#6 幼馴染み
沙夜と出会った日から土日が過ぎ、今日からまた学校が始まる。
学年末試験も終わり、僕はもうじき高校二年生になろうとしていた。けれど、それはまだ一ヶ月先の話。
二月を終えようとしている気候は冬風がまだ厳しいけれど、学ランの中にセーターを重ね着することは、もうしなくてよさそうだ。
僕は準備を終えて外に出ると、斉藤家の塀にもたれるようにいる制服姿の小早川奈緒の姿を発見した。奈緒は前に会ったとき同様、黒髪のショートヘアーをしている。さらさらっと整った彼女の髪の両サイドには桃色のヘアピンが付いていた。
北から吹く風で奈緒の髪がなびき、ちょっとだけ乱れたようだが、彼女は気にする素振りを見せることなく寒そうに両手の平をすりあわせていた。
ドアが開く音を聞き取ったのか、彼女は僕の方へ顔を向けて、おはよう――とは言わず、開口一番に準備の手際の悪さについて、文句を垂れてきた。
「あーちゃん、遅い。人を待たせていいのは女の子の特権なんだからね」
少し上ずった男勝りな物言いが、この少女の特徴だ。
「男の子にも色々あるんだよ。というか、それは化粧のやり方もろくに知らないお前がいえる言葉じゃないだろ」
「け、化粧ぐらいできるわよ! 失礼な!」「あはは、おはよう」「むぅ、おはよ……」
小早川奈緒とは、私立の高校へ通う僕の幼馴染みだ。家が近いという理由で小学校の時から現在に至るまで登下校を共にしている。ただし、色々とナーバスになるテストの間は一緒に通うことを控えていたのだった。
そんなやりとりが繰り広げられている一方、僕と一緒に家を出てきた沙夜は、いぶかしむように奈緒のことを見つめた後、そそくさと僕の影に隠れてしまった。
人見知りをしたというわけではない(一般人に姿は見えないので当然なことだけど)、隠れた理由は僕が外に出たからだろう。なぜだか、沙夜は室外では極力姿を現そうとしない。その理由はいまだに謎のままだった。
僕が視線を落として地面に出来上がった僕の影を見つめると、すでに影は僕のものではなく沙夜のものへと形状を変えていた。どういう原理かは知らないが、この状態のことを半憑依状態だということは、沙夜から説明を受けている。
憑きものが人間に憑依する時、彼らは人間の影の中へ入り込む。そして、内側から身体の動きを支配すると言うのだ。それを完全憑依状態と呼ぶ。
しかし、憑きものという生きものは、僕のように妖力の高い人間に、つまりは憑きもの筋に、取り憑くことができない。影に入り込むことはできるのだけれど、膨大な妖力がバリアーのような役割をしているために、身体の操作を牛耳ることができないのだと、
――『全く、面倒な話ですよ、はい』
昨夜、沙夜は僕に不服そうな顔を向けて訴えてきた。お前は僕の身体を乗っ取ってなにをするつもりなんだ?
