#16 あふれ出す思い
時刻は十時三十分。もう外は真っ暗だった。都会の空には、星の明かりを期待できない。見上げれば、月だけが赤白くぼんやりと浮かんでいた。これだけ走っても月と僕との位置関係は変わらない。足がもつれそうになりながら、どこまで行っても途切れることのない暗闇を駆け続ける。目的地は――。
三々五々《さんさんごご》と歩く人を追い抜き、大通りに架かった道路を横断する。交差点をまたいで、路地に入る。二手に分岐した道を右折して、そこからさらに細い路地に入った。
「はぁ、はぁ、はぁ」
息が荒い、息遣いが乱れている。呼吸の仕方を忘れたかのように胸が苦しかった。それでも、走る。スピードを緩めることなく顔を上げると、遠くにファミレスの看板の明かりが見えた。
「沙夜……っ! おい、沙夜っ!」
僕は立ち止まって、沙夜の姿を探した。やはりここは閑散としていて、周りには誰もいない。猫だけが僕の声に反応して、くぐもった鳴き声を発しながらエアコンの室外機の裏へ逃げていった。
そう、ここは木曜の夜、僕らが出会った場所。
「沙夜! いるのかッ!」
しかし、沙夜の姿が見つからない。呼びかけても返事がない。だけど、ここにいると確信めいたものを感じていた僕は、執拗に辺りを見渡した。すぐ横には、民家が立ち並んでおり、小路の奥まった所には、駐車場が設置されている。闇夜をくり抜いたような白い駐車場。それがやけに目に留まった。
薄ぼんやりと浮かんだ白い空間。引き寄せられるように、ふらふらと向かった。駐車場の中に足を踏み入れると、電灯に照らされてできた小さな影が見えた。じっと目を凝らす。
小柄な身体に、大きなツインテール。髪留めとして使われている王冠だけが、電灯の光で煌びやかに輝いていた。心臓が飛び出そうになった。息を呑み込んで確信する。
予想が的中したのだ。
そこに沙夜がいた。
始めは彼女の真っ黒な服装が、夜道に溶け込んでいて気が付かなかった。駐車場が黒色のものだったのならば、永久に彼女を発見できなかったかもしれない。もしものことを漠然と考えて、僕はぞっとした。いや、結果論、なんにせよ見つけることができてよかった。
だが、まだ安堵するわけにはいかない。沙夜はこちらに背中を向けて、駐車場の片隅でうずくまっている。緑色のフェンスに指を引っかけて、痙攣するように震えている。苦しそうな、つらそうな、様々な辛苦を抱えた小さな背中。
なにか悪い予感がした。
「沙夜……ッ!」
僕は彼女に向かって一歩前進する。ひやりと冷たいコンクリートの感触が、そのまま足の裏に伝わったような錯覚が生じた。足がとても重たいものに感じるのは、慎重になっているからか。
沙夜は僕の声に気が付いたようで、一度全身を震わせた後、細々とした声を発した。
「……来ないで、ください」
顔をこちらに向けてはくれない。耳に届いた言葉があまりにも、弱々しくて、消え入りそうで、僕は彼女との距離をさらに縮めた。
壊れかけた橋の上にいるように、足元がゆらゆらと震動している気がする。一歩一歩と慎重に歩き、緑色したフェンスにもたれるような格好で、僕は沙夜の背後に立った。沙夜との距離は二メートル。まだまだ遠い。
「どうしたんだよ……?」
彼女がようやくこちらへ振り向いた。
「ごしゅじん……さま……」
妖力を供給していなかった時間は、二時間ほどだったけれど、振り向いた沙夜の顔がげっそりとやつれていた。頬が少しだけこけている。なによりも目の周りが赤かったことが、僕をひどく心配させた。円らな眸が、わずかに充血している。
