#12 春風少女
春風は穏やかな気候と共にやってくる、と世の中の人は口をそろえて言うが、多分違う、と僕は思った。春風は穏やかな気候を乗せて、寒さにふるえた我々人類を救いにやってくるのだ。冬という季節が嫌いな僕は、毎年そのように想像を巡らせる。
小早川奈緒は、まさしく春風のような少女だった。僕の心が冷え切った時、タイミングよく彼女は現れる。どこかで見ていたのではないかと疑いたくなるほど素早く、僕の元にやすらぎを届けにくるのだ。
そういうわけで、小早川奈緒が見舞いにきたのは、翌日のことだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
本日は金曜日、週末を迎える直前ということで、ご苦労なことに学生諸君は、最後の底力を振りしぼって、学校に向かう。そんな登校風景を窓際に立って見下ろしながら、僕は焦りを感じていた。
しばらく学校を休むことを決意したのはいいが、これから先の目処がまるっきり立っていない。むしろ状況が悪化したといっても過言ではない。
――『僕じゃ、お前の主は、不適応なのかもな……』
あれからというもの、僕は沙夜と、ほとんど口を利いていなかった。沙夜が僕にしゃべりかけてくることはないし、僕から沙夜にコンタクトを取ることもしない。ぎくしゃくとした距離感でお互いの位置を探り合って、妖力を供給してやる。
最後に沙夜の声を聞いたのは、昨夜だった。沙夜はベッドを自分ひとりで使っていることにバツが悪くなったのか、シーツをくるまっている僕の影へ入ろうとした。そのようすを薄目で見ていた僕は、そんな沙夜に向けて、「いいから、寝てろよ」と棘のある口調で言ってしまった。
昨夜の言動に後悔を抱いたりしたわけではないが、胸元近くで騒ぎ立ててきた感情を否定することはできない。この感情は、怒りと罪悪感が混ざり合って生まれたものだ。沙夜の表情を思い出すたびに、罪悪感がにょきにょきと芽生えて、もやもやとした憤りが募るのだった。
あの時、沙夜は怯えた目を向けていた。「はい……」と小さく漏れた声が涙声であったことも、よく覚えている。それ以来、彼女の声を聞いていなかった。
――『わぁ! これが学校ですか~! 私、学校始めてです! なんだか胸が弾みます、はい!』
もう、あの日のような笑顔を向けることはない。
きっと、これから先も――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そんな生活を、「ちょっと待った!」と差し止めたのが、春風のような幼馴染み、小早川奈緒だったわけだ。今朝、七時半ごろ、にぶい頭を起こして携帯に目をやると、こんなメールが届いていた。
『わたし、学校、午前中で終わるから、お見舞い行ってやんよ(指を開いた絵文字)』
メールの差出人は言わずもがな、小早川奈緒である。学校を休むことは、先日メールで告げてあった。その際は、風邪を引いたと便宜的な嘘をつくことにした。
変な語尾に苦笑を浮かべつつ、僕は文面を繰り返して見つめた。午前中に終わるという部分が不思議に思えて、眉をひそめることとなったが、そんな謎はすぐに氷解した。
なんてことはない。この時期になると、私立の高校は、受験やらそのための会場づくりやらで、三学期になるとやたら休日や半日授業が増えるのだ。学校へ行かない僕が言えることではないけれど、公立の高校に通う者として、大変ねたましい気持ちにさせられた。
まもなく正午になろうというころ、家のインターホンが響いた。僕は窓のそばに立って、門前にいる奈緒の姿を見下ろした。呼び声をかけると奈緒はこちらに視線を投げた。そのようすを確認して、入ってこいよ、と簡単なジェスチャーで指示を出す。鍵は奈緒が来た時に備えて、あらかじめ開けてあったから、入ってこれるはずだ。
階下で小さな物音がする。子供の頃、何度か来たことがあるためか、奈緒はまっすぐと僕の部屋へ向かってきた。そんなようすを想像させるような、迷いのない足音が僕の耳に届く。そして、部屋に足を踏み入れると同時に彼女はこう言った。
「仮病だよね?」
ぎくり。
「ごほごほごほ、な、なにを言っているんだ。ごほごほごほ、こんな苦しそうな僕を見て、ごほごほごほ、なんとも思わないのか?」
僕は慌てて咳をくり返しながら返答した。
なんということだ。奈緒は読心術が使えるのか! 冗談なしにそう思えた。
仮病であることを隠し立てする必要はないが、抑揚のない奈緒の言葉に怯えをなした僕は、無意識に一芝居うっていた。大体、どうして休んでいるのか、沙夜を知らない人には、説明しようがない。
