#14 突然のさよなら
どうして、学校を休んだ後に来る休日というのは、こんなにも憂鬱な気持ちにさせられるんだろう?
そんな疑問をたずさえながら、僕は天井を見つめていた。それからすぐ、肌寒い室内の気温から身を護るように毛布を深くかぶった。頭が冴え冴えとするまでにはまだ時間が掛かりそうだ。
日曜日の朝六時半。登校拒否宣言をおこなってから、四日と経った。
これまで学校を休んだことがなかった僕の元に押し寄せてきたのは、多大なる緊張感ばかりだった。そして、初めて味わうこの気持ちの正体を掴めずにいた。そうだ、この感情は、夏休み最終日に湧きあがる焦燥感に似ているな、と想像を膨らませる。
焦燥感。昨日の土曜日だってそうだった。他人と違ったことをしたことで、形容しがたい焦燥感に駆られ続けた。これでいいのか、このままでいいのだろうか、やりどころのない後ろめたさが背中に張り付いているかのようだった。
ちなみに、最近の沙夜はといえば、顔色と体調は目覚ましいほどによくなったが、やはりどこか元気がなかった。話す言葉がつまるようにとまり、はっきりとした物言いをしない。きっと、僕に隠していることがまだあるに違いない、そのように勘ぐっている。
けれども、詮索するのはよしておいた。僕が糾弾するよりも、沙夜の口から言ってもらいたかった、というのが正直な気持ちである。きっと、いずれは――。
沙夜が風邪を引いてから、僕はずっとカーペットの上で睡眠をとっている。固いカーペットの上で寝るのにはどうしても慣れない。神経質ではないのだが、掃除機をかけたはずなのに、ざらついているような気がしてならなかった。かといって薄い毛布を下に敷いてしまえば、夜間の冷気で凍え死ぬ。あちらを立てればこちらが立たずとはこのことか。春になれば、少しはこの苦痛も減少するのだろうが、温かくなるのは、まだまだ先の話である。
半開きの眼で、なんとなく点けたテレビ画面を見た。朝のニュースで特集が組まれていた。画面の右上に、『失業者を脅かす、失意の念!』と大々的に表記されている。
『大津製薬株式会社の倒産を伴い、ここ最近、自殺者が相次いでいる傾向にあります。なお、失業者を……』
高くそびえたビルの前で、深刻な社会問題をレポーターが騒がしく叫んでいた。その割に、バックグラウンドミュージックには、ポップな音楽が流れている。
『今のご時世ですからね。就職先が見つからないのも無理はないと思います。ですが、この冬にも春が訪れるように、乗り越えるチャンスはいずれ巡ってくるはずです。断念してしまった新薬の開発技術も受け継いでいければ、と願っております』
映像がスタジオに切り替わり、男のコメンテーターが饒舌にまくし立てている。僕の頭に高見の見物という言葉がよぎった。
また、キャスター背後には電車の写真がスライドショーのように流れていて、それが何を暗喩しているのかは、簡単にわかった。
「……ひどい話だ」
なにに対して嫌悪感を抱いているのかはわからなかったが、少なくとも、起きて始めに耳に入ったものが、自殺の話だったことに対して生まれた感情があった。陰鬱とした気持ちになり、知らず知らずにひとりごとをこぼしていた。
世界も暗ければ、沙夜も暗い、か。なんか僕だけ取り残されている気分だな。
それにしても、大津製薬倒産の話がここまで大きな社会問題になっているとは思ってもみなかった。やたらめったら取り上げられているのには気づいていたが、沙夜のことで手いっぱいだった僕は、まるで意識していなかった。
そういえば……。“自殺”と聞いて、沙夜の言葉が蘇る。
――『私は、今までご主人様の命令で色々なことをしてきたんです。私が情報を盗んで、それを、ご主人様が活用し、相手を貶めて、……時には、自殺する人まで――』
今しばらくは、現代社会の話よりも、目先の問題である沙夜の配慮をするべきだ。そのように頭を切り替える。なんとかして問題を解決しなくてはならない。問題とは、言わずもがな、沙夜が学校を行きたがらないことだ。
僕だっていつまでも登校拒否しているわけにはいかない。この問題が、慢性的なものだったら、僕は永続的に登校拒否をせざるを得ない状況に迫られる。そうなると、奈緒が言ったように、いよいよ進級が危うくなってしまうことだろう。今後のことを想定して、鳥肌が立つほどに怖くなり、溜息をつきそうになった。
