#5 常識知らず
今日は土曜日、試験が終わって挟まれた休み期間。テスト週間が金曜に終わってくれたので都合よく週末が訪れたのだ。もし、木曜に幕を下したとなれば、次の日に結果が返ってくるという意味で悲惨だった。
――ということもあって、今回の試験は金曜日に終わったため、気持ち的にはとても楽だったといえる。いっても、安楽な時間は土日だけであり、月曜の朝を迎えていくにつれて気持ちは沈んでいくのだが。
今日も家には僕以外、誰もいない。
いや、正確には僕の影の中にもう一人、小娘憑き、沙夜がいる。
少女は今朝がた僕の部屋で姿を見せた。その時、一日、睡眠をとれなかっただけだというのに、沙夜の顔はげっそりとやつれていた。昨日の夜、むりやり影の中で眠るように指示したので、眠れなかったのではないだろうかと僕は予想している。この調子でいくと、日替わりでベッドを交代する必要性があるかもしれない。
……というか憑きものって寝るのかよ。それとベッドじゃないと眠れないなんて、今までどんな境遇で日々を送っていたんだ?
今後の生活についての方針を定めながら、僕はキッチンで調理した簡易的な料理をテーブルまで運んだ。それから立つ湯気が僕の鼻筋を掠める。安っぽい香りだが、空腹な僕にとっては食欲をそそられる香りではあった。
「なにを食べているんです? ご主人様」
気が付けば、沙夜が影から飛び出して僕の目前に現れていた。図々《ずうずう》しくも椅子に腰を下ろしている。僕はわざと満点の呆れ顔を作り、対面の椅子に腰を掛けながら返答した。
「ん、ああ。安いし簡単に作れるし、味もそれなりにうまい。だから、京子さんがいない昼のこの時間によく食べるんだ。栄養が偏るぞ、と叱られるんだけどね。鍋焼きうどんっていうんだ。なんだ、知らないのか?」
それが粗雑なアルミ製の商品であるので、鍋焼きうどんだと紹介するには不適応な気がしたが、わかりやすく説明するため、鍋と称したことについては一切の躊躇はなかった。
「わ、私は別に食事とかいらないので、知らなくてと~ぜんなのですよ。興味もまったくないです、はい」
「へー、さいですか」
これは話しているうちにわかったことだが、沙夜は一般常識について、人間の日常について、恋愛についての知識をほとんど知らない。そのくせプライドが高かったりもした。よほど自尊心が旺盛なのか、彼女の知らないことを僕が教えてやると、沙夜は機嫌をそこねてしまう。ひょっとすれば、憑きものは人間よりも尊い存在であるのだと訴えているのかもしれない。
そんな事情があり、あからさまにしかめっ面になった沙夜は一度そっぽを向いた。しかし、興味ありげにテーブルに置かれたうどんをちらちらとうかがっている。沙夜が考えることはいまだによくわからないが、その表情を僕は物乞いしているようだと捉えた。
なので、僕はそんな沙夜に箸を差し出してやることにする。沙夜は、怪訝そうな顔して僕のことを注視した後、顎を引くことによって作られた上目づかいで睨み、頬を膨らませた。おー、こわいこわい。
「な、なんでしょーか? 私は食事などいらないと告げたつもりだったのですが?」
「口があるわけだし、食えないってことはないだろ。ほら、いいから食ってみろよ、うまいぞ」
「う、まあ、そこまでいうなら、食させていただきますがっ!」
未知なる生き物を観察するように沙夜のようすを眺めてみた。どぎまぎしている挙動から察して、両手で一対の箸を受け取ったのはいいが、どうしていいのかわからないようだった。多分、箸の使い方が分からないのだろう。箸を左手に束ねて持つ。沙夜は左利きらしい。
細い指先で不器用に箸を握り、僕の見よう見まねで箸をいじくるのだけれど、数時の間を要しても、箸の先がまとまることはなかった。その光景が、ペン回しの練習をしている怠惰学生のように見えてしまい、僕は何度か噴き出してしまった。
箸が手からテーブルへ転げ落ちるたびに僕が笑うので、沙夜はますます機嫌を悪くし僕を睨みつける。
結局、うどん一本掴むことさえもままならなかった。しまいには、
「めんどくさいです、ええい!」
「バカ! なにやってんだ!」
左手で箸を握りながら、直接うどんをすくい取ろうと右手を鍋の中へ突っ込んだ。当然、先ほどまでコンロの火にかけられていた鍋(アルミ製の)は熱い。沙夜は陸にうちあげられた魚のようにもの凄まじく跳ね上がった。
「ひゃぁ!! 熱い!!」
……なんともあほらしい光景だ。
