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「この時の事件が、影響して――えぇ、のちに総理大臣に――」


 いつもは冗長じょうちょうに感じる日本史の授業も、沙夜と“思い”で会話をしているためか、やけに早く感じられた。“思い”を飛ばすという異質な手段で会話している僕らは、私語を慎めと怒られる心配もない。


 部活動の話や文化祭の話をしてやると、沙夜は大きく首を縦に振りながら、やっぱり嬉しそうな顔を僕に向けるのだった。屈託のない笑顔を向けられ、面映おもはゆい気分になった僕は顔を背けたりとしていた。


『ご主人様は部活動に参加していないんですか?』


『参加したくなかったんだよ。ああいうのって、夜遅くまで練習したり、集会開いたりするもんだろ? だから、その……』


「あー! 夜は恐かったんですね! ご主人様は幽霊という存在を信じてるから!」


「まぁ、そういう、ことだ……」


 ちなみに、今、沙夜の身体は外に出ているが、足元だけは僕の影と繋がっているため、この状態も半憑依状態に値する。よって、この体勢で授業を受けていても、沙夜の体内の妖力が切れる心配はないし、“思い”だけで会話をすることも可能だ。


 授業中は、基本的に僕が話す日常的なことを沙夜が大きなリアクションで聞く、という形で雑談をしていた僕らだった。


 沙夜の口から興味深い話が飛び出したのは、三時限目の物理の授業中だ。


 机の端に両手を乗せて、手の甲にあごを置いている少女は、(先生が板書した事柄をノートに取っているのに邪魔くさいと内心で思っている)僕にこう告げた。


『私はこう見えて盗みのエキスパートなのですよ?』


『え? なんの話だ?』


『だから、昨日説明したじゃないですか、私の使い方ですよ!』


『あー』


 昨夜、沙夜から聞いた話では、沙夜は他人に悪害をもたらす側の憑きものらしかった。


 憑きもの、と一概にいっても、彼らの力は“取り憑く”だけではなく、おとしめる手段は権謀術数けんぼうじゅっすう、多数ある。そしてそれらは、憑きものによって大きく違ってくるらしい。


 沙夜の手口は、彼女が先ほど口にした通りで、他人から情報や物を盗んであるじに手渡す、というものだった。それを使い、主が憎しみを持った相手に脅迫でもなんでもして利益に変える。他人に不幸を与え、主が幸福を得る、そういった原理だ。


 そんなことを誇らしげに語られたのだが、僕には無垢むくな沙夜に似つかわしくない卑劣な手口であるように聞こえてならない。


 数学の試験の解答用紙を用意できたのもその力を発揮したからだ、と昨夜述べた。学校に入るのではなく、数学教師、竹内の自宅に忍び込んでとってきたのだと――。しかも、窓から侵入し、書斎を漁って盗み出してきたというのだから、その大胆な犯行には脱帽せざるを得ない。


 きっと、その過程の手違いにより、間違った用紙を盗んできてしまったのだろう。そんな間抜けさから、沙夜のことを憑きものとしてはあまり有能であるとは思えなかった。いや、だからといって、沙夜に対して侮蔑的な意識は持ったりはしない。


 それは沙夜に向けての猜疑心さいぎしんがないから、という話ではなく、単純に興味がなかった。当然、沙夜を使って悪事をたくらもうなど考えてもいないので、どちらかといえば、狡猾こうかつさが抜けている彼女を見て、僕の心中は安心させられたぐらいだった。寝首を掻かれる事態はなさそうだ。


『ふふふふふふふ、ご主人様、私の力、見たくないですか?』


『いや、そのお手並みはこの間拝見させてもらったよ、結構なお手前で』


 数時間後に数学の試験が返ってくるという、絶望的状況下に自分が置かれていることを思いだし、僕は嘆息たんそくする。


 その元凶である沙夜は、顔に反省の色を見せることなく、僕の世辞せじを皮肉と捉えたのか、むしろ、怒るように息を荒げた。


 僕、なんか間違ったこと言っているか、いや、言ってないだろう。


『ひょっとして、バカにしてます? バカにしてますよね?』


 詰問する沙夜は、顔を目と鼻の先まで近づけて、両手を僕の膝上に叩き付けるように置いてきた。


 まばたきをしているうちに急接近されたので、僕は色々な意味でかなりどぎまぎさせられる。驚いた拍子に身じろいで、椅子を鳴らしてしまったために周囲の生徒が僕の方を見た。僕は愛想笑いを湛えながら、咳をすることで、無理にその場をごまかす。ごまかせたつもりだ。


