#2 やっぱり悪魔?
今日の寝起きは今後の習慣が心配になってくるほど悪かった。試験勉強のために夜更かししていたから、というのは、日本人だから英語話せない、というぐらいに言い訳にはならないことだろう。
自分の頭がもう少し賢かったならこんなことには……、と言い始めてもしかたないことに思考を働かせながら、僕はゆるゆると身体を起こした。
カーテンからもれる朝日で部屋のじゅうたんに僕のシルエットが作り出される。出来上がった影はいつも通り“僕のもの”だ。寝起きの悪さから清々しいとは言い難いけれど、なにごともなかったかのように日常が始まった。なので、昨日の怪奇現象は夢だったのかもしれない、そんなことまで考えてしまう。
腫れぼったい眼をこすりながら時計を見れば、六時三〇分をさしていた。いつも支度に取り掛かる時刻は七時からと決めている。あと三〇分は眠れると僕は再び身体を横にした。だるさが抜けない。
眠ってしまったら三時間ぐらい寝続けてしまいそうだ。そんな危惧を抱いたが、冴えない頭で試験に挑むより、遅刻のリスクを背負ってでも万全とした体調で挑む方が得策な気がした。なので、スヌーズ機能をオンにし、携帯の目覚ましをセットしておくことにする。これでわりかし心地よく睡眠をとれそうだ。
しかし、そう簡単にことを運ばせてくれないのが世の摂理であり、高校生の苦行なわけである。僕が二度寝という愚行を行う前にドア越しから声が聞こえてきた。
「あっちゃん。そろそろ起きなさい。今日は試験なんでしょ? 早めに学校へ向かうぐらいのやる気は見せなさいよ」
僕は冴えない頭で思い出す。そういえば、昨夜、もし朝起きれなかったらどうしようと思い、起こしてくれるよう頼んでいた。
ちなみに、僕は家や学校では“あっちゃん”と呼ばれている。僕の名、敦彦から取ったのであろうということは安易に想像できるだろう。安直であると何度も思ったぐらいだ。
僕はドア越しに立つ声の主に言葉を返す。
「は、はい、京子さん。今すぐに準備します」
彼女の名前は斉藤京子。実をいうと、ドア越しに立っている女性は僕の肉親ではない。
僕は幼いころに両親を亡くしている。
祖父祖母も共に僕が産まれたころには他界していた。しかし、よく聞く物語の孤児のように、親戚の家をたらい回しにされるということはなかった。遠い親戚である京子さんが、僕と妹を引き取ると名乗りをあげてくれたのだ。僕らは厚意に甘えるという形でこの家にもう十年は住んでいる。
唯一の血の繋がりを持った人物は、欧米諸国へ留学中の妹、藤堂間宵だけだった。京子さんは我が強い人間で、遠慮されることを嫌う。間宵の海外留学を許可したのもそこから来ている。
「よいしょ……」
僕には朝起きる時にテレビを点けるという習慣がある。僕はベッド上に置かれたリモコンに手をやりテレビを点けた。すると、部屋に置かれたテレビから淡々とニュースが流れだす。どこかの会社が倒産したことを告げる報道のようだが、寝不足な僕の耳には入ってこない。
どうしてだろう、とても億劫な気持ちになった。しかし、今日はテスト週間最終日、今日を無事に乗り越えれば苦痛な日々が幕を下し、安楽な日常の幕が上がる。
いつもはテレビの占いが始まるタイミングで家を出ることを日課としていたが、今日はやめにすることにした。学校へさっさと登校して、向こうで復習するという、時間に余裕がある優等生が行うような策を講じることにする。なにより、このまま部屋にいては眠ってしまいそうだった。
僕は部屋のドアノブに手を掛ける。そこで、僕は身体を静止させ、とある物の存在を思い出した。
学習机の上に乱雑に散らかった単語帳や学校で使うノート、漫画本と色々。それらの近くに置かれた一枚の紙。昨夜、謎の存在から受け取った本日の試験の解答用紙だ。これがここに置かれているということは、やはり昨日の出来事は夢ではなかったらしい。
『――とにかく、それをお役立てください』
数学限定だけども、ないよりはあった方が都合がいい。僕は寝起きの頭を起こすように荒々しくも問題の用紙を掴んでバッグに詰め込んだ。
夜更かししてしまった影響か、それとも昨夜の怪現象が頭にこびりついて離れないからか、どちらにせよ食欲が全くなかったため、朝食を喉に通すことをしなかった。顔色の悪さから京子さんに酷く心配されたが、そのまま家を出て学校へと向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