「バカッ! なにやってんだよッ!」
慌てて半憑依状態を維持できる位置まで距離を詰めた。僕の影と沙夜の実像をつけると、頭に烈々とした激痛が走り、心身共に痛めつけられる。半憑依状態になったために、体内の妖力が急激に減少したのだ。
「ッ!」
たかが二時間だけ妖力を供給していなかっただけなのに、この痛み、この衝撃。まるでそれが彼女のつらさを丸々表しているようで、やるせない気持ちになった。それでも、激痛によるショックを顔に出さないようにと、奥歯を食いしばって、平常心を装うことにした。
しかし、そんな僕の気遣いなどお見通しというように、沙夜は申し訳なさそうな顔をしてうつむいてしまう。
震える彼女の肩に右手を置いて、なにか声をかけようとしたが、言葉が上手く出てこないまま、僕は首を横に振った。沙夜の肩はひんやりと冷たかった。身体だけでなく心までもが冷え切っているような、そんな錯覚を感じてしまう体温。逡巡した後、僕は言った。
「わけをきかせてくれ、どうして、“さよなら”なんて言ったんだ?」
こんな境遇じゃなかったら僕は自分自身を揶揄していたことだろう。僕の口から飛び出す言葉は、まるで、フラれた男のもののようだった。憑きもの相手に主が下手に出ている。
「迷惑かけたくないんじゃなかったのかよッ! 答えろよッ!」
女性に依存してすがり付くような、ひどく空しい男。わびしい気持ちになったけれど、なりふりかまってもいられない。彼女の両肩を掴み、力強く沙夜の身体をこちらへ向けた。そうしてから、目に力を加え、沙夜を見つめた。彼女は視線を泳がせて、僕に目を合わせようとしない。
「…………わかりません……でも……そうした方がいいんです……」
潰れてしまいそうな声で、やはり沙夜は言葉を濁らすだけだった。とはいえ、なんとなくこう答えるだろうとは思っていた。すんなりと吐き出せるような悩みだったのならば、別に家を出ていく必要はない。
「はっきり言ってくれ」
真上では切れかけた街灯が、ちかちかと明滅を繰り返している。今、僕らを繋げているのはあの街灯だ。頭上で眩むか細い灯りが、僕らの唯一の支えであるような気がして、心細く、不安になった。もし、消えてしまったら、きっと、沙夜の心が真っ暗闇に放り出される。都会の空に星は浮かばない。
「言ってくれ……」
――頼む、消えてくれるな。
願いを天に向けて放つ。
僕の身体は、よっぽど疲れているようで、ぼうっと意識が朦朧としていた。どこかよその世界に魂を持っていかれるような――。
「“あれ”、私のせいなんです……」
沙夜が口を切ったことによって、僕は現実に吸い寄せられた。
「……“あれ”って?」
頭の中を探ったが、沙夜が“あれ”と呼んだ出来事を、思い浮かべることができなかった。しかし、“あれ”と呼んでいることから推察して、僕が知り得る出来事のはずだ。沙夜の言葉を待つ。
「最近……、テレビで報道されている話は……、ご存知ですよね?」
「テレビ……。報道……?」
沙夜の言葉に、心臓が止まったように呼吸ができなくなった。全身の皮膚が粟立ったのを感じる。
「お、大津製薬という会社がありました。社長が亡くなったことによって、倒産してしまった会社です……」
――大津製薬。どうして、沙夜の口からそんな単語が出てくるんだ?
その話は最近よく耳にしていた。死んだ社長の名は、若林と言ったか。確か、先週の金曜に泰誠も同じようなことを言っていた。
いや、でも、それは、僕には関係ない。そう、関係のない話だ。そうだ、他人事だ。人間の経済なんて、憑きものにだって、関係のない話のはずだろう?