半憑依状態の間は、中途半端に“影だけが”その憑きものの姿を映し出す、というのが、僕が沙夜と出会ってからずっと不思議に思っていた疑問についての解答だった。
なお、憑きものは憑きもの筋の協力がなくては、外に出ていることはできない。無論、その理由は、前例に従って憑きものは体内の妖力が果てると死んでしまうからだ。充電器のコードのような役割を影が担っていると言えば、知識がない人にもわかってもらえると思う。いわば、憑きものが“電子機器”で影が“充電器”、そして憑きもの筋が“電源”だということだ。半憑依状態、この時に沙夜の体内に妖力が補充される。
なんてことを復習の意味を込めて思い返しながら、僕が地面に視線を落として、沙夜のようすをうかがっていると、
「どうしたのよ? なにか忘れ物?」
目を伏せていたのがいけなかったのだろう、怪訝そうにした奈緒の顔が僕の目前に迫ってきた。
「え、あー……」
僕はまじまじと幼馴染みを見つめながら、ぼんやりと思う。そういえば、中学時代よりも可愛くなったような気がする、と。きっと髪型の影響が大きいんじゃないか、とも思った。
中学までの奈緒は、陸上部に所属していたために短髪で、もともと男勝りな性格だったことも影響して、女の子らしさというものがあまりなかった。それは男の子と見間違われてしまうほどだった。
しかし、なにが功を奏するのかわからないものだ。髪型を変えたことにより、男の子らしさを引き出していた凛々しい眉やぱっちりとした二重瞼が、結果として美人の要素に化けた。
僕は先ほど化粧がどうこう、と言ったが、奈緒は化粧などしなくてもいいと思う。そりゃ、化粧をすれば、彼女の大人びた魅力が露呈することになるかもしれないけれど、どこぞの漫画のキャラクターが母親の口紅で遊ぶような、無理やりに塗りたくった化粧などはしてほしくない。というのは僕の勝手な憶測。
「いや、なんでもない――」
「へーんなの」
僕の影は今現在沙夜の姿を映しだしているため、あまり観察されてしまうのは頂けないことだ。奇々怪々なこの現象を、なんとしてでも隠さなくてはならない。
そこで僕は、いまだ目を細めて疑っている奈緒の気をそらそうと、数歩足を進め、奈緒のいる方角へ目をやり直して、急かすように彼女を手招いた。
「いいから早く学校へ行こう、外は寒すぎる」
「あーちゃんの学校は近いからいいよね~。私はまだこれからさらに歩かないといけないんだけど~?」
「たかが二駅の距離でなに言ってんだよ? それに私立はエアコンが利いているからいいじゃないか。うちなんて防寒装置が石油ストーブしかないんだぞ」
「道中が寒かったら意味がないのよ。ね、ね、駅まで着いてきてよ」
「やだよ」
「ケチ」
そんな他愛のないやりとりをしていたところで、
『ご主人様。この姫君はどなたですか?』
僕と奈緒との会話に突如として沙夜が割り込んできた。当然、沙夜が発したこの“思い”は奈緒に聞こえることはない。僕の頭の中にだけ響く。
『ああ、自慢の幼馴染みだ』
自慢の幼馴染み。これは決して冗談から発した言葉ではない。本当に自慢できるのだ。
僕は胸を張りたいほどの思いに駆られながらも、不審な動きをするわけにはいけないと堪え、平坦な口調でそう告げた。
すると、沙夜は恋愛話をする女子高生のようなはしゃいだ“思い”を僕に送る。
『幼馴染み、あー! 過去に文献で呼んだことがあります! 幼馴染みとは、主人公と一緒に通学することを義務付けられており、最低でも試験の前日には一夜漬けで主人公に勉強を教えてあげなければならない人間のことですよね!』
『文献というか……。そういうの漫画っていうんだぞ』
ちなみにこの応酬の間、僕は一度も声を発していない。
土日の間に僕が覚えた沙夜との“コミュニケーションシステム”。声に出さずに“思い”だけで意志を伝えるというもの。半憑依状態の時だけに限るが、念じて飛ばせば影を通して、沙夜へ“思い”が伝わる。なんというか、これは口では説明できないことだと思う。きっと感覚なのだろう。
誰もいない空間に向けて声を発してしまえば、周りから冷ややかな目で見られることは必至だった。それを回避するためにとても有効なのだ。
ただし、気を付けなければならないこともある。
――それは“思いを飛ばす加減がわからない”ということだ。
下手な想像をめぐらしているとそれまで沙夜に伝わってしまう。つまり、心中が見透かされてしまう恐れがあるわけだ。
怒り、悲しみ、喜び、楽しみ、焦り、切なさ、悔しさ、憎たらしさ。
