#19 星のない夜に
沙夜の姿はすぐに見つかった。威勢よく飛び出た僕の意気を削ぎ取るぐらいに、早かった。
一棟の校舎からグラウンドまでの距離は、十メートルもない。校舎とグラウンドの間には、一衣帯水のごとくランニングロードが敷かれている程度で、障害物はといえば、寒風でなびく紅葉の木ぐらいだ。
本来ならば、一棟の窓からグラウンドが一望できるのだが、生徒指導室の窓には白いレースのカーテンが掛かっているために、こうして部屋を出るまでは、気がつかなかった。
「なんだよ……これ……」
グラウンドのど真ん中で、その“虐殺行為”が執り行われていたのだ。目の前で起こっている現実を理解できず、僕は唾を何度も呑み込んだ。喉元に焼けるような熱さを感じる。
グラウンドの中央、サッカーゴールが置かれた右端付近。そこで沙夜が苦しそうにうずくまっている。向かい立つのは、あの日、体育の授業中に見た、黒い犬だった。
シェパードのような体型をした中型犬は、サッカーゴールのポストの上に立ち、夜空に向けて、遠吠えを上げている。先週、校門付近で主人を待っていた時にはなかった、猛々しい姿形を前にして、僕は確信した。やはり、あれが、“犬神憑き”。
黒い犬の身体は所々、赤黒く染まっている。――憑きもの殺しの印。
そして、沙夜の身体も犬神憑き同様、猩猩緋色に染まっていた。しかし、楽観視できるようなことではない。
あれは“彼女の血で”染まっているのだ。
「沙夜ッ!!」
僕の叫びともとれる呼び声で、沙夜は僕の存在に気がつき、目を丸くしながらこちらへ顔を向けた。その後すぐ、彼女は相対する憑きものに視線をやり直す。
「ど、どうして来たんですかっ!」
緊迫した声色だった。
「どうして、だと……。それはこっちのセリフだッ! なんで、なんでだよッ! なんでお前、勝手なことばっかするんだよッ!」
沙夜に、この手の怒りが芽生えるのは何度目だろうか。また隠し事をされたことが、悲しいし、切ないし、苛立たしい。
通常この時間、賑わっているはずのグラウンドも、生徒たちはすぐ帰るように強制されていて、今は無人だ。部活動が行われないため、騒ぎ立てる生徒がいないせいか、一種の荒涼感を伴っている。
きっと、沙夜は唇を噛んでいるのだろう、と彼女の震える背中を見て、そう感じた。そして沙夜は、彼女らしからぬ声で怒鳴った。
「これは私の問題ですッ! ご主……あなたには関係ありませんッ!!」
今まで見たことのない彼女の迫力に、僕は一歩、後ずさっていた。
威圧されたのではない。彼女の強固たる決意を目の当たりにして、それが物悲しすぎて、うろたえたのだ。どうしてだか、僕がなにを言ったところで、沙夜の意思は変わらない気がした。
――『自分がしてきた罪を認識できた今、私はもう、この世に未練はありません』
お前は、殺されてもいい、と言うのか?