嫌な予想が何度もよぎる。バカな――。
――『以前、私が尽くしていたご主人様は、とても利口な方でした。愚かなあなたとは違って』
あらゆる嫌な想像を頭の中から追い出そうとした。しかし、無駄だった。沙夜は、沈痛な面持ちのまま、小さな声で言った。
「……亡くなった社長。あの方が、……私の“前のご主人様”なんです」
駐車場の景観が歪んで見えた。一瞬にして視界が霞んでいく。胸にずしりと重たい感覚が襲った。
「……そう、だったのか」
彼女が思いつめていたのは、そのことだったのだ。
「私は……、たくさんの企業から情報を盗んで、ご主人様の元に届けました。瞬く間のうちに企業が成長しました」
「ああ……」感嘆の声を漏らしていた。
「しかし、たくさんの人が路頭に迷って、たくさんの人が、死にました……」
――『私は、今までご主人様の命令で色々なことをしてきたんです。私が情報を盗んで、それを、ご主人様が使い、相手を貶めて、……時には、自殺する人まで――』
「でも……、そうする度にご主人様は、私のことを褒めてくれたんですよ。よくやった――と。私はそれが嬉しくて……」
沙夜はこちらに向けて、精一杯はにかんでいる。僕には、彼女が力ない笑顔を偽っているように見えた。本当は、もっとつらい思いをしているはずなのに、僕を心配させないために――。
「そ……」
……んな顔するなよ。頭で紡がれた言葉は、声にならずに、拡散した。
「ご主人様の命令に、応えることだけが……、私の、生きがいだったんです。ご主人様がしていることが、いけないことだとは、うすうす、勘付いていました……」
「沙夜……」
「……ですが、私は憑きものだから、ご主人様に尽くすのが、当たり前だ。今まで、そのように割り切って、生きてきました……」
言葉尻が掠れている。そんなにつらい思いをしていたのなら、どうして言ってくれなかったのだろう。暮らし始めは明るい顔をしていたのに、なぜ今になって、部屋を出ていったのだろう。色々と疑問は残る。だけど、一番に明らかにしたいことがあった。僕は尋ねる。
「その主人になにかされたのか? 暴力とかされなかったか?」
「いえ、ご主人様は私にとても優しかったです」
言葉を受けて、僕は一時の安心を得た。乱暴を受けていたとしたら、目も当てられない。
「私のために、部屋まで用意してくださって。指令から帰った私を微笑んで出迎えてくれて。たいへんよくしてくれていたんですよ」
「そっか……」
「高層ビル、最上階に位置する私の部屋から見た夜景は、とても幻想的でした、はい……」
沙夜がベッドでしか眠れないのも、一般家庭の日常を知らなかったのも、きっとそのせいなのだろう。明らかに裕福さと庶民の暮らしを比較するような、そんな発言だった。過去を切なく語る沙夜を見ていると、悪かったな、と毒づく気にもなれない。
「優しい方でした……」
僕は内心で、“違う”――と思った。彼女に優しくしたのは、全ては自分のためだったのではないだろうか。確信までには至らぬ想像をめぐらせる。
沙夜という憑きものを手放したくなかったから、だから優しい人間の皮を被っていたのだ。最上階の部屋”を用意したのも、沙夜を逃がさないためじゃないか、と。
もし、本当に若林に沙夜に向けての優しさがあったのならば、そんな環境で沙夜が育ってきたならば、僕と会話することで、彼女があれだけ嬉しそうな顔をするはずがない。些細なことであんなに喜んだり、僕が相づちを打っただけで、あそこまで浮かれたりしない。
始めは完全な邪推に過ぎなかったが、考えているうちに、そうとしか思えなくなった。
沙夜は、きっと――利用されていたんだ。道具のように扱われていた。
しかし、若林という人間が悪いわけではない。どこで、どうやって沙夜と出会ったのかは知らないが、彼らの間にどのような友情があったのかは知らないが、憑きものの常識とは元来、そういうものなのだ。主のために奉仕する、それが憑きものの使命であり、生きがいなのだ。
「……今から、二週間ほど前に、ご主人様が亡くなりました。私は不思議と悲しくありませんでした」
両親を早いうちから亡くしている僕には、しみ込むように沙夜の気持ちがよくわかった。母と父を亡くした時の僕の気持ちと、酷似したものなのだろう。
――両親が死んでも、涙は出なかった。
「正直、胸をなで下ろしていたんですよ……。ああ、やっと解放されたんだって。こんなことしなくてすむ、と思っていた時期もありました。……ですが、もう、手遅れだったんです」
