#1 忍び寄る小娘
「やっぱり……っ! やめとけば、よかったんだっ!」
僕は小言を漏らしながら夜道を走って帰る。結局、深夜のファミレスでの勉強は全くといっていいほど捗らなかった。三時まで粘り、頑張ってみたものの、頭に入った知識は、世界史の重要用語三十九個と英語の単語二十五個、数学の公式四つ。あとは会員登録を済ました方がお得だという、若者たちの雑談から得られた情報だけだった。それもこれも、今体験している怪現象を前にして、全て吹っ飛んでしまいそうなわけだが。
僕は今、何者かに追われている。
足を止めることなく、ちらちらと背後をうかがってみるが、映るものはない。
しかし、それでも走った。なにか漠然としたものに追われているような気分を催したからだ。
身体に走る悪寒、鳥肌が立つほどのおぞましい気配。
それは、錯覚か幻覚か。
それとも、事実丸出しで向かって来る悪霊か。
「夜中に出歩くなんてばかげていたっ!!」
暴挙に及んだことを痛烈に後悔していた。こんなことになるぐらいだったら、家で勉強していればよかった。用心深い僕がここまでのへまを踏んだのは初めてだった。
「あぁ!」
僕は突如として頭に生まれた痛みにふらついた。
「なんだ、これ、頭が痛い……」
そして――
『……ザ……ザザ……のようですね』
――ノイズのような音が頭に響いた。いや、音というよりも声、声というよりも“オモイ”。電波の悪いラジオから聞こえてくるような非常に捉えづらい“思い”。
僕は思わず地べたにうずくまってしまう。頭を抱えて身もだえを繰り返す。こんな時、通行人でもいたら心だけは安らぐかもしれない。だが、どうやら、そんな期待はしない方がいいらしい。人通りが全くない閑散とした小路。そこで僕はうずくまる。
「ははは、勉強のし過ぎで頭がおかしくなっちゃったのかな、急にやる気を出すもんじゃ、ない、な。明日はテストだから早く帰って眠らないと……」
自嘲気味に笑ったのは、平常心を保つための策だった。頭を抱えて頭皮をさする。気持ちを落ち着かせようと目を瞑る。しかし、声は止まない。リラックスさせようと身体の筋肉を弛緩させると、堰を切ったように僕の脳裏に“思い”がなだれ込んできた。
僕は身体をくの字にくねらせながら悶え叫ぶ。
「あ、あああああああああああああああああああッ!!」
それは、雪崩のような、津波のような、暴風のような、荒れ狂う激痛。
何時かが経過すると、激しい痛みは次第に治まった。そして、気が付いた時には、不明瞭としていた“思い”が鮮明なものへ変わっていた。
「――えへへ、どうやらお困りのようですねっ! 私と取引きしませんか?」
………………へ?
その“思い”が少女のような甲高いものだと気が付き、僕は唖然とさせられた。
数秒の間をおいて、僕は現実に吸い寄せられるように我を取り戻した。
しかし、聞こえてくる“思い”がアニメチックな可愛らしい声色だったからといって、安心させられた気になるのは間違っている。むしろ警戒すべきだ。大抵の怪談話は油断させた後に大落ちが来るものだ。
僕は騙されるものか、と意気込んで身構えた。
「誰だっ!?」
警戒しながら後ろを振り返る。だけど、振り返ったところでそこには誰もいなかった。暗い夜道に街路樹と街路灯が点々と置かれているだけだ。近くにある人気のない駐車場が不気味な雰囲気を漂わせて視界の中で白く浮かんでいる。あとは軒を連ねる民家。それだけだ。
気のせいか、もしくは“通り過ぎた”か、と考え直して僕は歩みを再開した、その時、
『あ、あー、えと、取引きと言っても、別にあなたの命を奪おうなんていうわけではないので。その、そんなに身構えないでください』
再び頭の中に“思い”が響いた。そこら中から語りかけられるような気持ちの悪さ。僕はしばらくの間、口を開けて固まっていただろう。なんといったって、確実に辺りには誰もいなく、そして確実に“思い”は僕の頭に響いているのだ。
常人には見えない生物。僕らの世界ではそれを幽霊という。
過去に、幽霊、妖怪の類が目に映ったことは確かにあった。しかし、語りかけられたことはなかった。ああいった連中がこちら側に干渉してくることはありえないのだ。そして、僕も避けるように関わらないことにしていた。
僕はあくまでも見えるだけ、奴らはあくまでも見られるだけ。そう思っていた。
『ここですよ、ここにいます。わけあって、あなたの影に姿を隠れさせていただいています』
僕はハッとなって地面に視線を落とす。そこにあるのは街路灯によって照らされてできた僕の影に他ならなかった。
しかし、どこかがおかしい。僕の影であるはずなのに出来上がった影の形体がおかしいのだ。
まず身長が低い、光の高さから計測して、元の実像は一五〇センチほどの身長にしかならない。僕の身長は一七〇センチだ。そこがまずおかしい。
それに髪型も変だ。僕は長めのストレートヘアーであるわけだが、影の髪型はツインテールのような形状をしている。髪の色までは判別つかないけれど、明らかに僕の髪型とはかけ離れていた。
「僕の身体になにをしたっ! なにが目的だっ!」
影に向かって叫ぶ。僕の頭に返答が響く。
『さっきから言っているじゃないですか。取引きして欲しいと交渉しているんですよ』
取引き。異様な形に変わった僕の影。これは脅しなのか、僕はそんなことを勘ぐりながらおそるおそる気になった部分を質すことにした。