ひた、ひた、ひた……。
背後で、うす気味悪い音が鳴っている。右耳から左耳に流れるその音は、僕の心臓を絡め取るほどに、不気味なものだった。
ひた、ひた、ひた……。
スリッパが地面をすって音を立てる。ためらいながらも僕が後ろへ振り返ると、そこには、マリア・フランクリンが腕を組んで佇んでいた。夕日によって照らされた彼女は、口元を綻ばせ、我が意を得たりといった顔をしている。
「だから言ったでしょ。あなたはなにもできないって」
「マリアさん。あなたは一体何者なんですか……?」
僕は自分を落ち着かせるために、息を整えながら、ゆっくりと尋ねた。だが、返答は返ってこず、代わりに、マリアは薄く笑う。
「何者なんですか! どうしてこんなことをッ!!」
僕がもう一度、激しく問うと、マリアはプラチナブロンドの長い髪をかき分けながら、微笑んだ。表情に笑みを湛えたまま、一歩一歩、細い足を大股に動かしながら、腰をくねらせ、こちらへ向かって来る。この状況に似つかわしくのない、優雅ささえ感じるような挙動だった。
「あなたは、憑きもの殺し、という職業をご存知かしら?」
“憑きもの殺し”と聞いて、もう一度、唾を飲み込んだ。
――『私は、世間を混乱の渦に巻き込んだ憑きものですから、おそらく、“憑きもの殺し”の方は、私の存在を、この世から消そうとしているのです』
沙夜がこの間口にしていたことだろうが、深くまでは知らない。言葉の響きから穏やかなものでないことはわかる。
返答に窮した僕を見かねて、マリアは長い脚で砂を蹴り上げながら、不承不承と語りだす。
「憑きもの殺しってのは、人に取り憑いた憑きものを祓う職業のことね。わかりやすく言えば、イタコのような職業のことよ。最も、“霊を成仏させる”わけではなく、“生きた憑きものを殺す”わけだけど」
ここで、彼女がなにを言わんとしているのかは、おおよそ察することができた。それが、沙夜を殺す理由に直結してくるのだろう。
「あなたは、憑きもの殺し、なんですか? だから、沙夜を殺すつもりなんですか……?」
確認の意を込めて、僕は尋ねた。
「そうよ。普段は誰かに依頼された時に、憑きものを殺すんだけど、今回は例外。あたし個人の判断でその子を殺すの」
その子、と言う時、沙夜を指さした。
「あたしの家系は、代々“憑きもの落とし”、憑きものに取り憑かれた人間の厄を払う職業」
僕はマリアの憑きものに目をやった。犬神憑きは大人しく地面に座っている。先ほどまであった威圧を放棄した表情をしていた。主であるマリアの指示が出るまでは、動けないのだろうか。犬は忠誠心が強い生き物だと聞いたことがある。
「憑きもの、落とし?」
「憑きもの落としは、単に憑きものを説得したり、時には暴力的なことをして、依頼人から憑きものを取り祓う職業のことね。こちらは憑きものを殺さない。穏便にことを済ますのを目標としているわ。だって、殺さなくても、どーせ、一般人にはわからないんだし、その憑きものの主との間に、波風が立たなくてすむのよ。あたしの家系がそれなの、あたしは憑きもの落としの血族」
話の流れが読めなかった。
「だったら、どうして、沙夜を消そうとするんだ……。憑きものを殺す意味がわからない」
精一杯に虚勢を張ったつもりの僕だったが、声色は恐れを呈していた。自分でわかるほど、震えている。
「あたしは憑きもの落としの家柄で育った“憑きもの殺し”。危険な憑きものはこの世から消し去るべきだと考えているわ」
そこまで言うと、鹿爪らしい顔になり、息継ぎの代わりに舌打ちをした。
「でも、憑きもの落としの人間どもはそのように考えないのよ」
聞いてもいないのに、マリアは勝手に喋り続ける。
「ほら、都市伝説で病気にかかることがない薬の話を知らない? 実は病気にならない薬というものが開発されているけれど、それが販売されることは決してない。なぜだかわかる?」
「知らない……」
本当は、知るか、と怒鳴りたかった。しかし、恐怖心が胸から伸び、喉に絡みつき、僕は言葉を失ってしまう。
「それは、人間が病気を患わなくなったら、医者が儲からなくなるからよ。それと一緒。もし、世の中から危険な憑きものがいなくなったら、あたしの親族は職を失うのよ。憑きもののためだとか、命を奪う必要まではないだとか、もっともらしい論議を交わしているようだけれど、憑きもの落とし《かれら》は、自分たちの仕事がなくなるのを恐れているだけなのよ。それってさ、間違っていると思わない?」
