#15 思い出の場所
意味がわからないっ! なんなんだよっ! 勝手すぎるだろっ!
徐々に込み上げる相手のいない怒りを伴って、街を駆ける僕は、よほど憎々しげな表情をしていたのか、すれ違う通行人に異形な目で見られた。
不規則に吐き出す息は真っ白で、あっという間に目の端へ流れていく。これだけ本気になって走るのは久しぶりだった。久々なせいか、足取りがおぼつかない。
数分走った後、足を止めて、少しだけ身体を休めることにした。視線を落として両足を見れば、怒りからか、疲れからか、焦りからか、膝ががくがくと震えていた。
視線を上げる。すると、コンビニの明かりが見えたので、そこで温かい飲み物でも買って落ち着こうか、と考えた。が、財布を持ってきていなかったことに気が付いて、入ろうとしたところで僕は踏みとどまった。そんな時、
「なんだ……?」
僕の視界に、突如として黒い影が横切った。素早いその動きは、猫やねずみなどの生き物を連想させる。影をすぐさま目で追った。暗い夜道の境界線をぼかすように、影はコンビニの脇の方へ駆けていく。僕は目を凝らして、その影が逃げ込んだであろう、路地裏の一点を注視した。
影の正体は狐だった。
僕を睨みつけるようにして、しゃがんでいる。よく日常生活で、揚げ物をきつね色と表現するが、まさしくきつね色そのもの、彼の小柄な体躯は、薄い茶褐色の体毛で覆われている。唯一普通の狐と違う点は、目が真っ赤だということだった。
赤い眼をした不気味な狐。
もちろん都会の街中にそんな生物が生息しているわけがなく、赤眼の狐なんて一般的な考えではありえない。不気味なものを見たというのに、僕は安心した。
僕が一歩詰め寄ったところで、不気味な狐はどこかへ向けて駆けていった。もしかしたら、主人のもとに帰ったのかもしれない。追う必要はないだろう。僕は振り返ってから足を再び動かした。
よし、内心で小さくガッツポーズをする。
“憑きもの”はいつも通りに見えた。
じゃあ、沙夜の姿も――。
考えているうちに、安心感と一緒に飛び跳ねたのは、疑問ばかりだった。
だったら、どうして、いなくなった。
どうして、出ていった。
どうして、どうして。
街中を走る。息が切れても走る。
白い。白い。息が白い。
嫌な緊張感と、謎めいた切迫感で、精神的な体力が尽きそうだ。視界がぐらぐらと揺れて、足場が浮いているような錯覚さえ生じる。それと同時に、常に身体を動かしているからか、気休め程度に、身体が温まっていくのを感じた。
捜索相手が憑きものであるだけに、どこを探せばいいのかが、まるでわからない。それが僕の精神が削ぎ減っていく要因であるといえる。
憑きものは電車に乗るのか、どれだけ歩けるのか、走ったらどれほどのスピードが出せるのか――。次々にわいてくる疑問が行き先を定めようとする僕を邪魔した。大体、憑きものはこういう時にどこに行くのだろうか。
ひょっとすれば、こども110番の家みたいな、憑きものがいざとなった時に駆け込める集落があるのかもしれない。色々な可能性を提示するが、やはり考えるより先に身体が動かされるので、明瞭とした目的地を定められぬまま、走るはめになる。
僕には、憑きものの気持ちも、女の子の気持ちもわからない。沙夜の身になにがあって、彼女がなにを感じて、なにを思って、家を出ていったのかわからない。憑きものの常識なんて知らない。だって、
教えてくれなかったじゃないかッ!