息を吸って、泥を吐くように話し出す。
「それから先のことは想像がつきますよね。テレビで流れている通りです。また、たくさんの人の人生がめちゃくちゃになりました。今度は……、……今度は“ご主人様が亡くなったことによって”です」
泰誠が言っていたように、社長が死んだだけで潰れてしまう会社なんてありえない。会社として成り立っていない。まさにその通りだった。
大津製薬は、“若林という社長が死んだから倒産した”のではなかった。“憑きものである沙夜がいなくなったから倒産した”のだ。
たとえば、廃墟を魔法で一時的に豪勢なものに変えたとして、そこに何人もの人間が住むことになったとする。しばらくの間は、優雅そのものの暮らしが続く。しかし、それは一時的なものだ。魔法の効果が切れれば、再び廃墟と帰す。そうなれば、倒壊事故だ。結果として、何人もの人が死ぬことになる。
「どうして……でしょうか?」
正しいことだ、と思いながら、悪いことをした。悪いことだとは思わず、正しいことだと信じていた。憑きものらしく生きたことにより、たくさんの人が死に、自分が与えた影響で、更に人が死んだ。ならば、沙夜はどんな気分だった? そんなことは彼女自身が一番よくわかっているはずだ。
僕の方が動揺する。毎日のように、自殺者が増加している、という情報がニュースで流れていた。それを見て沙夜はなにを思ったんだ? あの時、僕はなんと言った?
――『酷い話だ……』
多分、僕が言ったさり気ない言葉が、彼女の疑念を決定つけてしまった。自分は間違っていたのだ、と――。
「わけが、わからなくなりました。始めはなにかの間違いだ、と思っていました……」
以前、僕は親がいない沙夜と同じだ、と思ったが、違う、あまりにも違う。沙夜は産まれた時から、天涯孤独の身だった。親はおろか兄妹すらいない、知人すらもいない。そしてきっと憑きもの同士でコンタクトを取り合うことすら、なかったのかもしれない。
信頼できるのは主だけだった。主だけの世界だった。それがどんなにつらいことか。主の言葉を信じることが、そのまま彼女の世界になる。ならば、“常識”は、“沙夜の常識”はどうなる?
「私は気付いたんです……。なにをしても、結局、私がすることは、人に不幸を与えるだけなんだって。でも、そんなこと、わかっていたはずなんです……。割り切っていたはずなんです。ですけど――」
沙夜は息を継いで、ゆっくりと息を吐く。
「――そのことに気が付いたのは、ごく最近になってからでした。私は、自分を失いました。なんで……、私は存在しているんだろう、って……。それでも、私は憑きものだから、って……」
余裕があった言動が、急に泣き声に変わった。彼女の頬に、一滴の涙が伝う。
「そして、あなたと生活を続けてきて、やっと気が付いたんです。私のことを、大切に思ってくださる、あなたと巡り合えて……。私は、間違っていたんだって……、私は、なにも知らなかったって……。これが……」
あ……。
「本当の優しさなんだって……」
沙夜がどんな思いで、僕の元で暮らしていたのか、それがようやくわかった気がした。
夜空から答えが降りおちてくるように、いとも容易く唐突に――。
――『あの日感じた“不安の正体”がわかりそうなんです』
不安の正体、それは“違和感”だったんだ。
沙夜は僕のことを“愚か”だと言った。何度も言った。それは罵倒を表した意味でないということは、うすうす勘付いていた。あの言葉は、多分、“常識の差異を示すもの”だったのだろう……。
沙夜は人を見下していたわけではない。彼女が時おり見せた、人を見下すような言葉は、自尊心が高いゆえに発された言葉ではなかった。自分のことを“金儲けのために使わない”僕に、憑きものという存在を“人間と対等に扱う”僕に向けて、
――『ご主人様は変わっています、“愚か”です』
“愚か”だと言っていたのだ。
彼女は、自分の感性が大きく違ったものだとは、きっと気が付かなかったのだろう。無理もない。前の主には、表向きは良くされていたのだから。若林は沙夜を利用するために、優しい人間を偽っていたのだから――。
なにより彼女は知らなすぎた。純粋過ぎるゆえに知らなかった。人間の裏に潜んだ感情を――。冷徹さ、残忍さ、弑逆さ、獰猛さ、強欲さ、卑劣さ、卑屈さ、冷酷さ、薄汚い感情。
それらを、人間の汚い感情を、僕と暮らす日々の中で知ったのではないだろうか?