「……知らない……」
「あたしはあんなご老中の旧弊的な考え方は嫌い。危険な憑きものは、問答無用で殺すべきだと考えているわ」
「だから、沙夜を殺す、ということか。……そんな理由で、沙夜を、勝手すぎるだろ!」
野蛮、という言葉が頭の中で浮かんだ。
「そんな理由? 勝手? そんなこと、法に書いてある? 憑きものを殺すべからず、って」
「だけど、あなたがやっていることは、……傲慢だ。正しいことじゃない」
「傲慢でもなんでも、この世界の均衡は、昔からそうやって保たれているのよ。あたしみたいな人間は世の中にたくさんいる。第一、憑きものに好き勝手やられたら、人類は滅亡の一路を辿ることになるのよ」
素人である僕が首を突っ込んでいい話ではない、と言い聞かされたようで、僕は茫然自失してしまう。次第に自信をなくしていく。自分が言っていることは、本当に正しいことなのだろうか――。
「まあ、あたしが直接手を加えることはしないんだけどね。憑きもの退治は、憑きものであるこの子に任せるわ」
そこでマリアは、親指で地面に這いつくばっている犬神憑きを指した。指された犬神憑きは、機敏とは言えない動きで、むくりと起きあがる。牙をむき出しにすることはないにしても、威圧感を十二分に醸し出していた。
「犬神憑き……?」
「そう。多分あなたも知っていると思うけれど、憑きものの使い道って、取り憑かせるだけじゃないのよ?」
その話は沙夜の口から聞かされていた。憑きもの筋が持つ妖力を憑きものに注ぎ込むことによって、憑きものに凄まじい攻撃を繰り出させたり、憑きものが負った傷を回復させたりできる。
「道……ってやつか……」
「その通り。個体それぞれにさまざまな能力があって、この子は、あたしが憎しみを持った相手を爆大な力を持って攻撃する能力。――というわけで、殺させてもらうわね、その小娘憑き」
確かに、僕は憑きものの世界のことをまるで知らない、ただの人間だ。
それでも、そんな不条理がまかり通っていいはずがない。
「待ってくれ! 僕は納得できない!」
マリアに向けて訴えかけたつもりだったが、
「あなたは帰ってください。この話はあなたには関係ありません」
返答は後ろから響いた。沙夜が無機質的な声色で、そのように言ったのだ。
「お前、なに言って……」
「そういうこと。お互い了承済みってわけ」
マリアは、すでにひと仕事終えたかのような、勝ち誇った顔をしている。気が付けば、僕だけ取り残されていた、そんな気分になる。
「なんで……」
「続けなさい」
マリアは腕を振り上げて、犬神憑きに合図を出した。それによって大人しく腰を据えていた犬神憑きが、空気を殴りつけるような、鈍い雄たけびを放つ。
そして、犬神憑きの口に吸いこまれた空気が、おどろおどろしい色に変わっていった。まるで周囲の空間を曲げるように、視界に映る風景が歪んで見える。途端に、ぐらぐらと足元が揺れた。
「なんだよ……、なんだよこれ!」
もう一度、彼女たちを見やれば、マリアと犬神憑きを取り囲むようにして、どす黒い紫煙が漂っていた。それが、毒の霧のようにも、物理的な攻撃のようにも、僕の目には見えた。
その煙は、次第に凝縮していき、毛糸が一点に巻き込まれていく光景さながら、球体を作っていく。
びりびりと頬の皮膚を焦がすような威圧感を前にして、危険だ、直感的にそう思った。もし、この一撃が直撃することになれば、ただではすまない、いや、死ぬかもしれない、そうとさえ思えた。
憑きものが攻撃する光景を目の当たりにして、歯の根が合わずにひたすらに音が鳴った。恐怖のあまり、足が震えているために、ますます視界が揺れる。彼女らはまばたきする間さえ許してくれそうにない。
だけど、攻撃にそなえて、僕は沙夜の前に立った。
怖くとも護ると誓ったじゃないか、沙夜は僕が護る、と――。
しかし――。
「どいてくださいッ!!」
沙夜が今まで見せたことのない俊敏な動きで、僕を突き飛ばし、前方へ回り込んだ。傷だらけの彼女が僕の身を攻撃から庇うように――。
ゆっくりと傾いていく視界に映るのは、小さな彼女の背中だった。