二月中旬の気温は低い時には氷点下まで冷えこむ。本日は快晴なので、氷点下とまではいかないだろうが寒いものは寒い。学生服の中にセーターを着込んで出てきたために身体が凍えることはなかったけれど、風が肌に少しだけ染みる。
学校は歩いて通える距離にあった。寒空の下、とぼとぼと通学路を行く。足がふわふわ浮いているような錯覚を感じるのは、おそらく寝不足のためだろう。
「よぉ、あっちゃん。今日のテスト、しっかり勉強してきたか?」
教室に着くと、泰誠に声を掛けられた。僕は彼が腰を据えている窓際の席まで向かう。
窓際の前から二番目の席。本来は別の生徒が使う席だけれど、試験時はここが僕の席になる。試験を行う時になると、一時的に並びが五十音順になるのだ。泰誠は僕のひとつ前の席、つまり、窓際の一番前の席に座っていた。
彼は坂土という苗字であるために、藤堂の姓を持つ僕の前の席にいるのはおかしな話である。その理由はすぐにわかった。冬場になると、窓際前方の席にはとある特権が生じる。そう、そこはストーブという学校側の救済処置に一番近いポジションなのだ。泰誠は軽く身震いしながら、石油ストーブに手をかざして座っていた。
「ん、ああ、まーな。ある程度は……」
言葉を濁すように僕が返答をすると、泰誠はなぜだか満足げに深くうなずく。
「うんうん。その眼の下のクマを見れば、徹夜で勉強したことは一目で分かるぞ。結果がどうにせよ、そこまで全力で挑めることはすげぇことだ。その点、俺はダメダメだぜ。お前を見習って、少しはやっておくべきだったかなー」
夜を日に継いで勉強したことを泰誠に褒められたので、僕は勉強が全く捗らなかったという事実を隠すことにした。僕は自席の椅子に手を掛けながら言う。
「学校一の秀才がなに言ってんだよ、嫌味のつもりか?」
すると、泰誠は照れくさそうに首を二度振った。
「本物の秀才だったら、小中の時になんらかの結果残してるって。俺は平凡。凡人だ」
彼のことを“学校一の秀才だ”と僕は呼んだけれど、実際はクラス四位といった成績である。それでも十分に立派であることは誰が聞いても瞭然としているが、彼の非凡なところはそんなことにあるわけではない。
ベスト4という実績はあくまでも、“なにもしない状態でのベスト4”なのだ。この男は、授業内容を聞いているだけで点が取れてしまうらしい。剣道の大会で竹刀を持たずして準優勝するような、そんぐらいの凄みを帯びている。
並の生徒のように努力すれば、全教科満点なんてことは造作なく達成してしまうだろう。試験前に血眼になって勉強する僕は時々彼に嫉妬してしまう。
なにより、泰誠は容姿端麗だった。ルックスは上の上。短く爽やかな頭髪に男のわりに円らな瞳、まさしく眉目秀麗。一八〇を超える長身美。高校で初めて会話を交わした時、さぞかしモテるだろうな、と僕は思った。
しかし、彼は全くといっていいほどモテない。モテない理由というのも――
「そうだ、そうだっ! 聞いてくれよっ! 今日の俺はついてるぜっ! 階段で女の子のパンツを目撃したっ! しかもすんげぇ可愛い子のだ、ぜっ! バリバリのシャッターチャンスだったんだけどよ、カメラ持ってなくて……くぅぅ~、惜しいことしたぜ!! 瞼にしっかり焼き付けたけどなっ!」
――呆れるほどに変態なのだ。
そりゃもう、犯罪レベルに。
クラスの女子の白眼視が一斉に彼へ向けられる。僕は二度三度、咳払いをし、彼に助言した。
「……お前にモテるための方法教えてやる。口を開くな、それだけだ」
「いやいや、あんな天からのプレゼントをもらっておいて、その喜びを言葉に表すな、そんなこと無理な話だぜ。ザ、むっつり学園ッ! ビバ、純白の青春ッ!」
泰誠は今日も絶好調なようだった。どうやら色は白だったらしい。試験前でもこんな平常運転な彼を僕は心から尊敬する。
「あ、そういえば、今、世の経済がえらいことになっているの知ってるだろ?」
パンツの話からの急な話題の方向転換に、僕はまばたきを繰り返した後、学習机に肘をつきながら言葉を返す。
「いや、知らない。というか、お前が政治経済の話に耳を傾けるとは意外だな」
「ええっ! 世を騒がすほどの大事件だぞ! 知らない方がおかしな話だって! お前のが政治経済と別次元で生きているだろ!」
知らないものは知らない。身の毛がよだつほどの怪奇現象と鉢合わせした僕は、世の中がどうなっているのか、もはやどうでもよかった。
泰誠は嬉々《きき》とした表情で話し出す。
「大手企業、大津製薬が昨日、倒産したんだよ。若林社長の死によって会社が大きく傾いた、それが影響でそのまま倒産しちまったようだ。まぁ前々から黒いうわさがあったわけだし、それが発覚しての倒産だろうな」