「はは、お前、人のことを愚かだ愚かだとばかにするけど、お前も相当まぬけだな」
この言葉には、散々“愚か者だ”と罵られたことに対しての復讐の意味が込められている。
「放っといてください! こんな面倒なマネをする人間の方が愚かなのですよ! はい!」
負け惜しみのような逆切れだったが、ほう、と僕はちょっとばかし感心した。同調できる余地のある意見だと思ったからだ。
面倒なこと、確かにそれは違いない。沙夜と同様に人もプライドが高く、品格を保つためにあれよこれよと回りくどい方法を使う。まあそれがマナーだったり、常識だったりと呼ばれるのだが。
そんなくだらない思考を巡らせていた僕が、もう一度沙夜に視線を投げた時には、彼女は再び箸を握り、うどんを食べる作業に没頭していた。
しかし、いつまで経っても上達する気配がない。このままでは、もちもちのうどんが僕の元に戻ってくるころには、すっかり伸びきってしまいそうだ。
見るに見兼ねた僕は、水洗い場の近くに置かれた食器棚のひきだしを開けて、フォークを手に取り沙夜に渡してやる。
「ほら、これ使ってみろよ。少し食べにくいかもしれないけど、これだったらなんとかなるんじゃないか?」
情けをかけられているようで悔しいのか、泣き出しそうになった沙夜は、う、うう、と呻き声をあげながらも無言でうなずき、フォークを左手に取った。やはり左利きだ。
うどんのつゆは熱いものだという教訓を得たために、熱湯を恐れながら遠巻きにして手を伸ばす沙夜を見て、僕はフェンシングの試合を頭に思い浮かべていた。突っついては引き、間隙を縫うように突っついて。
僕はその様子がとても面白くてにやけてしまいそうになった。含み笑いを気付かれないように両手で口元を覆う。そんな時――
「あっ……」
――ついにやった! 奇跡的に一本のうどんが沙夜の口に滑りこんだ!
僕の胸に拍手喝采を浴びせたい気持ちが湧きあがったけれど、それをすると沙夜に睥睨されてしまいそうなので、ぐっと衝動を抑える。代わりに、おお、という感嘆の声が口からもれていた。
「あふ、あふ、あふ、あふ」
沙夜は口を忙しなく動かし、大きな目を天井に向けている。くっちゃくっちゃと音を立たせながら一本のうどんをたいらげると、不機嫌になりつつあった沙夜の顔が満足げなものに変貌した。
「うまいか?」
と僕が聞くと、
「まぁまぁですね。好んで食する人間の気持ちは決してわかりませんが、はい」
気高き小娘憑きである沙夜は、“満面の笑みで”そんなことを言ってのけた。
「そっか」
沙夜は顔いっぱいに穏やかな笑みを湛えながら僕に言う。
「ひとつお伺いしたいことがあるのですが――」
「なんだ?」
食事をするという行為になれないのか、少女は熱そうに喉元をさすっている。
「――ご主人様は私にどうしてこんなことまでしてくれるのです?」
どうして、と言われても、僕には“こんなこと”の意味がよくわからなかった。フォークを手渡してやったことについての謝辞を述べているのか、と適当な解釈をし、僕は返答する。
「僕もな、箸を扱うのは苦手なんだよ。幼いころはよく京子さんに怒られていた。飯抜きの日だってあったぐらいだぞ?」
僕の話を聞いている最中、沙夜は鍋焼きうどんがよほど気に入ったのか、もう一本口に含んで、思う存分くちゃくちゃとぶしつけな音を立てて咀嚼した後、喉に通した。人に嫌われない食べ方も今後教えてあげたほうがよさそうだ。
「いえ、そうではなく――」
一言断ってから、沙夜は続けた。
「――ご主人様は変わっています。なんていうか、愚かです、はい」
「はぁ? なんだよ、それ?」
不意に飛び出した沙夜の暴言に、別段、腹を立てたりはしない。“愚か”という単語を常套句のように使うので、嫌な話、聞きなれてしまったのだ。昨夜、寝るまでの間に何度聞いたかも十本の指ではカウントしきれない。
「いえ、なんでもありませんよ~」
なにかを言いかけたまま言葉を濁らせ、沙夜は口をつぐんだ。つぐんだと思いきや、すぐに口を開きうどんを食った。
「そっか」
まあ、気にすることもないだろう、と詰るのはよしといた。
それと――。
「ご主人様」
「なんだ?」
「キスしてくれませんか?」
「しない」
あれ以来、このように沙夜は脈略もなく口づけをせがんでくる。僕がそれを慣れた口振りで断れるのも、恐ろしい話、聞きなれてしまったからだろう。
結局、鍋焼きうどんは沙夜の独占下に置かれてしまい、僕の元に返ってくることはなさそうだ。
謙虚なんだか、横柄なんだか、はっきりしてくれよ……。