それは、僕が特別な存在だから、人格のある人間だから、というわけでは決してない。本当の世界を初めて見たから知ったのだ。井戸の中で暮らしていた蛙が、大海を見た時になって、初めて井戸の小ささを知るように――。
自分が知っている常識と比べながら、一般の空気を吸ったのだ。そして知ってしまった。利用されていたことを。得てきた全てが紛い物だったことを。
そして、若林に対する“敬意”が、“罪の意識”へと突然変わった。逃れることのできぬ罪悪感に押しつぶされそうになった。僕だってそうだった。その気持ちはよくわかる。
前の主人を恨むでも呪うでもなく、自分が罰されるわけでもなく、ただ、ただ、不安だけが彼女の胸に押し寄せたのだ。転がり落ちるように敬愛が自虐の意識へと変化した。
――『ご主人様は変わっています』
この沙夜という憑きものは、“普通じゃない環境”で育ち、“普通じゃない常識”を学んだ。僕はうちの外国人教師の言葉を思い返していた。
――『常識のほとんどは、後天的に学ぶものなのですヨー。そして、それは文化の違いによって大きく変わったものになりまス』
――『やっぱり、ご主人様は変わっています』
やはり、僕は思う。“常識”という言葉は“幻想”だ、と。
誰しもが常識人でいることに憧れるが、常識のほどは人それぞれであり、杓子定規な考え方だけでは、理解できるものではない。だから常識がないからバカだとか、常識があるから偉いだとか、そういうものじゃないと思う。みんなが仲良くそろって識者であればいい、というものではないのだ。
沙夜は決して“常識”がないわけではなかった。彼女は彼女なりの――憑きものだとか、人間だとか、関係ない――彼女なりの常識を誇示していた、胸を張って生きてきた。だから自分の常識にあてはまらない僕のことを――“愚かだ”と呼んだのだ。
そして、気が付いた。自分が“一般のものとはかけ離れた常識”を持っていた、ということに――。彼女の小さな胸の中で、膨大な葛藤が生じた。だったら今まで自分がしてきたことはなんだったのだろう――と。
幻想に惑わされ、線引きすることのできぬ常識という言葉に、翻弄されたはずだ。そうだ。だから、あの日、僕に確認したのではないか。
――『それが“当然だと思っていました”が、私がしてきたこと、ひょっとして、間違っていたのでしょうか?』
全身の毛が逆立ったのを感じた。心臓が痛くなり、呼吸が荒くなる。それでも、息は白かった。
なんだ……、全ては、初めから、語られていたじゃないか。僕はどうして、こんなにも抜けているのだろう。最初から、最初から沙夜は、全てを語っていたじゃないか。沙夜の思いを、痛みを、汲み取ってやることすらできずに、なにが偉そうに主になってやる――だ。自分に嫌気がさした。
「……ようやく、……気が付きました。“愚か者は私だった”んです……」
沙夜の口から消え入りそうな声で、僕の仮説を裏づけするような言葉が放たれた。僕はなにか言おうと口を開いたが、雑然とした考えしか頭を廻らない。結局、言葉が見つからずに、そのまま噤んだ。真っ黒な夜道を吐息で白く彩りながら、沙夜が呟いた。
「私、どうやら狙われているみたいなんですよ……」
自嘲するように、自分に呆れるように、細かく笑った。彼女の両手は震えている。
「狙われている? もしかして、それで学校行くの、嫌だって……、外で姿を見せたくない理由って……」
沙夜は小さく首肯した。
「あの時、体育の授業中に一体なにがあったんだッ!」
僕は聞く。自然と声が荒げてしまう。