『おはようございます』
しかし、沙夜の“思い”が頭に響いたので、腹筋に力を入れて、息を吐き出すのをこらえた。溜息はすんなりと胸に収まった。
「おはよ」
沙夜はやはり元気がなかった。もはや、探りを入れるつもりはないけれど、心配になる。どうにか、元の鞘に収まることはできたが、学校へ行きたくないという問題はいまだ解決していないのだ。
「よく眠れたか?」
『ええ、ご主人様がベッドを譲ってくださったので、ぐっすり寝付けました、はい』
ぐっすり寝付けました、などと言いつつも、ベッド上で眠たそうにしている。そんな憑きものを改めて見ると、なんだかおかしかった。あくびをしたかと思えば、眠たそうに目を瞑る、ふわふわとした目を天井に向けてから、眠気を追っ払うように目をこすりだした。そのたびにツインテールが揺れて、沙夜の甘い香りが室内に広がった。
「それにしては眠そうだな」
『あ、はい。実をいいますと、昨夜、気味の悪い夢にうなされてなかなか眠れなかったんです』
「夢? なんだそれ?」
『朝起きると、私が犬になっている夢です』
「僕の願いが通じて、か?」
『はい、ご主人様の願いが通じて、です』
「はは、そりゃ深刻だ、悪夢だ」
沙夜と会話をしながら、僕はしみじみと思い至らされていた。他人を信じることをしない僕が、少しずつ彼女に心を許していることを――。
しかし、どうしてだか、それでもいいと思った。別に意固地になって自分の性格を主張する必要はないし、この年齢で、性格を決めつけて生きるつもりもない。
「そうだ、鍋焼きうどんでも作ってやろうか?」
僕が気さくに話しかけたが、沙夜は小さく微笑んで、遠慮した。
『あ、いえ、お気持ちだけで結構です』
「そ」
微笑んでいるだけ、まだマシ、か。
開き直るように気持ちを転換させて、僕は階段を下り、リビングまで足を運んだ。風通りのいい八畳半のリビングの隅に置かれた冷蔵庫を開けて、お茶を取り出し、コップに注いでから喉に通す。冬場に冷たい麦茶はミスマッチだ、と思いつつも一口で仰いだ。案の定、冷たい飲み物が身体の芯を凍えさせた。
最近になって、沙夜は不貞な発言をしなくなった。口付けを迫ってくることもなくなったし、発言にもうやうやしさがある。それはそれでいいことに違いないのだけれど、ある種、不安でもある。みだりな発言をしない沙夜は大人しくて、健気で、従順で、そして、元気がない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日曜といっても、特別することはなく、沙夜を置いて、外出する気分にもなれなかった。よって、昼間はテレビゲームをして過ごすことにした。
やはり沙夜は頑なに家を出ようとしない。その拒絶は前よりも強くなったように感じた。なので、僕だけ家を出るわけにもいかず、ただ黙々とゲームをする。
「……あ」
油断していた隙に、ぼうっとテレビの画面が紅蓮の炎に包まれた。街に突然現れたドラゴンの、幾度とないブレスに見舞われ、主人公は黒こげになって、死んだ。ここから先のダンジョンには、どうやったって、進めない。レベルが足りていないのか、それとも、キスが足りていないのか、原因は不明だった。毎度この主人公には不遇な思いばかりをさせてしまっている。南無南無。
――ゲームオーバー。
モニタにはそう映った。黒を背景に赤色の文字が毒々しく浮かんでいる。リトライを選択してセーブした場所からやり直す。こんなにも簡単にコンティニューできる。やり直しがきく人生が羨ましくもあった。
人の死に立ち会った経験がある僕は、ゲームオーバーからのリトライという、この仕組みが、どうにも釈然としない。人の命を軽く見ている、もっと命は重くて尊いものだ、などと月並みなことを言うつもりはない。
物語のその後が描かれていないことが、不気味に感じるのだ。主人公の死後、どのように、世界が回っていくのか、それが気になった。映し出されるメッセージは、『そして世界は闇に包まれた』と三行しかない。終焉を迎えるその時までの過程があまりにもあっけなさすぎる。実際のゲームオーバーとは、そういうものではない。