しかし、今更そんなことで癇癪を起こしたってどうにもならない。周りの人には沙夜が見えないのだから、僕が見つけなくてはいけないのだ。憑きもの筋だからという理由だけではなく、僕は沙夜の主だから、と謎めいた使命感に駆られた。
何分走ったかは覚えていないが、息が完全にあがっていた。心臓が何度も小さく爆発して、体中に血液を送り込む。僕は道路のわきに設置された電灯の隅にしゃがみ込んでいた。ガードレールを背に置いて膝を立てた途端に、猛烈な寒気に襲われたので、慌ててかじかんだ手をズボンのポケットに入れた。そこで、右ポケットに携帯電話が入っていることに気が付く。
僕は無意識的に、電話をかけていた。闇雲に探すのに疲れて、誰かに意見を求めたくなったのだ。二度ほどコールを鳴らしたところで、彼は電話に出た。
『お、あっちゃん』
坂土泰誠の陽気な声が電話越しから聞こえる。気が気でない僕とは対照的な、のんき全開の声に、僕はお門違いな苛立ちを覚えた。
『どうした? つーか、お前が学校休むなんて珍しいな。中学ん時も休んだことないとか言ってなかったか?』
「ああ、悪い、仮病だ」
面倒だったので、抑揚を付けずにあっさりと言った。
『けびょ、っておいっ! どういうことだ?』
電話越しから発される様々な質問を突っぱねるように、僕は、「それよりも――」と切り出した。
「お前に聞きたいことがある。もし、家出するとしたらどこへ行く?」
『家出、って想像もつかねぇよ』
「だったら、……そうだな。じゃあ、なにか嫌なことがあった時とか、心が傷ついた時はどこへ足を運ぶ?」
その後すぐ、「もしもお前だったらって話だ」――と付け足しておいた。
なんでもいいから参考までに聞いておきたかった。あてもなく探すよりも効率がいい。不安に駆られながら街中を駆け巡るよりもずっといい。泰誠は少し間を空けてから、決然たる口調で返答した。
『学校近くの駅前にある駐輪場かな』
駐輪場。確かに、最寄りの駅には駐輪場が設置されている。うちの学校の生徒は、駅で降り、その駐輪場にて自転車に乗り替え、学校へと向かう者がほとんどだ。そしてなにより、まだ探していない場所だった。
「どうして?」
僕が端的に聞くと、
「ほら、うちの生徒ってあそこで自転車を乗り降りするだろ? そうすっとな、自転車をまたぐ時に、女子高生のおパンツが――」
「お前に相談した僕がバカだったッ!!」
「はぁ? なに言ってんだ? 清純な男子高生が元気を取り戻すためには、愛の神エロスの力を借りるほかねぇだろ?」
どうやら、泰誠は泰誠なりに真面目に言っているらしかった。清純の意味を辞書で引いてこい、このバカ。
駄目だ。やはり当てにならない。女心を泰誠に尋ねた僕がバカだった。というよりも、こいつがへこんでいる姿を僕は想像できない。資産家に向けて、お金に困った時どうしていますか? と尋ねるぐらいに、質問自体が不毛だったのだ。
泰誠は勝手に盛り上がっているようで、円滑に言葉を吐き出し続ける。彼の得意げな顔が脳裏に浮かんだ。
「駅の構内も絶景ポイントだぜ? あとは、学校の階段だろー、本屋とかビデオ屋とかー、ん、色々あるな。季節外れだがプールなんていいぞ。――――――それか妹の部屋」
「……はぁ」
『おい、そりゃなんの溜め息だ?』
最後に付け足したさり気ない一言が、僕をひどく心配させた。
「頼むから僕の目が黒いうちは罪を犯してくれるなよ!! ありがとう! じゃ!」
『お、おい――』
尻切れトンボになった泰誠の発言をかき消すように通話を切断し、駅前まで走った。ロータリーを過ぎて、駐輪場まで来た。
そこには小さな雑踏が生まれていた。現在の時間的に考えて、帰宅ラッシュ時なのだろう。サラリーマンから学生の姿まで存在している。しかし、どれだけ雑踏の中を見渡しても、沙夜の姿はない。人ごみに溶け込むことのない彼女の服装だ。見間違えるはずがなかった。
溜め息をつく間も取らず、僕は次に、奈緒に電話をかけることにした。いざという時になって、信頼できる友人がこんなにも少ないのか、と少々驚かされながら、僕はコールする。
『もしもし?』
奈緒の声が聞こえてくる。疑問文になっているらしく、言葉尻が上がっていた。どこか警戒するような、そんな声だった。こんな時間に僕が電話をかけることなんてまずないので、意外だと思っているのかもしれない。時刻は九時三十八分。寝る前だったというのならば本当に申し訳ない。