「ごほごほごほ、し、心配してくれるんだったら、励ましの言葉ひとつでも、ごほごほごほ、欲しいものだ、ごほごほごほ」
焦っているのが逆に風邪っぽさを演出できているように思えた。思えたのは僕だけだったらしい。奈緒は射竦めるように僕から疑念の視線を外さない。
奈緒の言い分はこうだ。
「あーちゃんさ、演技下手だよね。そんな一定の間隔をあけて咳してたら、誰だって疑うってば。たまには緩急ってのをつけることも大事だと思うよ」
「ごほ…………。ごっほごっほ」
「それに、あーちゃん風邪引いた時、甘えんぼうさんになるんだよ?」
「そ、そんな覚えはないッ!!」
「あははは、ほら元気じゃん」
どうやら、かまをかけられたらしい。身を乗り出すほどに、つられてしまった自分が恥ずかしかった。
「なんだ? 逆に聞くけど、お前は僕が学校をさぼるようなふぬけに見えるのか?」
反撃するように、意地の悪い問いかけをしたが、
「なに言ってんの? あーちゃんはサボるような人間じゃないよ」
そんなことを彼女はあっさりと答えてのけた。それによって困惑したのは僕である。今まで被告人を攻め続けていた検事が、急に、弁護士側に寝返ったようだった
「あーちゃんは学校でなにか嫌なことがあっても、気にしない男じゃん。バカみたいにさー」
「……それは、褒めてるのか? 貶してるのか?」
「褒めてるし、貶してるのよ。小早川流、飴と鞭」
「そんな愛情表現はいらない! 飴と鞭のインターバルをもっと考えろよっ!」
奈緒は甘言と苦言を使い分けるのが下手だ。お世辞と暴言が一緒くたになって襲ってくることもしばしばある。
彼女は立ったまま、カーペット上に膝を立てて座っている僕を、不思議そうに見下ろしている。
「病気だって言い張るんだったら、せめて、ベッドの上で寝ていたらどう?」
確かにこの格好で病気であると主張するのは、不自然極まりない。しかし――。
「あ、いいや、ここでいい。こっちの方が楽なんだ」
気にかけてくれた奈緒に悪いな、と思いつつ、腰を置くポジションをその場で取り直した。決してベッドで横になるわけにはいかない。
「変なのー。絶対ベッドの方が気持ちいいじゃん」
その後、好奇心を露わにした目を僕に向けた。
「あ、もしかして、ベッドの下になんかがあるとか? ん、どうなのよ? いやらしい本とか持ってるんじゃない?」
頭ごなしに好き勝手なことを言う。
「おいこら、勝手な理屈で変態思考の持ち主だと決めつけるんじゃない」
まあ、図星ではあるが――。
もちろん、ベッド下の書物を発見されないための、守護神的な役割をしているのではない。
ベッドの上には、沙夜がいた――。
沙夜は相変わらず元気がなくて、奈緒が入ってきても一言も口を利かなければ、動くようすもない。ひょっとすれば眠っているのかもしれなかった。それすらも把握できていない。
奈緒がベッドの上に座らないようにするため、僕は薄っぺらい座布団を自分の横に置き、隣に座るよう促した。ここまで沙夜に気を遣うのもバカらしい、と思いながらも、放っておくこともできず、結局は気を遣ってしまう。本当にルームメイトのような関係になってしまった。
置いた座布団の上に、奈緒は大人しげにひざを折りたたんで座った。
雰囲気だいぶ変わったねー、と昔を偲ぶようなしみじみとした呟きを発しながら、部屋中を見渡していた。あまりじろじろと人の部屋を眺めないでいただきたいものだ。
少しの間、奈緒はエサを待つ雛鳥のように、延ばしたり縮めたりと首を動かしていたが、いずれ、テレビに視線を止めた。指をさして、僕に問う。
「それ武史さんが創ったゲーム?」
テレビ画面には、ゲームの映像が映し出されている。タイトル画面で止まったままになっていた。奈緒がここに来る前にプレイしていたのだ。ゲームの名は『キスマジック』と言い、内容は新機軸なものとなっている。
十五歳の少年が主人公のRPGなのだが、レベルアップの仕方がこれまた妙なもので、キスをするたびに色々な意味で経験値が上がり、日常でも戦闘でも能力値が上昇するというシステムだった。『恋愛シミュレーションRPGゲーム』だという。特別猥らな要素があるわけではないが、どうしてだか、R-15指定とされている。
「そうだよ、テストプレイヤーとしてやってるんだ」
僕は胸をそらして答えた。
「つまり、もっともそうな理由をつけて遊んでいるってことね」
「ち、違う! ゲームを作る上で、バグを発見する仕事があってだな。デバック作業って言うんだけど、立派な仕事なんだぞ」
精密に言うと、デバックとテストプレイは別個の話ではあるが、細かいところはこの際どうでもいい。