僕はぎゅっと目を瞑って、過去の回想をした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
十年ほど前、母と父が死んだ時、どうしてだか、涙が出なかった。あのころの僕はまだ、幼稚園の年長組で、来年から小学校という年齢だった。新春に備えて父母が買ってくれた黒いランドセルが、最新の形見の品となった。今も、この家の押し入れに大事にしまってある。心の整理ができないまま、一度も使われることはなかった。
ふたりは交通事故でこの世を去った。
僕が右足を骨折して入院している時――ふたりとも死んだ。
聞いた話では、僕の見舞いに来る途中だったらしい。どちら側の不注意だったかは、わからずじまいであったが、高速道路を走っている時、トラックと衝突したのだと聞いている。
通夜の際。遠い親戚の人が僕の身体を抱きしめてくれた。『大丈夫よ』と何度も声をかけてきてくれたけれど、なにが『大丈夫』なのか、あのころの僕には意味がわからなかった。いや、今でも意味は計り違えているのかもしれない。その人の身体は温かかったけれど、外から吹き込む北風はとても冷たかったことを鮮明に覚えている。寒風にさらされるとあの日のことを思いだす。だから、僕は、冬が嫌いだ。
両親の身体が焼かれる時、間宵は泣いていた。泣きじゃくった妹が僕の袖を引っ張りつつも、現実を受け止めるように両親の遺骨を拾う。その時、僕は泣いていなかった。
妹の心を支えるために強がっていたのではない、人前で涙を流すのが恥ずかしかったのではない、もちろん、昔はそんな難しい言葉など知らなかったが、きっと、人の死よりも我が身を内側から苛みつづける罪悪感の方が怖かったのだ、と思う。お前のせいで死んだんだ、と。
ああいった不安が、なによりも怖い。二点の間に因果関係を結ぶとしたら、両親の死のきっかけは僕にある。それなのに、誰ひとりとして僕を叱責しようとしないのだ。
どう考えたって、ゲームオーバーじゃないか、とさえ思った。
これは――。僕の人生は、ゲームオーバーの続きなのだ。そんな思いに駆られた。
今でこそ割り切ることができたが、当時は本当に不安で胸が潰れそうだった。妹は僕のことを恨んでいるんじゃないだろうか、斉藤家に迷惑をかけているんじゃないだろうか、さまざまな不安が胸に押し寄せ、僕を苦しめた。
僕は、ゲームオーバーも、コンティニューも、リトライも、人を殺すドラゴンも、ドラゴンを殺す人間も、好きになれない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
赤暗く点滅するケーブルレス式コントローラーを床に置き、気晴らしに漫画を読んだ。主人公が悪い敵兵を小気味よく倒していく爽快アクション漫画が、惨殺漫画のようだとぼんやり思った。
いや、どうかしているな。
ゲームや漫画を現実と混同するなんてバカげている。最近の大人たちだって、ゲームや漫画の非現実的な殺人を非難したりしない。下手に意識するから、駄目なんだ。
沙夜があんな調子だと、なにをするのにも憂鬱な気分になった。そのため、気分転換に勉強をすることにした。気分転換に勉強ができるなんて、それこそ気が病んでいる。テスト前にこんな心境が訪れてくれればよかったのに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
気が付けば、夕日が僕の部屋を茜色に染め上げていた。特になにもせずに、ぼうっとしていたら、夕方になっていたのだ。沙夜は華奢な身体を伸ばして、ベッド上で大人しく小説を読んでいる。分厚い書籍だな、とよく見れば、広辞苑だった。その脇には、もっと分厚い本が置いてある。広辞苑よりも厚い本を僕は初めて目撃した。僕のものではないことから考えて、沙夜が持ってきたものなのだろう。この憑きものは文字が読めるらしい。
きっと彼女は僕の視線に気が付いている。気が付いていて、気付かないフリをしているのだ。
――『あの日感じた不安の正体がわかりそうなんです』
彼女の生き方になにか後ろめたいことがあるという事実は否定できない。横顔がどこかはかなげに見えてしまい、話しかけづらかった。それと金曜日の沙夜の発言を未だ引きずってもいた。
――『もしかして、恋というのは、こういうことを言うのでしょうか?』