「も、もしもし!」
声が掠れてしまった。
『あーちゃん? どうしたのこんな時間に。なんか息荒げてない? 大丈夫?』
心配してくれているような声だ。
「あ、いや、平気だ。それよりも奈緒に聞きたいことがある。少し、時間大丈夫か?」
『うん、大丈夫だけど、……なに? 相談ごと?』
電話の要件を気にしているようすだった。だけど、憑きものの行き先に心当たりがないか、などと単刀直入に尋ねてしまえば、一年前の二の舞を演じることになるだろう。泰誠の時同様、あくまでも婉曲的に尋ねる。
「もしなにかに悩んだ時、お前だったらどこに行く?」
奈緒は、え? と小さく発音した。もっと切実な悩みを打ち明けられるのかと思って身構えていたのかもしれない。どこか拍子抜けしたような声色だった。
『なに、いきなりどうしたの?』
「ちょっと色々とあってな。奈緒の意見を聞いておこうと思ってさ」
『そうだね、私だったら。うーん……。やっぱり駅前にある駐輪場かな』
……。
『ちょっと、あーちゃん、聞いてんの!』
――絶句していた。
携帯を握る手がぷるぷると震えているのが自分でもわかった。よりにもよって泰誠と同じ意見、同じ言葉、同じ考え――なことがショック過ぎた。
いや――。
僕は顔を上げ、思い直した。
そうか、あそこは昔、僕らがよく遊んでいた場所だ。都心部に位置する僕らの家の近くには、公園などの遊び場が少ない。隣町まで行けば、申し訳程度の公園があったけれど、子供だった僕らが、気軽に足を運べる距離ではなかった。
だから、僕たちは毎日のように駐輪場の空いたスペースで遊んでいたのだ。その度に、危ないと大人に怒られたけれど、僕らはこりずに遊んでいた。子供の頃の記憶だから美化されているかもしれないが、西の空に沈みゆく夕日がきれいだったのが印象的だった。つまりは、あそこは奈緒にとって――。
「――それは、思い出の場所……ってことか?」
僕が尋ねると、「ひゃ」と小さく跳ね上がった声が受話器越しから聞こえてきた。ノイズ混じったがたんという物音が聞こえたことから、携帯を床に落としたのだろうな、とよく知る幼馴染みの滑稽な姿が、ありありと僕の頭に浮かんだ。
奈緒は無言のままだった。携帯を拾ったのかどうかすらわからない。
「いや、ありがとう。それじゃまた明日」
不意に生じた沈黙を不思議に思いながらも、僕はお礼だけ述べて、通話を切断することにした。その直前になって奈緒の声が耳に届く。
『あ、待って』
「なんだよ?」
『なにがあったのか、知らないけどさ。……頑張ってね』
彼女のエールを受けた僕は、電話では伝わらないことを承知で強く頷いていた。この間の想像を思い出す。
「奈緒……、前にお前が僕に変わらなくていいって言われたけど、僕は、ひょっとすれば変わっているのかもしれない」
どうして、こんなことを発言したのか自分でもわからなかった。
『え? どうしたの急に――』
奈緒の声は笑っている。
「おかしいか?」
僕がそのように問うと、奈緒は引き締まった声で、
『ううん。それでもいいと思うよ』
と言った。
『じゃ、また明日』
「うん。じゃあな」
電話を切った瞬間、乱れていた呼吸が著しく整った。冷え切った身体が温風にさらされたように、身体中から温もりがあふれる、そんな気がした。携帯をポケットにしまい、背中を押す追い風をまといながら、僕は駆けだしていた。思考が太陽に照らされたようにさえ渡った気がする。一度、冷静になって考えた。
思い出の場所――か。それは、あるかもしれない。
――だとすれば、沙夜にとって思い出の場所ってどこだ? 昔の沙夜のことをまるで知らないので想像はしにくかった。前のご主人様の家。――とか、だったら少しへこむかもしれない。
僕は首を二度横に振った。多分、違うはずだ。よく考えろ、と自分自身を奮起させる。
ならば学校か。いや、学校は彼女が一番立ち寄るのを恐れていた場所のはずだ。ひょっとすれば、僕の部屋に戻ってきているかもしれない。それがベストだ。しかし、そうとは思えなかった。僕の部屋ではないとしたら、おそらく沙夜はあそこにいるはず――。
目的地を断定して、僕は走る速度を上げた。時刻はすでに十時を回っている。
「沙夜……!」
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