 沙夜に突然動かれると迷惑だ。普通に話している時ですら、不信な動きにならないよう、結構無理して無表情でいるというのに――。


『バカにはしてないよ。よくも散々な目に遭わせてくれてありがとな、と言っているんだ』


『む~。やっぱりバカにしてるじゃないですか!! いいですよ! あなたが私を使役するというのならば、本領発揮しましょう! 今現在、欲しい情報や欲しい物とかってあります?』


 いやいや、使役するなどとは一言もいっていないんだけど?


 しかし、正直なところ、“憑きものとしての沙夜”に若干の興味があった。“小娘”ではなく“憑きもの”としての沙夜に。なので、僕はリクエストを言うことにする。


『んー、そうだな。じゃあ、泰誠の鞄の中から漫画を取ってきてくれ』


 そう僕が大雑把に依頼すると、


『ふふふん、任せておいてください!』


 沙夜は鼻を鳴らしながら覚束おぼつかない足取りで、最前列で授業を受けている泰誠の席を目指し、ふらふら~っと歩き出した。


 物品を盗み出すわけなので、ニンジャの如く、抜き足、差し足、と忍ぶのかと思いきや、普通に歩いていった。一般人には姿が見えないのをいいことに、物陰に隠れる気すらないらしい。途中、鼻歌まで歌いだす始末だった。


 それと沙夜は“歩く度に人に迷惑をかけるスペシャリスト”のようで、机にかけてあるカバンを落としたり、教科書を倒したり、とさまざまなポルターガイストを無意識的に作り上げていった。被害に遭った生徒は、些細なことなので気にも留めていないようすだ。


 寝ている生徒の足を引っかけた時は笑いそうになった。居眠りしている生徒が急にびくっと身体を揺らすという、授業中によく見かける怪奇現象の理由がわかった気がしたからだ。


「おーい、寝るなよ」


 穏健な物理教師の声により、教室が一時笑い声でざわついた。問題となった生徒は、なにが起きたのかわからず頭をかいている。ちなみに、事の発端である沙夜はその場で顔を引きつらせていた。


 結果、一分もかからないうちに(むしろ遅いぐらいだが)、沙夜は僕の席までこれまたゆるゆると戻ってきて、僕にドヤー、とした表情を見せた。


『ふふん、ご覧になりましたか? 私が本気を出せば、このような任務など造作ないことなのですよ、はい!』


『はいはい。よくやったな。それで――』


 と言いながら、僕は片手を小さく突き出し、漫画を手渡すように促した。


『まぁまぁ、そんな焦らなくてもいいじゃないですかー。私の力を見たいがために漫画本を要求したわけであって、別に本が目的だったわけじゃあるまいし♪』


 沙夜と話すのに飽きてきたから、漫画を取ってきてくれと要求したことは、口が裂けても言えない。


 僕はもう一度、早く漫画を出せ、と片手を突き出して催促した。そこで、ひとつの疑問が僕の中で生まれる。泰誠のカバンから漫画本を取り出して抱え込むところまでは見ていたのだが、今目前に立つ彼女の付近には、どうしても、その本の姿が見つからない。


 沙夜は取り出した漫画をどこへやった?

 これこそまさに怪奇現象のようにふっと消えたみたいだった。


『待ってください、今差し上げますから。よいしょ♪』


 と年寄りくさい“思い”を発しながら、沙夜は“身に纏っているゴスロリ調の服をたくし上げた”。スカートの裾から蝶ネクタイが付けられている胸元までの衣服を両手でたくし上げたのだ。彼女の身体が教室内で堂々と露わになった。


 ………………………………は?