「な、なにやってんだッ! お前ッ!」
そして、その行為を待っていたか、と言わんばかりに、マリアが腕を振り下ろす。同時に犬神憑きの口元がまぶしく瞬き、爆発音が轟いた。
「う、あ……」
横から突風を浴びたような衝撃により、身体が数メートル吹き飛ばされた。同時に、マリアの表情が視界から消えた。目前、周囲一帯に紫煙と砂埃が立ち込めたからだ。
広いグラウンドであるのにもかかわらず、その全域にまで砂が舞ったような気さえした。それほどの爆発力を誇った攻撃。
頬に砂のざらつきを感じながら、僕は砂煙に潰されないよう目を瞑った。直後――。
「ひ、ああああああああああああああ!!」
すぐ近くで悲鳴がなった。鼓膜を破るような声量で叫ばれたその悲鳴が、誰のものかなど考えるまでもない。
「沙夜ッ! おい、どこだよッ!!」
――沙夜の悲鳴だ。僕は身体を起こし、目の前の砂を払うように腕を振った。焦る気持ちが絡まって、頭の中を混乱させる。
次第に砂煙がおさまり、視界が開けていく。目前には悲鳴を上げて倒れる沙夜がいた。額から真っ赤な鮮血が流れている。
「そんな……!」
「ああ、うぅ……ぁぁぁあああああああああ!!」
地面へどくどくと伝う彼女の血。僕は、金切声をあげる沙夜を見ていることしかできなかった。沙夜を支えるつもりで手を伸ばしたが、血だまりの中で倒れる少女の腕が潰れたように真っ赤に染まっていて――――……。
「沙夜ッ! うわぁああああああああぁああああッ!」
身体の頭からつま先までを通っている精神の芯が、脆い音を立てて崩れた。――そんな気がした。心神喪失状態に陥りながらも、歯を食いしばり、ふらふらした足取りで倒れる彼女の前に立つ。
「や、やめろっ! これ以上……、許さない。許さな……」
語尾は言葉にならなかった。その理由は、恐怖で委縮したからではなく、
「なんだよ……。沙夜! なんでお前まで!」
倒れたままの沙夜が、僕の足首を強く握って、言動を押しとめたからだ。
沙夜は唇を食いしばって、僕の方へ鋭い視線を投げている。この期に及んで、僕を巻き込みたくない、そう思っているのだろう。これだけの危機を前にしても、濁ることのない彼女の眸から、そんな意志が痛いほど伝わってきた。
僕らのやり取りに、マリアが口をはさむ。
「だーかーらーさー。その子はもう、覚悟を決めているって言ったじゃない。あたしたちとしても、人間を殺しちゃ色々と問題になるのよ。殺すのはそこにいる憑きものだけ」
「な、なんでだよ、沙夜! どうしてッ!」
血が垂れ続ける額を抑えながら、沙夜はそっと起きあがる。荒い息を吐き出しつつ、痛みを堪えるように唇を強く結んだ。
彼女の身体が動く度に、額から、腕から、ふくらはぎから、到る所に負った傷口から、血が噴き出る。凄惨な姿を目撃した僕は、認められない現実から逃れるように、意識を失いそうになった。
そんな僕を支えるように沙夜は、僕の両手を握り、耳元でささやいた。
「だい……じょうぶ、……です。あなたが、狙われることは絶対に、……ありません。早く逃げ……」
彼女の言葉を聞いて、心の奥底から、激しい怒りが込み上げてくる。
「ふ、ふざけんなよ……バカ言うなッ!! お前を見捨てることなんてできるわけないだろ!! 僕はお前の主だ! 勝手な真似をするなと言っただろッ!!」
激昂しているつもりだが、懇願している気分でもあった。
頼む――。これ以上――。ひとりで無茶をしないでくれ――。
途端、沙夜が声を上げた。
「帰れって言ってるんですよッ!!」
彼女の鋭い声音を前に、僕は言葉を失った。自然にふらふらと足がもつれて、二、三歩後退した後、堅いグラウンドの砂上にしりもちをついてしまう。
沙夜は僕に目もくれなかった。ただ、うつむいたままの彼女の口が開かれる。
「わ、私は、罪を償いたいんです。私は、あなたが、なにもしないことを望んでいます。あなたに身体を張られると、私がつらいんです……」
「罪を償う……? お前……そんなことまで、考えていたのか……?」
次第に、りきんだ筋肉が弛緩していくのを全身で感じた。沙夜の一言で、怒りも憎しみも吹き飛んだ。その一言は、僕にとって、どんな言葉よりも“残酷な言葉”だった。
僕に、彼女の決意を無下にする権利があるのか?