すべるように飛び出す彼の言葉を僕は右手で制した。
「ちょ、たんま! た、頼む、余計な単語を僕の頭に入れないでくれ! せっかく昨日詰め込んだ知識が抜け落ちてしまいそうだ!」
「はっはっは。すまないな。――ただよ、社長がおっちんじまっただけで倒産なんてしょうもねぇ会社だと思わねぇか? まず、会社として成り立ってねぇよ。こりゃ、就職する時はしっかり見極めないといけないようだぜ」
そう言うと、泰誠はやるせなさそうに背筋を伸ばす。背を張りながら彼が溜息をつくと、口から白い息が塊で飛び出した。
――大津製薬。
僕の耳にも聞き覚えがある。倒産。そういえば、今朝ニュースキャスターがそんなことを言っていた気がした。
といっても、学生である僕にとっては、それらの出来事の非常さを実感するのは、当分後の話のようにしか思えない。少なくとも試験の方が先にくる出来事だ。やはり、泰誠は人よりも達観している。
「就職って、何年先まで見据えてるんだ、立派だな、お前は」
「んなことねぇって。俺は平凡、凡人だよ」
そこで、予鈴が鳴った。いよいよ試験が始まるのだ。
数学教師、竹内が教壇の前に立ち、生徒へ向けて指示を出す。げんなりとしている僕ら学生とは違い、竹内の顔は元気溌剌といった具合で、電灯の光で目と額がテカテカと輝かせていた。
「では、試験を始めます。騒がず席に着くように――」
教師の言葉を受けて、泰誠はしぶしぶ席を立ちあがり、寒そうに両手をすり合わせながら二列横の席へ腰を下ろした。入れ替わるように三つ編みの女生徒が僕の前の席に座った。本来、彼女が僕の前の席なのだ。
まずは英語、次は世界史。最後に数学。という順で試験は行われる。英語と世界史は会心の出来とは言わないまでも、そこそこの自信を持って乗り越えることができた。
試験の合間に時間があるので、そこで大多数の生徒は半ば焦りながら試験範囲を確認していた。僕は英語が終わった後、世界史が終わった後の時間を利用して、昨日受け取った解答用紙を丸暗記する。もちろん、他の生徒の混乱を招かないように人の目を盗んでこっそりと行う。
この紙切れが本当にこの試験の解答用紙なのか。半信半疑ではあったが、頼るものがなければ、空いた時間に勉強したところでタカが知れている。泰誠のように悠長に雑談することもできない。
「問題用紙と回答用紙を配布します」
いよいよ数学の試験が始まろうとしていた。もし、あの解答用紙が正確なものであるならば、高校生活初の満点を取ることも夢ではない。手に汗握りながら、問題用紙を三つ編みの女生徒から受け取った。即座にそれを斜め読みして、僕は目の色を変えることになる。
「……おいおい、ちょっと待てよ…………」
教員に聞こえない程度の声量で僕は思わず呟いてしまった。ざっと目を通しただけだが、昨日もらった解答用紙と、今日配布された問題用紙が、
まったくの別物だったのだ。
答えが違うどころの騒ぎではない、問題そのものが違う。似ているところは一問一問に振り与えられた得点と、学年末と書かれた文頭だけだった。
何度も見る、何度も考える、何度も……。
尋常ではないほどの冷や汗が背中を伝う。先ほど半信半疑だといったけど、僕はあれに全てをかけていた。ここで気が付く。知らず知らずに少女の話を鵜呑みにしていたことに気が付く。
まさか、あれだけの演出をされて与えられた解答用紙が嘘っぱちなわけがないと考えていた。半信半疑ではなく全信無疑。そんな新しい四字熟語が僕の中で生まれる。
無駄な数値を暗記してしまった僕の脳みそに公式なんてなにひとつ残っていなかった。
…………。
「終わりです。筆記用具を置いてください。では、一番後ろの席の人は用紙を五十音順で回収するように――」
――結局、公式いらずの計算問題を直感で解き、文章問題の欄には部分点目的で計算式をごちゃごちゃに書き連ねた。それだけで、そんな些細な抗いだけで、僕の数学の試験は終わった。五〇分ほどの時間を余らせるといった調子で終わってしまった。
空しく鳴り響くチャイムと同時に教室内が一斉にざわめきだす。三日間に及ぶテスト週間が幕を下ろしたのだ。
清々しい顔をした人。どんよりと顔を曇らせた人。いつも通りの剽軽な態度の泰誠。放心状態の僕。
僕は泣きそうになる衝動を押しとどめ、ぽつりと一言呟いた。
「つ、掴まされた…………」
そして思う。
やはり昨夜出会った謎の影の持ち主は、悪魔だったのかもしれない。