 僕はしばらくの間、明鏡止水の境地に立たされることとなる。


 邪念を捨て無心になった。


 数秒して僕は悟った。痴女の卵が孵化したのだ――と。


 完全に言葉を失った僕を余所に、沙夜は何事もなかったかのように、“胸と服の隙間から”漫画を取り出した。彼女の鎖骨辺りに小さなシェルターのようなものが取り付けられており、その中に入れていたらしい。逆に言えば、シェルター以外に少女の身体を覆うものはなかった。つま先から胸元まで――。


『な、なななななな……』


 僕は思わず何度も生唾を呑んでいた。授業中にいかがわしいことをしているような背徳心も極まり、健全な学生である僕にとっては、余りにも刺激が強すぎる。まるで、深呼吸している最中に強烈なボディブローを叩き付けられた気分である。


『な、なんでそんな所にしまったんだよ!』


『えへへ、こうしておくと一般人の目を盗むことができるんです。こんなの序の口ですよ。前、ご主人様に渡した解答用紙だって、このようにして持ち運びしましたから』


『へ……へぇ、そうなんだ』


『はい、ど~ぞ♪』


 手渡された漫画は彼女の体温で生暖かった。僕は満面の笑みの沙夜に謝辞を告げ、学習机で隠しながら漫画に目をやった。とてもじゃないが沙夜とは目を合わせられない。僕がすぐさま漫画に視線を投げた理由というのも、呼吸を落ち着かせるための逃げ場を探したかったからだ。ちなみに、本の表紙には淫靡いんびな色合いをした活字でこう書かれている。





 『半熟・絶対服従宣言っ!』と――。





「ぶほぁっ!!!! ごほごほごほっ!!!」



 僕はついに驚嘆の声を盛大に吐き出してしまった。沙夜の異端な行動ばかりに気を取られていた僕は侮っていた。泰誠の爆発的な変態力を――。


 今度はボディブローを叩き付けられた後に座薬を突っ込まれた気分だった。


 ……ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待て。


 なんの冗談だよ! 変態しかいないのか僕の身の周りには! どうして、男子高校生の学習カバンの中からエロ本が出てくるんだ! 学校に持ってきたって用途がないだろ! 用途が!


 たちまち、「なんだ? どうした?」とクラス内が騒然となり、全員の視線が僕の方へ向けられる。僕は咄嗟な判断で、膝に落ちた本を後生大事に両手で抱きかかえると、見られてしまうことを回避すべく、壁の方へ半身を向けた。


「どうしたんだよ、あっちゃん」


 酔狂じみた僕の行動はさすがに不自然だったようで、前の席にいる眼鏡をかけたクラスメイトが僕に囁きかけてきた。全身から汗が滝のように流れる。


「す、すまない。放っておいてくれ」

「あっれー? あっれれー? なんか今、隠さなかったか?」

「頼む、一生のお願いだ。放っておいてくれ」


 ここで、このいかがわしい本が白日の下にさらされてしまっては、間違った性癖が暴露されると同時に、学園生活が終わりを迎えてしまうことになるだろう。心臓がきゅーーーっと縮んでいくのがわかる。冷静沈着な僕が涙目になるほどの危機だった。


 万事休すか。


 さようなら、学園生活。

 こんにちわ、暗黒時代。


 眼鏡の生徒になれなれしげに肩に手を掛けられたので、僕は目を瞑って諦めかけた、その時。


「おーい、騒がしいぞ。特に後ろの方、前を向けー」


 奇声も私語とみなしたようで、僕をやり玉に挙げることなく物理教師は手慣れた対応でこの動乱を鎮めた。その後すぐ眼鏡の生徒が気だるそうに前方へ向き直る。


『た、助かった……』


 寛大な物理教師の鶴の一声によって僕の学園生活は延命処置を施されたのだ。今まで特になんとも思っていなかった教師の名を、僕は頭の中に存在する将来の恩師候補リストに記名した。


 危機が去ってもなおびりびりとする神経を落ち着かせて、僕は手中に目をやった。


 そして、ぎょっとする。


『あ……れ? あれッ!?』


 そこに抱え込んだはずの例の本が忽然と消えていたのだ。この事態には極限に焦って、すぐさま周囲に視線を走らせた。そして安堵の吐息をつくことになる。教室のすみっこ、僕に背を向けて沙夜が例の漫画を眺めていたからだ。


『び、びっくりさせるなよ……』


 いつの間にか沙夜にかすめ取られていたようだ。そんなことよりも、


『うふ、うふふ、うふふふふふ……』


 沙夜がいかがわしい本の表紙を恍惚こうこつとした表情で眺めているように見えるのは気のせいだろうか?