「私のことなどおいて、逃げてください……」
沙夜が念を押すように、もう一度言った。思いもよらないほど強い彼女の決意を前に、僕はなかば諦めかけていた。それでも、彼女を死なせたくない、という意志は依然として残っている。
「そんなことできるかよ……。できるか、できるわけがないだろ……」
僕は冷たい沙夜の身体を抱きかかえて、
「よ、余計なことを……しないでください……私は……」
ぐっと持ち上げた。沙夜の言い分を無視して、僕は一心不乱に駆け出した。そのまま、グラウンドを出て、ランニングロードを横断し、正面玄関から校舎へ入る。靴を脱ぎかえている暇なんてないので、土足のまま細長い廊下に足を踏み入れた。
マリアと犬神憑きが後ろから追ってくる気配はない。近寄ってくる音すら聞こえない。僕と沙夜が密接しているため、攻撃ができないのだと予想した。
それは僕を傷つけてはならない、という配慮からなのだろうが、沙夜が息を引き取るのが、時間の問題であるということもわかっているのだろう。勝負はもうついているというように、彼女らは悠々としていられるのだ。
何度も、放してくれ、と沙夜に頼まれたが、僕は聞かないように彼女から意識を遠ざけた。彼女が乱暴に腕を振りほどこうとしないのは、きっと、言葉とは裏腹に、『助かりたい』と思っているわけではなく、振り払うだけの体力が残っていないのだろう。立っているだけでも、やっとだったのだ。
僕は沙夜の身体を丁寧に抱きかかえながら、爪が食い込むほど、こぶしを強く握っていた。なにもできないことが悔しかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
沙夜の姿は一般人には認識できない。なので、憑きものを抱きかかえて歩く光景は異形なものに映る。もはや、気にしていられなかった。そもそも、今、この時間の校舎には、ほとんど人はいない。
僕は渡り廊下を横切り、二棟一階の上級生教室が並ぶ見慣れない廊下を、おぼつかない足取りでひたすら進んだ。知り合いに会わないことを願っていたが、生徒会執行部室の前を通り過ぎた時に、後ろから声をかけられた。
「……あっちゃんくん?」
全身の筋肉が硬直し、思わず振り返りそうになったが、慌てて、逃げるように歩みを進めた。声の主は、おそらく同じクラスの手嶋美代子だろう。他の部活動とは違って、生徒会の面々はまだ帰宅していないようだった。
僕は、彼女を無視して足取りを速めることにした。階段を上がり、三年の教室が並ぶ廊下に及んだ。手嶋が僕の後を追いかけてくることはなかった。悪いな、と思いつつも、僕は更に足早になった。
「どこかに、隠れないと……」
「は、放してください……」
「うるさい……。静かにしてろ……」
二棟三階の片隅にある三年D組の教室に入り、沙夜を床に寝かせて、ひたすらに息を殺す。僕は、掃除道具入れと壁の隙間に身を収めしゃがみ、沙夜の身体は、閉まったドアの目前に寝かせておくことにした。
そこに寝かせれば、さほど用心して覗かれない限り、小さな窓から沙夜の姿を発見することはできない。ドアを開けられたら一巻の終わりだということは、わかっていた。だから、恐怖や寒気が巻き上がり、僕の心を怯えさせる。
人のいない教室は不気味なほど静かだった。受験の会場作りのためか、教室内の机と椅子は整然と並べられていて、普段の学校とは、別世界であるような気がした。なにより、外界から遮断されたように暗く、不吉で、そして、とても寒かった。
ひた、ひた、ひた。
突如として発生したスリッパの音が静寂を掻き乱す。廊下から聞こえてくるその音によって、冷や汗が背中にじわりと伝う。僕は呼吸を止め、額からにじむ汗を袖で拭った。
足音がマリア・フランクリンのものだとは、姿を見なくとも確信していた。スリッパが廊下をするたびに、心臓が張り裂けそうなほどの勢いで何度も爆発する。
ひた、ひた。
一瞬の間、足音が消えたような気がした。ひとつひとつの教室を確認して回っているのかもしれない。