人間には、隠しておきたい感情もある。そのため、色々な感情を沙夜に伝わらないようにと、一定量にセーブしなくてはならない。聞いた限りではかなり複雑なことのように聞こえるかもしれないが、これも感覚であり、格別難しいことではなかった。
「あーちゃん?」
「へ?」
僕が沙夜と話している時、現実の僕は相当間抜けな顔をしているのだろう。意識が沙夜の方へ向けられているために、何歩進んでいるのかとか、なにを話しているのかとか、まるでわからないほどにこちら側の対応が疎かになっている。僕は聖徳太子のように器用ではない、と小さく微笑した。
鋭い幼馴染みは、僕の異変をあっさりと察知したようだった。
「あーちゃんさー、なんか今日ずーっと上の空じゃない? 大丈夫?」
大して心配するような素振りを見せず、くすくすと笑いながら奈緒は言う。
「だ、大丈夫だ」
「絶対、大丈夫じゃないってば」
「なんでそんなことが言い切れるんだよ?」
「だって、ほら」
奈緒が指さした先には、最寄りの駅があった。沙夜の方へ意識を集中させながら歩みを進めていたために、目的地を行き過ぎたことに気が付かず、結果として、奈緒を駅まで送り届けたということになっていた。
「あ……」
なんだか、色々とショックだった。こんなにも間抜けなミスを犯してしまうだなんて。
奈緒は勝手な解釈をしたようで、嬉々とした顔を輝かせながら、僕の肩にぽんと手をおいた。
「わざわざ送ってくれてありがとね。優しいところあんじゃん♪」
否定するのも面倒なので、そういうことにしておこう。
「ん、なんのこれくらい。んじゃ億劫な学校生活を」
右手を掲げて僕が告げると、
「あーちゃんもね、億劫な学校生活を」
奈緒はおうむ返しをしながら、にひひと子供っぽく笑った。
僕は簡潔なあいさつを交わしてから、奈緒が駅地下へ降りていくのを見送った。彼女はこちらのようすを横目でうかがいながら、エスカレーターではなく階段を使用して、なだれ込むように地下へ駆け降りていった。
僕は先ほどの失敗を反省し、無意識状態にならないようにと気を締め直して、学校へ向かうために踵を返した。そこで、朝日に照らされてできあがった沙夜のシルエットが小首を傾げていることに気が付く。
『どうした?』
『なんで、ここでお別れなのですか? 幼馴染みというのは同じ学校に行かなくてはならない、と私は思っていたのですが、はい』
『お前はどんな漫画を読んだんだよ、夢見過ぎだ。僕が在籍しているのは、公立の高校で、彼女は二駅先にある私立の高校だよ。それと、ひとつ言っておくが、幼馴染みの恋愛ってのは義務じゃない。あくまでも、ひとつの要素、きっかけに過ぎないんだよ』
『え、でも、でもでも。あんなかわいい子を野放しにしていると、他の男の子にとられちゃいますよ?』
沙夜は色恋の知識を付けるのに夢中なようで、僕の部屋にふたりでいる時、読書(漫画)に耽っていることが多い。僕が知らないうちに、『他の男にとられる』という知識を学んでいた。しかし、そんなどろどろとした内容の漫画を部屋に置いた覚えはない。
『ああ、確かに、他の男が奈緒に接近するのは嫌だ、死んでも嫌だ、筆舌に尽くしがたいほど嫌だ。……でもな、僕が奈緒のことをどうこうしたいって願望はない』
『はぁ』
沙夜は気の抜けた返事をした。気にせず僕は続ける。
『大切だとは思うけれど、それが好きだという気持ちに結びつくことはないんだ。自分のこと以上に幸せになってくれと思うんだよ』
なにを気色の悪いことをいけしゃあしゃあと言っているんだろう? こんなことを恥じらうことなく言えるのは、声に出さないからなのかもしれない。
『んー、そうだな。きっと娘を思う父親の気持ちに近いんじゃないかな?』
『へー、そうなんですか、私には父親というものがいないので、よくわかりません』
『あ……』
これはひょっとして、地雷を踏んでしまったか? 僕は突発的にとりつくろう言葉を頭の中で探した。
そんな僕のようすに気が付いた沙夜は、ぶんぶんと頭を横に振るようなジェスチャーを影で呈している。
『あ、いえ、いえいえ、憑きものというのは、ぽっと世の中に振り下ろされるような存在なわけであって、元々親とかいう概念はないんですよ。ほら、ほらほら、私の名前だって、沙夜という名はあるのに、姓はないじゃないですか。だからそんな顔しないでください、ね!』
なぜだか気をつかわれたことに僕は口元を綻ばせつつ、“親がいない”ということに関して、同じだ、と親近感のようなものを抱いていた。
『でも~、ご主人様が寝静まった後に見つけた文献には、主人公と幼馴染みとの濃厚な恋愛模様を描いてありましたけど~。ああいうのがご主人様の憧れなのではないのですか?』
……。
…………。
………………ん?
