#20 白雪姫
午後七時三〇分。もう、すっかり日が落ちていた。
夜のグラウンドという、初めて見るこの景色は、想像をはるかに超えた気味の悪さがあった。もちろん、公立の学校なんかに照明機器がしつらえてあるはずがなく、街灯や住宅の灯りや車のライトが、ここまで伸びることがない。とにかくグラウンドは真っ暗で、闇という表現に適した空間であると言えた。暗転された舞台の上で、スポットライトに照らされるように、生徒指導室の灯りだけが僕の姿に光を差しこんでいる。
こんな時間まで校内にいるという事実が信じられなかった。この間までは、できる限り外出は控えて、日が暮れる前には帰宅することを心がけ、だから、帰宅時間が夜更けになってしまいそうな、部活動もやらなかった。そんな僕が、真夜中の校庭で立ちつくしているのだ。一年前の僕が聞いたら、なんと思うだろう。
僕の目の前にはマリア・フランクリンがいた。広漠としたグラウンドを背に、彼女は薄笑いを湛えながら、悠然と構えている。対して僕は、自然と大股になっていた。体勢を低くしているのは、及び腰にならないようにするためだ。身体の軸を安定させて、視線はマリアに向ける。
「まだ、あなたの影が、あの子の姿をしているところから、かろうじて、生きているといったところかしら?」
マリアは闇夜に浮かんだ僕の影を一瞥して、校門に背をもたれながら、余裕めいた表情でそう告げる。まるで帰宅時刻を過ぎた学生を叱るような、ごく普通の教師の声色をしていた。
「出しなさい、その憑きもの。出してくれれば、あなたはなにごともなかったように、そのまま帰宅してかまわないから」
右手が差し伸べられる。これから地獄に勧誘するかのような、冷たそうな手だ。なにごともなかったかのように、幕を引こうとしている。
「僕にはさ……」
学校側の仕様によって、この時間になれば、出入り口は正門以外、全て閉鎖される。そのため、正門以外、逃げ道はない。他の場所から出ようとも、金網と鉄柵で囲われているので、無理に逃げようともなれば、人目につく。どちらにせよ、憑きもの殺し、マリア・フランクリンとの対決は避けられない。
そこで僕は正門を強行突破する手段を選んだ。理由は他にもある。これは僕に与えられた“チャンス”だった。
女教師は僕の目を見て笑う。大上段に構えて、ようすをうかがっている。
僕はそんな彼女に向かって、一歩前進した。
「僕には、幼い頃から、ずっと不思議に思っていたことがあった。その物語を初めて聞いた時から、子供ながらに納得ができなかったんだ」
僕が発した唐突な言葉に、彼女は少し驚き、いぶかしんだようで、眉をひそめている。僕はもう一歩、彼女に歩み寄り、細かく口を開いた。外界の寒さで唇が震えて、うまく言葉を紡げない。
「どうして、毒りんごを食べた白雪姫が、なにごともなかったかのように、息を吹き返したのかってさ」
「なんの話?」
マリアは、あからさまに眉根を下げ、怪訝そうな顔をした。
「沙夜が言ったんだよ。世の中で起こる怪奇現象は、すべては憑きものの仕業なんだって。僕は気が付いたんだ」
すると女教師は、苛立ちを隠すことなく、嫌悪の眼差しを僕に刺した。白い息が彼女の口から零れる。
「なんの話よ?」
正門に向かって歩く。構えるマリアと犬神憑き。僕の胸には、私憤があった。恐怖もあった。それ以上に明確な意思があった。
「知ってますか、“桃太郎は憑きもの筋で、白雪姫は憑きものだった”んです」
マリアは途中まで僕の話を傾聴していたが、いずれ、なにかを悟ったかのような、悲しい目つきで僕を見た。
「どうやら、気でも狂ってしまったようね」
失意の念を抱くように溜息を吐いた。
だけど、僕は決して捨て鉢になったわけではない。相手の隙を生み出すこと、それが僕のやるべきことだ。
――結果。隙ができた。
確認を終えるまでもなく、僕は叫ぶ。目いっぱい。
“沙夜”へ向けて――。
「今だッ!」
合図を契機に、沙夜の身体が僕の影から勢いよく飛び出した。水面を跳ねるように現れた彼女の身体。まるで闇の衣をまとうようにして飛び出てきた彼女の身体に、
“傷はひとつもない”。
「なッ!」
そして、沙夜は、マリアの身体を拘束するため接近した。咄嗟に払いのけようとしたマリアの両手と、拘束すべく向かった沙夜の両手が重なって、風船を割ったような鋭い音が鳴った。両手が重なり、ふたりは校門にもたれるような格好で取っ組み合いになった。
目前にいきなり現れた沙夜の身体を見て、憮然としていたマリアの目が見開かれる。信じられないものを見るような目つきで、沙夜を睨みつけた。彼女が歯ぎしりする音がこちらまで届きそうだった。
「バカ……な」
「ご主人様、行ってくださいっ!」
沙夜がマリアを取り押さえているうちに、僕は校門へ向かって一心不乱に駆ける。僕さえ逃げることができれば、後はどうとでもなるからだ。僕を巻き込まないことを考えるのは難しいが、沙夜自身が逃げることは容易なのだ。僕がいたから、沙夜はあんな無茶苦茶な殺戮に応じた――。
「行かせちゃダメよ! あずきッ!」
しかし、そうあっさりとことは運ばれない。
黒い中型犬。犬神憑きがうなり声を上げながら、僕の前に立ちふさがった。あずきというのが、この犬神憑きに与えられた名前らしかった。
僕はどうにかして突破しようと、すきを探したが、犬神憑きは一切、怯みや竦みを見せることがなく、僕の行く道を塞ぐ。僕は結局、校門を前にして、立ち止まってしまった。
「どきなさいっ!」