ひた、ひた、ひた。
足音が再開したので、僕はぎゅっと目を閉じる。沙夜を殺そうとしている人間にしては、やけに落ち着いた規則的な足音だ。心臓が止まりそうな思いで、僕は息を殺す。沙夜のつらそうな荒い呼吸だけが、教室内を支配した。微弱な音だが、気がつかれたらまずい。
ひた、ひた、ひた、ひた。
僕は祈るような気持ちで耳を澄ましていた。
ひた、ひた……。
徐々に足音が小さくなっていく。
どうやら運よく発見されることなく、マリアはこの教室前を通り過ぎたようだった。それでも、安堵することはおろか、一息つく気さえ憚られた。足元には満身創痍の沙夜が倒れている。
「ごしゅじん……さま…………」
「しゃべらなくていい、今すぐ、医者……」
まで言った時、身体に戦慄が走った。僕は、憑きものである沙夜を、医者に連れて行くこともできない。
――『どうにもならないわヨ……』
マリアの言葉が頭に巡る。
「くそ……、血が……」
血が止まらない。
「どうすれば、どうすればいい……」
沙夜の身体を見れば、素人目でも“手遅れ”であろうことは、安易に想像がついた。
もはや、この傷だらけの少女が死ぬのを、僕は傍観していることしかできない。マリアの言う通り、どうにもならない。だけど、その事実を認められずに、認められるはずがなく、打開策を探そうと思考回路を働かせる。
沙夜が小刻みに身体を震わせながら、僕の顔を見た。
「あはは……、なに情けない顔しているんです……。もういいって、言ったじゃないですか……。あなたは……、本当に、愚かですね……」
「しゃべるなって言ってんだろ!」
くそ、と荒げた声を吐き出して、僕は地面を強く蹴った。その拍子に世界が震動するように、学習机がギシギシと音を立てて軋む。そんな気がした。
焦りはもの凄まじい速度で上昇していく。沙夜の身体節々から流れる血が止まらない。どうにかして止血してやりたいが、傷口に触れてはいけない、それは死期を早めるだけだ、ゴスロリ調の服一面に付着した血を見て、本能的にそう感じた。
「なんでだよ……。なんで僕はお前になにもしてやれないんだ……。どうしてやることも、できない。…………僕みたいな人間が、介入してはいけなかったんだ……」
ついこの間までは、そんなことを考えたことは、一度たりともなかった。沙夜のおかげで僕は自分を見直すことができた。変われることができたのだ。だから、むしろ、沙夜と出会えてよかったと思ったぐらいだ。心から彼女を護ってあげたいと思った。
だけど、結局、それが災いした。
「僕がお前を学校に連れていったから、お前は憑きもの殺しに目をつけられた……。こんなボロボロになるまで、傷ついた。僕のせいだ、ごめん……。ごめん……。お前は、僕なんかと出会うべきじゃなかったんだ……」
自暴自棄寸前の心理現象が襲う。それは良心の呵責から生まれた罪の意識というものではなく、ただ単純に、残った後悔。懺悔。
沙夜は僕に言った。
「いいえ。そんな……ことありま、せん。私、楽しかったですよ……。あなたと……いて、毎日が、楽しかった」
「沙夜……」
「それに、私……、嬉しいんです。自分がしてきたことの、愚かさを知れて、よかった……」
「やめ、……ろよ。これ以上、しゃべんな、って」
「私は、あなたに出会えてよかった――」
沙夜は唇を小さく開いて、かすかに、笑った。
「――こんな気持ちで“死ねる”自分が幸せです」
言葉の意味を理解するのに、数拍の間を要した。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「やめろッ! 死ぬなんて言うなッ! 間違ってるだろ、こんなの……。なんで、お前が死ぬんだ、殺されるんだ。意味がわからないだろ。沙夜は、なにも悪くないじゃないか。悪いのは……」
――――いない。
「悪いのは…………」
この物語に、悪者なんて、いない。