「ご主人様と別れてから、私は一匹の憑きものと遭遇しました」
「憑きもの?」
「その憑きものには、“憑きもの殺しの印”がしてありました。“憑きもの落とし”ではなく、“憑きもの殺し”。間違いありません。私の命を狙っているんです」
僕は“憑きもの落とし”も、“憑きもの殺し”も知らない。ただ、言葉から意味は読み取れる。きっと、憑きもの殺しとは、『雇われて憑きものを殺す職業』。それに狙われていることを知ったのだろう。
「私は、世間を混乱の渦に巻き込んだ憑きものですから、おそらく、憑きもの殺しの方は、私の存在を、この世から消そうとしているのです」
「消す、って、そんな……」
そして考えた結果、沙夜は家を出た。それは、僕を巻き込まないために――。僕は恐る恐る尋ねた。きっと、その憑きものを、僕は“目撃”している。
「その“憑きもの”の、特徴は……?」
これ以上、巻き込みたくないのかもしれない。しばらく沙夜は口を開かなかった。僕は、聞くのが怖かった。耳をふさぎたくなった。きっと――。僕は――。きっと――。
「黒色の……犬……。犬神憑き、と呼ばれる憑きものです」
すぅっと血の気が引いた。一度頭が真っ白になり、途端に明晰なものになった。さえ渡った僕の頭が沙夜の言葉を認識して、白色の脳裏を絶望の色に染め上げる。
「そっか……」
容易にわかりそうなことなのに、僕はなにも知らなかった。勝手に安堵していた。現実から目を背けていた。黒い犬も目撃していた、沙夜のようすが変だったことも知っていた。大津製薬の倒産は誰でも知っている話だ。それを僕は関係ないと言った。都合のいい理屈を並べて関係ないと言った。体育の授業中になにかがあったのではないか、と勘ぐっていた。……これだけの手がかりを持ちながら、
――『だったらもういい。勝手にしろよ』
僕は沙夜に怒りをぶつけた。まるで与えられた問題を解こうともせずに怒り散らかす子供みたいだ。
いや、わかった気分になっていた。沙夜は人間のことを甘く見ていたというが、僕の方が憑きもののことを甘く見ていた。沙夜のことを猥らで能天気な憑きものだと思っていた。彼女がごちゃごちゃとした渦の中に巻き込まれていることなんて、考えもしなかった。毎日が不安だったに違いない。
それくらい気付いてやれたはずだ。ちょっと考えれば、わかった話だ。もう少し、沙夜のことを思ってやれていれば――。
僕は――
――実に愚かだ。
「すみませんでした……。ご主人、さま……。私は、あなたに、嘘を、ついていました」
沙夜の口がこまごまと開かれた。
「……自分が狙われていることは、前のご主人様が亡くなった日に気が付きました。危険なんですよ……私と一緒にいると……。ご主人様と出会う前から、本当は、わかっていたんです……。自分が狙われているということ……。だから、私は、あなたに――。あなたの元に――」
沙夜の謝辞の言葉に、「もういい」と僕の口が言った。沙夜は、目を見開いて、僕の顔から地面へと眼をそらした。
「つまり、“取引き”っていうのは、そういうことだったのか。あの日、僕の前に現れた、その理由ってのは、本当は助けを求めていたのか。だけど、解答用紙を盗み出すのに失敗したから、言うに言えなくなったってのか?」
そういえば、初めからようすがおかしかった。出会った当初、僕のことをどのように利用しようと考えていたのかは知らないが、自分がミスをしたことに気が付いて、顔色を青白くさせ、「ただ主になってくれればいい」と取引き内容をすり替えたのだ。