 そんな、まさか、もしや――。




 は、発情したのか!?




 沙夜はなにやらぶつぶつと呟いている。僕は身体を少しだけ動かし、おそるおそる彼女の言葉に耳をそばだてた。いや、実際のところは、本に心を奪われているのは事実だったが、みだらな内容に、ではなく、タイトルの活字について感動しているようすだ。


『ほわ~、「絶対服従」ですか~。これって~、なんだか~、憑きものである私としては~、素晴らしく魅力的な言葉です~、はい~』


『意味をはき違えているッ! お前にはまだ早いッ!! よこせッ!!』


 漫画を沙夜の手からふんだくると、彼女は顔をしかめて、あからさまに不機嫌な顔をした。


 というか泰誠よ。


 なんで学校にこんな本、持ってきたんだ?


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 一限目、二限目、三限目、と無事に終わり。迎えたのは問題の四限目。休み時間を終える鐘が鳴ったので、僕は手に汗握りながら席に着いた。判決を待つ被告人にでもなった気分だ。


 四限目、数学。


 そう、ついに数学の試験が返ってこようとしていたわけである。あのほぼ白紙で提出した数学の試験が――。今日は心臓に悪いイベントが満載だ、と失望しつつ、僕は名前が呼ばれるのを待った。


 じきに僕の名が呼ばれる。僕が教卓まで歩み寄る途中、数学教師、竹内は僕の目を見て、にんまりと笑った。この時僕は、嫌な予感が的中したのだ、と確信した。結果は見るまでもないだろう。


「わはは、敦彦、もっと頑張って勉強しろ、進路決める時になって後悔するぞ」


 なぜかとても楽しそうな数学教師。生徒の成績よりも、なにやら、生徒の平均点を大幅に下げることに成功した自分の試験にご満悦といったようすだった。教師としてあるまじきことではあるが、彼はしてやったり面をしている。


 僕の悲惨な結果を見て、一番嬉しそうにしたのはなぜか沙夜だった。僕が蒼白とした顔でロッカー前に立ちつくしている時に、彼女はにゅっと影から飛び出てきて、僕の答案用紙を覗き込んだ。点数を確認すると、目を細めてけらけらと笑う。


『わぁ、20点。ご主人様ってやっぱり愚かなのですね!』


『な! 一体、誰のせいだと思ってるんだよ……』


『人のせいにしちゃいけないですよ~。そもそも自分の勉強に、憑きものであるこの私を使おうなどという行為が間違っています。ズルはいけませんよー』


『ぐ、ぬぬ』


 もう少しまともな点数だったらば、目いっぱいに沙夜を怒鳴りつけていただろう。あまりの点数の低さに、沙夜をなじる気にもなれない。20点は予期していなかった。


 憑きものにあざけられる意味は判然としないけれど、かといって、沙夜に責任転嫁するのは間違っている。これは日頃勉強しなかった僕の自業自得、因果応報。結果を受け止め、認めて、呑み込んだ。



 ……吐きそうになった。



 ちなみに泰誠は75点。平均点である55点に大幅に水をあけた結果だ。


 それでも人並みに凄いのだけれど、後々聞いた話では、数式を書かなければならない問題に答えだけを書き込んだところで減点されただけであり、そこさえしっかり書き連ねていれば、満点だったというそうな――。


 なんともったいない頭だ……。


 天は人に二物を与えず、というが、あと一息で超人なのに、頭にだけバグが混入している坂土泰誠という人物をこの世に生み出した神様も、色々と意地悪だと思う。


 そんなこんなで、満身創痍の状態とはいえど、本日四時限目までを僕は乗り越えた。

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