二三、頭をかく。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
夜、時間でいうと、七時五十分になった。夕食を済ませ、部屋に戻ると、沙夜がベッド上で横になっていた。朝から夜まで、ずっとこんな調子だ。ベッドを独占されていることに不満はない。というよりそもそも、僕が養生しているように、と言いつけたのだった。
僕が部屋に入ってきたのを確認すると、沙夜はのっそりと起きあがり、僕の隣に腰を下ろした。次はご主人様がベッドを使ってくださいよ、と促されているような気分になったので、暗黙の指示に従って、入れ替わるように僕が一時的にベッドに入った。そういえば最近は薄い毛布一枚で眠っていたためか、頭に気だるさを感じる。それは風邪を引いた時のだるさとは別の、眠気から来るだるさであり、寝れば治るようなものだった。僕はわりと丈夫なのだ。だてに皆勤賞を取り続けてきたわけではない。
久々のベッドからは、沙夜の匂いがした。どうやら、すっかりマーキングされているようだ。残った彼女の体温を感じながら、懐かしい気持ちにさせられた。皮肉なことではあるが、母の温もりに似たものを感じる。
ああ、ルクリアの花の香りだ。
昔住んでいた部屋のリビングに置かれていた、あの花。これは、母の香りだ。
いつもの固いカーペットとは違って、反発しないベッドに身を委ねていると、段々眠くなってきた。まだ時間は八時半を回ったばかりである。夜になったら、沙夜にベッドを譲るつもりだったけれど、悪いな、そういうわけにはいかないらしい。
この時間帯に眠ることには抵抗を覚えたが、絶えず襲ってくる睡魔には勝てそうになかった。どうせ、明日も学校へ行かないのだから、いつ眠ったって同じ話だ。
テレビではレポーターがなにかを告げている。
『大津製薬……さらには…………警戒……』
倒産したことを告げる報道が、まだ繰り返し流れているのだ。僕が思っている以上に世の中は大混乱に見舞われているらしいが、耳障りだ、やかましい、僕には関係のない話だとしか思えない。世の中がどうなっていようが、学生である僕にとって、どうでもよかった。
『……ご主人様』
船を漕ぎだす寸前のところで、沙夜の“思い”が頭に響いた。いつもの僕だったらば、叫び声の一つでもあげていたかもしれない。だけど眠さで意識が朦朧としている今は、なんの感想も抱かなかった。ただ、嗅覚だけはしっかりと働いているようで、沙夜の甘い香りがしたことは、はっきりと感じ取れた。
半分だけまぶたを開けると、僕の眸には、枕のそば、ベッドに頭を乗せている沙夜の姿が映った。沙夜の頭についた王冠に、電灯の光が反射して、僕の網膜にこびり付く。沙夜は円らな眸で僕を見つめている。優しい、可愛らしい笑顔だった。
「……なんだ?」
とても小さく、暗い声であったことは自分のことながらによくわかった。けれど、これ以上の声を出せそうにない。
『あの日、ご主人様が言ってくださったことって、正直な気持ちですか?』
あの日とは、一昨日のことだろう。僕が主になると言ったことに関して、疑念に思うことがあったらしい。僕は頭だけ動かし、小さくうなずいた。
「……ああ」
布団から顔を出しただけで、寒かった。更に身体を布団にうずめて、身体を温める。布団にうずめたところで影がつながっている限り、やはり沙夜の“思い”は僕の頭に響いた。
『私のこと、大切ですか?』
平然とした顔で気恥ずかしいことを言うなよ。ここで大切だと肯定するのは、僕らしくない。否定したい思いに駆られたが、多分、きっと、大切だと思っているから、人に無頓着な僕が、ここまで世話を焼くのだろう。考えた末、僕は細々と返答する。
「かもな……」
言葉に出すだけ、恥ずかしくなった。ぼうっと頭が揺れている。まるで、別の人格をした誰かに身体を乗っ取られているような気持ちだ。彼女と話している僕は、緊張しているのかもしれない。
『とても、嬉しいです』
「ん」
小さく返答すると、沙夜は顔をほころばせた。首を傾げて微笑んで、髪を揺らす。僕は沙夜の顔を脳裏に焼き付けたまま、目を閉じる、今日は心地よく眠れそうな気がした。
少なくとも、続きの言葉を聞くまでは――。
『今まで、ありがとうございました――そして、さよなら』