数秒の間、世界が凍った気がした。突然、身にしみ込むような寒気が生じたことから氷河期の訪れかとも思ったぐらいだ。完全暗転した舞台のように目の前が真っ黒に染まった。
微力の日照りによって身体が解凍されていくと同時に、全身の毛が逆立ったのを感じる。
『ま、ままま、まさかとは思うけど、ベッド下に置かれた禁断の書物に手を出したんじゃないだろうなッ!!』
僕のベットの下には、変態軍帥、坂土泰誠から受け賜った秘蔵の書物が眠っている。それがどんなものであるのかはご想像にお任せしよう。少なくとも、ピュアな女の子が読んではいけない本だということは明言しておく。
沙夜は僕の問いかけに応えずに、代わりに僕に質問した。おそらく僕が目の色を白くしていることさえも気が付いていないのだろう。
『それと、ふとした疑問がありまして。あの書物に描かれていたのですが、キスの後にする、●●●●って行為は、キスよりもっと気持ちがいいんですか?』
……。
…………。
………………。
ここで再度、暗転。
そして、明転。
『わぁあああああ!! おま! そりゃダメだ!! 学んじゃいけない……いや、人の前で絶対に言ってはいけない禁止ワードだ!!』
僕が大袈裟に(けして演技とかではなく)、“思い”を浴びせると、沙夜は首を捻るようなポーズをした。影から表情まで読み取れないので、どんな顔をしているのかまではわからない。僕の心臓はバクバクと高鳴っていた。
『む~~~~~。やっぱり、よくわかんないです。恋だとか、愛だとか。好きとか、嫌いとか。私苦手です、はい』
沙夜の言葉に僕は少しだけ考え込むような素振りをする。
『……いや、僕にだってよくわからないよ。奈緒に恋愛感情を抱いたことがない、そういえば嘘になるのかもな。それに僕は――』
――彼女に告白している。
その言葉が脳内でとどまり、どうしてだろう? 別に沙夜に隠すことではないはずなのに、“思い”には出せなかった。
僕があごに手を添えて思索にふけっている間、沙夜はパタパタと腕を振っていた。僕の続きの言葉を待っているのかもしれない。
妙に居心地が悪くなった僕は話題をすり替えることにした。
『てか、まさかとは思うけど、四六時中、一緒にいるつもりじゃないだろうな? 学校に通う時ぐらいひとりにしてほしいんだけど?』
『四六時中、一緒にいる。その行為になにか問題でも?』
あっけらかんとした“思い”を僕に飛ばす。
『おおありだよ! 影がお前の姿を映し出すってリスク背負ってんだから! 学校ある日ぐらい大人しく家で留守番でも――っておい! 聞いてんのか!』
僕が言い終える前に、沙夜は影からすーっと抜けて、そのまま滑らかに前方へ駆け出していた。僕の影が少女と繋がっていないので、この時は完全憑依状態でも、半憑依状態でもない。少しの間、僕は自分の影を取り返したのだ。
ふと、ここで辺りを見渡せば、いつの間にか周囲は登校する学生で満ち溢れていた。
しかし……。こうして群衆に紛れても、影から飛び出た沙夜の姿は日常へ溶け込むことはないものだ。ゴスロリ調の服装のことや人より大きなツインテールのこともあるだろうけれど、沙夜は他の生徒と一線を画するように僕の目には水際立って映った。
たく、外に出たくないんじゃなかったのか?
このように気分屋な少女は、僕の気づかいなどそっちのけで、人どおりが少ない所や強い興味を持った所では、時々姿を見せることがある。今回の場合は後者だ。
沙夜は校庭に入るか入らないかの所で、興味津々といった具合に伸び縮みをくりかえしていた。そう、僕らは校門まで到着していたのだ。沙夜の興味をひいたのは、僕の高校らしかった。
「わぁ! これが学校ですか~! 私、学校始めてです! なんだか胸が弾みます、はい!」
薄汚れた校舎をまるでヨーロッパの豪華絢爛な見世物を鑑賞するように眺める沙夜。
僕は右手に持ったバッグを肩まで抱え上げ、周りの人に気味悪がられない程度の小走りになって、それを追いかけた。
「そんなに楽しいものじゃないぞ」
僕が変な挙動をしたり、乾いた言葉を口に出したりしたことによって、周囲の視線が僕へ一斉に向けられたが、気にしないことにする。