憑きもの殺し、マリア・フランクリンが悪いわけではない。彼女の憑きものである犬神憑きが悪いわけでもない。彼女らはあくまでも、憑きものの世界に敷かれたルールを遵守しているに過ぎない。
沙夜はなにも悪くない。彼女は自分の罪を認めて、潔く命を絶とうとしている。それぞれが、憑きものの常識に則って――。
そして、沙夜は受け入れている。自分は殺されてもいいと思っている、自分が犯した罪の重さを知っているから――。
それでも、強いて悪者を決めるとしたら、それは僕に値するのだろう。沙夜を護ること。単なる、僕のわがままだった。沙夜の身をマリアに差し出す。憑きものの常識に基づけば、それがきっと正しいのだろう。
だけど嫌だ。
嫌なものは嫌だ。
嫌だ。嫌だ。
僕がずっと見続けてきた世の中にだって、間違った法律はあった。子供の僕でも釈然としないものがあった。それを当然と割り切ることこそが、この世の理。常識。
どれだけ不道徳な法律でも、どれだけ悪に偏った法律でも、一個人の判断で、曲げることは許されない。法律をかいくぐった先に、本当の悪人がいるような錯覚さえ生じてしまう、そんな世界。
憑きものの世界の常識も同じなのだ。単純な話、そういうことだ。頭ではわかっている。割り切れないだけだ。
嫌だ。嫌だ。
こんなの、嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ――。
「ご主人様……」
錯乱状態に陥りそうになった僕の手を、沙夜の手が握る。死期が迫っているはずなのに、そんなことをまるで感じさせない、安らかな笑顔を僕に向けて――。
この柔らかな体温は、いずれ失われていくのだろう。余裕なんてないはずの彼女は、僕に微笑みながら、唇を小刻みに動かした。
「ご主人様、お願いがあります……」
窓を通して見える都会の夜空には、星はひとつも浮かんでいない。闇夜をくり抜くように、赤白い月だけがぼんやりと浮いている。月光に照らされた沙夜は、ほのかに笑っていた。これは、偽りじゃない。初めて見た、沙夜の本当の顔。涙すらも見せない、彼女の顔は――。
とても、美しかった。
「最後に……、あれ、してください」
最後に――。
最後に、唯一、沙夜にしてやれること。
僕は細い首を抱きかかえるように持ち――。
沙夜の唇にそっと口づけをした。
もうすぐ、このやわらかな唇も、このルクリアの香りも、この体温も、なくなってしまう。
まるで、全てが夢だったかのように――。全部、全部。
……嫌だ。
ぐったりと力をなくした沙夜は、大きな動きを見せず、微笑むことでそれに答えてくれた。その表情は母のように柔らかなもので、あなたが気負う必要なんてなにもない、そう告げているかのようだった。
「……沙夜」
できるものなら、この場で大声を出して泣きたかった。やりきれない思いを、叫び、零し、吐き出したかった。けれど涙がでてこない。
これは罪悪感から生まれた感情ではない。こんなひどいありさまを前にしては、慟哭する気にもなれなかった。
今思えば、あの時だってそうだった。両親が死んだ日。僕は泣かなかった。その理由が今、はっきりとわかった。悲しみやつらさ、罪悪感よりも、悔しさや怒りの感情の方が強く押し寄せてきたのだ。空虚感に襲われて、自分の精神を保とうと、ひたすらに放心する。
臆病な人間だ。この状況になっても、心から泣けない自分に嫌気がさす。
内側では意地汚い感情が宿る。沙夜を攻撃した犬神憑きが憎い。マリア・フランクリンが憎い。なによりも、なにもしてやれなかった自分が一番、憎い。
僕は沙夜を強く抱きしめながら、死後の世界を想像する。
憑きものは死んでしまうとどうなるのだろう。人間や他の生き物と同じように魂となって、この世に残り続けるのだろうか。
せめて、そうであれば、いいな。
今まで、これほど幽霊の存在を信じたくなったことが、あっただろうか……。
“酷い頭痛がしたのは、その直後だった”。
次回 ⇒ 12/28
まさかの明日。どうにかして、今年中に終わらせたいので、更新速度を加速させます。