沙夜は答えなかった。口を開くと同時に、涙が零れそうなほど、情けない顔をしている。
どんな思いで、沙夜はあの日、僕の前に現れたのだろう。僕はじっくりと考えた。
大津製薬が倒産したのは、一週間前の木曜日。沙夜と初めて出会ったのも、同日の木曜日。若林という人間が死んだのは、それより以前。二週間前――。
あの夜、沙夜と邂逅した夜に、味わった激痛は、今までの比じゃないほど強烈なものだった。相当、疲労困憊していたのだろう。――であるのにもかかわらず、沙夜はわざわざ数学教師、竹内の自宅まで行き、解答用紙を盗み出した。あの日の言動から考えるに、僕のことを調べたりもしたのだろう。
――『妖力を半日も摂取できないなんてつらすぎますっ!』
半日妖力を供給してもらえないだけで、風邪をひいてしまうほどの弱い憑きものは、ありったけの力を振りしぼって、僕の前に現れたのだ。頼る当てもなく、たったひとりで――。
――『正直あなたに会うまで飢え死に寸前でしたっ! どうか私を救ってくださいっ!』
きっと生半可な覚悟ではなかった。死の淵を彷徨うようにして、僕の元にようやくたどり着いた。間違った解答用紙を盗んできてしまったのは、疲れ切っていたからなのかもしれない。
――『私と取引きしませんか?』
大体、取引きをしようなど、命の危機が迫っているにしては、非常に回りくどい。
計算高く、生意気で、虚勢を張った、そんな愚かな行為だ。人間という生きものはモノで釣らなければ動かないものだと軽く見ている。そういったことが当たり前だという常識を持った、憑きもの。小娘憑き。沙夜。
人間を、見くびっている。甘く見ている。なめくさっている。
「もう、私のことは放っておいてください。えへへ、今まで……、ありがとうございました。自分がしてきた罪を認識できた今、私はもう、この世に未練はありません。大人しく憑きもの殺しに――」
沙夜は人間の裏に潜む、悪辣な感情を知らなかった。
それをわきまえた上で、
「うるさいッ!!」
僕は沙夜に対する怒りで、心が震えていた。
「ようするに、僕を利用しようとしたわけだな……。騙していたんだな……!」
ぴくりと沙夜の肩が大きく揺れる。構わない。
「ふざけんなよ……!」
沙夜の眸が大きく揺れた。構わない。
僕は湧きあがる感情をそのままに――怒鳴った。
「僕を見くびるなッ!!」
「え……」
沙夜が、虚を突かれたというような声を発したが、僕は彼女に目を向けなかった。
「そんなくだらないこと、初めから言えよッ!!」
高揚しきった今の頭では、沙夜を傷つけてしまいかねない。また、心を切り刻んでしまいかねない。
「なにがだよ、なにが愚か者は自分だっただよッ! そんな憑きものの常識、僕が知ったこっちゃない!」
僕は、本当は――。
「正直に、助けてくれって言えばよかったじゃないかッ! それだけ苦しい思いしていたなら、回りくどい方法なんてとらずに、僕を頼れよッ!! 大体、あの日だってそうだ! 学校を休んでくれって言ってくれればよかったじゃないかッ!」
そうだ。本当は言ってほしかったんだ。
「主の僕にごちゃごちゃと隠し立てするなッ! 見くびんなよ! 見くびんなよ、この痴女憑きめッ!」
「私と一緒にいたら、狙われてしまうんですよ……? 私は、あなたを騙していたんですよ……?」
か細く発された沙夜の言葉を僕は無視した。怒りはそんなところにない。こいつはなにもわかっていない。