「なんだよ、その取引きってのは?」
『話は了解しています、ずばり、あなたは今、非常に困っていますね。試験が明日に控えているというのにもかかわらず、自分の頭脳が“愚か”過ぎて、試験を乗り越える自信がない。その愚かな頭を少しでもマシなものにしようと始めた付け焼刃も見事に失敗。抜き差しならない状況に立たされているとみました、はい』
やけに辛辣な言い回しをされたのにもかかわらず、あまりいらっとしなかったのは、僕が混乱しているためか、少女の声が可愛らしいものだったためか――。
慎重に会話に挑む。
「む、ま、まあ、そうだな。確かに僕はその件で困っている。つ、つまり、取引きっていうのはあれか? 寿命を捧げれば知識を供給しよう、とでも言うつもりか?」
ここで黒い影がまたピクリと動いた。人間で言うなれば、焦っているような素振りだ。図星だったのかどうかはよく分からないが、悪魔であった場合、あまり頭が切れる悪魔ではないということはわかった。
僕の影は僕の意思とはお構いなしに喋り出す。
『あの~、なにを勘違いなされているのか甚だ見当が付きませんが、私は悪魔ではないのですよ? さっきから言ってますが、命を取るつもりなどないです、はい』
「どういうことだよ?」
この時の僕を傍から見れば、相当苦い顔をしていたことだろう。胡散臭いことこの上ない。詐欺師が自分の素性を隠したがるように、利口な悪魔は自分が悪魔であるという事実を明かすことをしない。
なにかの小説で読んだ覚えがある。悪魔は頗るずるがしこいのだ。
『そうですねー、強いて言うならば、私は“情報屋”です。それが一番わかりやすい表現かと、はい』
情報屋。場に相応しくのない言葉が僕の影から唐突に飛び出したので、僕は眉をひそめた。
「じょ、情報屋だって? じゃあ、どうやって明日の試験を乗り越えさせてくれるんだよ?」
『ふふふ、これでございま~す♪』
声と同時に僕の影が少しだけ伸びた。胸を張っているのだろう。張り出した胸部が少しばかり膨らんでいる。そこから、発達途上な少女体型であることをうかがい知れた。
僕が影の身体を注視していると、地面から一枚の紙が生えてきた。紙面はたくさんの文字と四角で形成されており、文頭には学年末、と書かれている。ふと見てわかった、これは――
「――明日の試験の解答用紙ッ!!」
間違いない。問題数が極端に少なく、一問一問の答えが重要視される。僕の高校の数学教師、竹内が作成した問題用紙であることは、うちの生徒ならば誰でも分かる。
僕は悪魔に魅入られるように、無意識的に手を伸ばすが、用紙は呑み込まれるように、再び地面に沈んでいった。
「なんだ? くれるんじゃないのか?」
遊ばれているようで無性に腹が立つ。実際に僕の反応が面白いのか、影は笑っていた。
『えへへ、勘がいいですねー、私、頭が働く人間は好きですよ♪』
「僕をからかっているのか! なんでもいいけど、とりあえず顔を出したらどうだ!」
不気味なことこの上ないのだが、とにかく、容姿を確認しなければ怖がるにも怖がれない。そんな僕の要求に対して、影の人差し指がぴっと突き立てられた。
『それは承服しかねます。私、その、訳ありですので。屋外で姿を現すことを控えているのです』
僕と僕の影との対話。きちんと会話は成立しているし、言葉も通じている。物わかりもよさそうだ。なので、
「じゃ、引っ込んでくれ」
素っ気ない言葉を並べることにした。
すると、その言葉にどうしてだか影は焦っているようで、影の形が縦にピンと伸びた。きっと背筋を伸ばして驚いているのだろう。
『そ、そんな突拍子のないことを言いますかっ!!』
「引っ込んでくれ、僕はそんな紙切れ一枚で魂を売るつもりはないぞ」
僕の意思は固い。
幼少の時から見えてはならないものが見えるため、疑心暗鬼を生じるほどまでに人を信頼しなくなってしまった。相手が人ならざる者であるならば尚更だ。我ながら悲しい性格だと思う。
すると、さすが僕の影と言ったところだろうか、僕の性格を継承しているように、淡泊な対応であっさりと引き下がった。
『わ、わかりましたよ。とにかく、それをお役立てください』
先ほど、からかうように見せびらかした解答用紙を地面に置くと、奇妙な形に変容していた影が不意に元の形に戻った。
「な、なんだったんだ……」
結局、取引きとはなんだったのか、なぜ僕の前に現れたのか、それらの疑問が明らかになる前に勝手に消えてしまった。
莫大な緊迫感を張りつめた空気から解放された僕は安堵の溜息を吐いた、瞬間。
『あ、それと、余談かも知れませんが……』
次は背後から“思い”が聞こえた。
「うわっ! まだいたのか!」
消えたわけではなかったらしい。知らずのうちに、影が僕の足元を潜り抜け、背後に回り込んでいたのだ。
影は一方向だけに形成されるとは限らない。街灯は小路一帯に点在しているため、僕の影はぶれるように複数形成されているのだ。どうやら、僕の影の中でならば好きなように行き来できるようだった。
『いずれ、また現れます。その時にでも、ゆっくりとお話させていただきましょう、“小娘憑き”につきまして。では、また後ほど♪』
そんな言葉を残して、今度こそ本当に僕の影は従来の僕の影へと形状を戻した。
僕はやはり眉をひそめることしかできないでいた。