突然すぎる沙夜の発言で、僕の意識は覚醒した。
「え?」
起きあがって見てみると、先ほどまでいた少女の姿がそこにはなかった。影が僕の影へと変容していたことに気付いたのは、それから間もなくしてだ。電灯の光でベッド上に浮かび上がる自分の影法師を久し振りに見つめると、なんだかいびつな形に見えて、僕は窓に映る自分の姿を確認した。
部屋の窓は、開けっぱなしになっていた。そうだ、喚起のために窓を開けていたのだった。これでは室内に冷気が立ち込めるのも無理はない。
『沙夜? どうした?』
沙夜の姿を呈さなくなった影、僕は自分の影に手を添えて全体重を押し付けてみたが、あの時のように腕が影の中に沈むことはなかった。間抜けな僕は、部屋のドアが開いていることにようやく気が付く。部屋に沙夜の姿が見つからない。
後々で沙夜の言葉が再生された。
さよなら――。
「おい、沙夜! おいって!」
目いっぱいの力で声を飛ばしてみる。しかし、それは部屋中を反響して僕の耳に戻ってきた。そこで、嫌な予感が僕の脳裏をかきたてた。まさか――。
不安の種は、“沙夜がどこかに行ってしまったんじゃないか”、というものではない。確かに、いつまで経っても戻ってこなかったらどうするか、とも思考が巡ったが、今、それ以上に切実な問題があった。僕の抱いた恐れはもっと別の物だ。
もしかすれば、“僕の妖力がなくなってしまった”のかもしれない、そんな発想をしてしまう。そもそも、僕が莫大な妖力を持つ“憑きもの筋”だったから、沙夜とコミュニケーションが取れていたのだ。
仮に、妖力がなくなったとしたら、憑きものの姿を視覚で認知することができなくなってしまう。沙夜は今もこの部屋にいて、僕の名前を呼んでいることになる。想像するのも、不気味すぎて怖かった。
そんな、悲しいことがあってたまるか!
得体の知れぬ漠然とした不安が頭に広がり、視界を揺らす。
妖力は人間の根底に眠る力の源のようなものであって、急に底をつくことなんてないはずだ。沙夜の説明を受けて、そんなことがあるわけがない、とは思いつつも、完全に否定することもできない。頭の片隅で膨れ上がる懸念が僕の頭を支配していた。
もし、妖力がなくなってしまったというのなら……。
怯えながら外出する必要がなくなるし、部活動も深夜徘徊もできる。
ベッドだって毎日使えるし、登校拒否なんてバカげたことしなくていい。
数学の試験があれほどまでに惨敗することだってない。
なによりも、幼馴染みに、京子さんに、武史さんに、クラスメイトに、嘘をつかなくてもすむ。幼い時から、ずっと願っていたこと、夢にまで見たことだ。
一ヶ月の前の僕だったら、泣いて喜んだことだろう。だけど――。
――沙夜と二度と顔を合わすことができなくなる。
判断するよりも先に、身体が動いていた。半開きになったドアを乱暴に開け、落ちるように階段を駆け下りる。勢い余って、足がもつれたが、身体を立て直して、慌てて玄関へ向かった。下駄箱から底がゴムでできた、走りやすい運動靴を取り出し、靴下の上にかぶせた。
キッチンで夕食の後片付けをしていた京子さんに、「どこにいくの?」と聞かれたので、「ちょっとコンビニに」と適当なことをうそぶくことにした。後ろ暗いがしかたない。すると、「気を付けてね」と返答が届いた。
家に出る寸前のところで、玄関に置かれた全身鏡に映る、自分の服装を認識した。薄手のトレーナーにジャージといった、見ているだけでも寒気がするような簡易な部屋着。
実際、やはり寒い。外に出れば、もっと寒いことだろう。決して想像力が乏しいわけではない。しかし、部屋に戻る時間すらも惜しく感じていた僕は、その格好のまま表に出た。なにかあってからでは遅いのだ。とにかく、確認したかった。動悸が激しくなる。
確認したいこと。僕の不思議な力がなくなったのか、それとも単に沙夜が愛想を尽かしてしまっただけか。後者であることを切に願った。姿が見えるのならばなんとでもなる。元の関係に戻ることだってできる。話ができる。沙夜の姿が、表情が、見える。
僕は部屋のドアを蹴り付けるように開けて、夜の街へとくり出した。
今日も仕事に出かける前に投稿します。
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