『偽善者め』『らしくないぞ』などと内面の僕が必死に自己同一性を主張する。『見捨てろよ』『どうでもいいだろ、こんなやつ』『所詮、他人じゃないか』これらは全て僕の感情だ。今まで作り上げてきた自分自身だ。
『それでもいいと思うよ』頭の中で奈緒が言う。藤堂敦彦ひとりひとりに言い聞かせるように、僕は独言した。
「……違う、違う。振り回されながら、自分ってなんだろうとか、自分らしくないとか、色々と考えたんだ。世の中のことなんて全然知らないくせに背伸びして、自分の性格を決めつけていた。でも――」
食べ物を与えたのも、主になると決めたのも、ベッドを譲ったのも、学校を休んだのも、全て、僕の意思で選択したことだ。自問自答をしながら、胸の裏に潜む自分をひとり、ひとり消していく。
「沙夜に出会ってから、僕は変わったんだ。人に無頓着だった自分が、誰かのために行動を起こしたんだ。……それでもいいって思えたんだ……!」
頭の中がごちゃごちゃに掻き乱されているのがわかる。発した言葉が耳に届き、頭に流れて、ようやく認識に至る。なにを言っているのか、頭では考えていなかった。自分自身が自分を変えていく、まさにそんな気分だ。言葉が口を衝いて溢れる。こぼれ出す。
「……成り行きなんかじゃない。あの日、部屋で主になってくれと懇願された日、確かに、勢いに押されたってのが、正直な気持ちだったけど、それだけじゃない……。今はまだはっきりとしたことは言えないけど、それだけじゃないんだ……」
振り回されている。僕は憑きものに振り回されているのだ。沙夜に対しての怒りだってある。沙夜に対しての悲しみだってあった。それ以上に、強く激しい沙夜への思いが、零れてやまない。
頭をかきむしりながら、息を吐き出した。憑きものに心を乱されている。悔しい。憎たらしい。でも、それでも――。
「僕は普通の学生だ……。危険な目に遭うのなんてまっぴらごめんだ。あの日、助けてくれ、と面と向かって言われたところで、拒絶していたかもしれない。変なことに巻き込まれるのは、……嫌だ、嫌に決まっている」
僕は堪りかねた虚無感を吐き出すように、地面を蹴った。揺さぶられている。沙夜が今、どんな表情をしているのかわからない。
「……でもさ、沙夜。おかしいんだよ、聞いてくれよ……」
不思議な感覚だ。心が温かく、心が痛い。
「それでも……、それ以上に、僕は――」
他人を信用しない、そう決めていたのにな。
「――お前と一緒にいたいんだと思う」
これほどバカらしい話はない。僕は頭の中で自分自身に悪態をついた。高々、一週間一緒に暮らしただけなのに、小娘憑きなんて生き物のことをさっぱりわかっていないのに、それだけの関係なのに、僕の口はこんなにも偉そうなことを告げている。
こんな僕になにが言える。
素人の僕になにがわかる。
平凡な僕になにができる。
だけど、したいことはあった――。
“沙夜は僕が護る”
この日、そんなことを頭の中で強く誓った。
何度も――強く。何度も――激しく。
ひょっとすれば、“思い”を通じて、沙夜に聞こえてしまったのかもしれない。制御できない感情が僕の胸からあふれ出して、彼女に“思い”となって伝わってしまったのかもしれない。
半憑依状態の間は、色々な感情を沙夜に伝わらないようにと、一定量にセーブしなくてはならない。“思い”をセーブしなくては、相手に伝わってしまうのだ。あれだけ気を付けていたのにな……。
抑えきれない感情が、形となって、彼女に全て届く。
そのことを証明するように――。
面前にいる沙夜が、また涙目になった。
バイト前に投稿。
次回は未定です。