マリアは力ずくで沙夜の身体を押さえつける。沙夜の両腕を拘束して、なめるように身体を見回した後、たじろいだ。沙夜はその隙を察知し、マリアの拘束から逃れ、僕の元まで戻ってきた。
「ど……どういうこと? おかしいわね、さっきまでズタボロだったように思えたんだけど……。どうして傷が塞がっているの?」
マリアが疑問に思うのも無理はない。先ほどまで沙夜の身体は、見るも無残なほど傷だらけだった。彼女を傷つけたマリア自身、罪の意識が皆無だというわけではないらしく、自分が殺したはずの死者が蘇ったような、そんな顔で僕らを見据える。
マリアが今度は僕に向けて、「どういうことよ」と鋭い語調で詰りの言葉を上げた。
「マリアさん、妖力は――」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
沙夜と口づけをした瞬間、僕の頭に凄まじい激痛が走った。沙夜と初めて会った夜に味わった痛みを遥かに凌駕していた。
朦朧とする意識の中、この激痛の正体はなんだ、と考えた時、ふとある予感がした。そして、僕はゆっくり思い出した。沙夜の言葉を――。
ひょっとすれば、沙夜が死んでしまう精神的なショックによって、彼女との思い出が頭に巡ったのかもしれなかった。死期が迫った時、その人との思い出が頭に駆け巡る、よく聞く話だ。それは、走馬灯のようなもの。身勝手な空想。愚者の最後のもがき。
けれど、おそらく、そうではない。多分――。
あれは“奇跡”だったのだろう。
――『キスしてください!』
沙夜はキスをせがんできた。それは今後の生活が心配になってくるほど、執拗なまでに――。
――『キスしてくれませんか?』
毎日のように、弱っている時ですら、彼女は口づけを求めてきた。時には無理やり、僕の身体に覆いかぶさるようにだったり――。とにかく脈略がなかった。
ずっと考えていた。どうして、そこまで口づけにこだわるのか、と――。
よくよく考えてみれば、彼女の言葉は最初からおかしかった。沙夜と口づけを交わした、あの日の言動――。
――『なんですか、今のっ!! とっても気持ちよかったですっ!!』
――『天にも昇るような気持ちでしたっ!』
あれは僕のファーストキスであり、突発的に行われたものであるために、もちろん、テクニックを誇ったものではなかった。沙夜のリアクションが大げさなものであるとは前々から思っていた。それと、あの日、味わった気のせいともとれた頭痛。
それらには、なにか理由があるんだ、そんな考えに至った。
――『キ、キスしてくださったら、全て解決する気がしたんです』
そこまで考えた時に、僕らふたりが出会って間もないころ、沙夜から教えられた知識が頭をよぎった。
――『それだけではございません。民話、童話に登場する物語も実話の場合が多いのです。「桃太郎」は“憑きもの筋の少年”が、“犬憑き”、“猿憑き”、“雉憑き”を使役して“鬼憑き”を退治した実話に基づいて作られていますし、「白雪姫」も“憑きもの筋の王子”が“女神憑きの白雪姫”を助けたという話が元なんです』
そこから、沙夜の言葉から、僕はひとつの可能性を見出した。些細なきっかけから生まれた予感だったが、要素と要素が結び合い、いずれ頭の中でひとつの考えに凝固した。
沙夜は“本能的に口づけを迫った”のではないか、と――。
そう、妖力の供給手段は、なにも半憑依状態にすることだけに限ったことではない。憑きものは、妖力の注ぎ込み方次第で、さまざまな力を発揮することができる。
つまり、憑きもの筋が持つ妖力を憑きものに注ぎ込むことによって、憑きものに凄まじい攻撃を繰り出させたり、憑きものが負った傷を“回復させたり”できるのだ。それを道と呼ぶ。
“白雪姫が王子の口づけで生き返った”ように、沙夜もまた、息を吹き返したのだ。
「あ、あれ……。ご主人様……?」
まるで、ゲームオーバーからコンテニューしたかのように、なにごともなく――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「妖力は――」
呆然としているマリア・フランクリンに向けて、僕は言い放った。
「――“口移し”できたんだ」
よほど信じがたいことなのだろうか、マリアが驚きのあまり、半歩よろめいたのが見えた。
「な、なんですって……」
マリアの背後には、月が見える。月光が妙に切なくて、僕は変な気持ちにさせられた。
奇襲逃亡作戦が失敗に終わった今、万策は尽きたと考えるべきだ。でも、諦めたくなかった。いや、諦められるはずがない。ここで逃亡が計れないこと。それはすなわち、沙夜の死を意味する。彼女は、一度は死を受け入れた。でも、主である僕はそれを許さない。だからこれは、沙夜からもらったラストチャンス。
マリアが、「確かに――」と小さくつぶやいた。
「その可能性は、否定できないわ。そんなバカなこと、誰も及んだことないもの。でも、だからといってどうするつもり? 言っておくけど、あたし、後悔なんてしてないから。またボロボロに傷つけるわよ。何度でも。その娘が死ぬまで――」
正直、マリアの言葉が、身の毛がよだつほど怖かったが、僕はできるだけ毅然とした口調を意識して、発言する。
「だったら、仕方ありません。セカンドステージ」
「は?」
「ふたつ目の手段を取らせていただきます」
――『ゆっくりと考えていこう、今度はふたりで』
それは、僕が沙夜にいった言葉だ。
短いですが、伏線回収回です。
次回 ⇒ 『#21 守護の道』12/30
(遅れる恐れがあります)