「デバックだか、サバックだか、知らないけど、あんまり遊んでばかりいると、もう一度、一年生を送るはめになるよ」
「す、末恐ろしいこと言うなよ……」
奈緒は関心を示したような、示していないような、曖昧な返事をして、「ふぅん。なんか変わったゲームみたいだねー」と試作の説明書に目を通している。それもすぐに飽きたようで、勉強机の上に放り投げた。このゲームに女子高生は興味を示さない、と武史さんに報告すべきだろうか。
そんなことを考えていると、隣に座る奈緒が、ふとなにかを思い出したような顔をしていることに気が付いた。
「どうせ、あーちゃんのことだから、朝夜は京子さんがいるから大丈夫だろうけど、昼はろくなもの食べてないんでしょ?」
事実、僕が作れる料理のレパートリーは大陸の数ほどもない。しかも、昼食時は、鍋焼きうどんとカップめん、コンビニの弁当ぐらいしか食べていない。などとは、とてもじゃないが言えないので、僕は返答しなかった。窓の方をぼんやりと眺める。すると、奈緒の方から溜め息を吐く音が聞こえた。
奈緒は白色のハンドバッグに手を突っ込んで、中からます形の箱を取り出した。そして、それを僕に手渡す。
「ほら、お弁当」
「うわ、お前、正気かっ! わざわざ作ってきてくれたのかよ!」
僕があまりの出来事に遭遇し、大仰に驚いたので、彼女は不愉快そうに顔をしかめた。
「違うわよ、間違えて作っちゃったの。半日で終わるとは思わなくってさー」
「え? でも、朝方には僕にメール送ってこなかったか?」
「い、いいから、食べてよ。――あ、そこ押せば、ふたとれるから」
「食べろって、今、ここで?」
「なに? 食べたくないの? 3、2、1……」
「わかった、すぐ食べるから! なんだよ、その不気味なカウントは!」
「小早川流、三秒ルール」
「脅迫じゃないか。まるで独裁主義だな……」
なぜか自宅であるのにもかかわらず、僕の方が借りてきた猫のようにおとなしくなっていた。完全に奈緒のペースである。
無地の青い弁当箱を開けると、中には色とりどりの野菜や健康によさそうなものばかりが詰まっていた。普段食べる安っぽい昼食とは違い、非常に食欲がそそられる。うまそうだ。つばを飲み込む。
僕の好物である玉子焼きが三つも入っているところは、さすが幼馴染みといったところだろうか。角っこの方に僕の嫌いなチンゲン菜のおひたしが潜んでいるところも、さすがであるといえよう!
僕はまず初めに、嫌いなチンゲン菜から食そうと試み、箸を付ける。苦渋に満ちた表情で(きっとなっていただろう)、一口にした。
その瞬間を狙いすましたかのように、奈緒が呟いた。
「あーちゃん、昔、私に言ったよね。『僕には幽霊が見える』って――」
「げぶっ!!! ごっほごっほっ!!!」
途端、むせ返った。
喉元まで運ばれていたチンゲン菜の風味が口いっぱいに広がって、吐き気を催したが、せっかく作ってもらった手前、吐くわけにはいかず、思い切ってもう一度呑み込んだ。
合いの手を入れるように、奈緒がカバンから水筒を取りだして、僕に手渡してくれた。しかし、慌てて口にした飲み物がお茶ではなくオレンジジュースだったので、もう一度むせることになる。
それだけの動揺をした僕を見て、奈緒は嫌らしく目を細め、
「なぁに? もしかして黒歴史だったぁ?」
と鼻につく声で言った。
「いや、覚えていなかっただけだ。言ったか、僕、そんなバカげたこと」
覚えがない、ととぼけたが、実際はよく覚えていた。まさか、奈緒が覚えているとは思っていなくて、驚いたわけである。
「今でもはっきりと覚えてるよ。中学三年生にもなって、あんなバカげたこと言うんだもん」
バカげたこと、の所を強調した。
「…………そっか」
「正直、引いた。ドン引き」
「うっさい!」
忸怩たる思いに駆られながら、目の置き所を見つけられずに、視線を虚空へ漂わせていると、
「でもね、ちょっぴりだけ信じてたんだ。ううん、今でも信じてる。あーちゃんのあんな顔見るの初めてだったんだもん」
「あんな顔、か……」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――あれは一年以上前のこと。僕らがまだ中学三年生だった時の話だ。
義務教育保護下から放り出される寸前のところで、つまりは、志望校を決定する面談が始まる十分前に、僕は奈緒を呼び出した。
――『なに? わざわざこんな所まで連れてきて』
当時、奈緒の髪は短かった。
――『ん、ちょっと進路についての相談があってだな……』
――『嘘だ。あーちゃんは志望校、もう決まってるじゃん』
――『いや、僕の進路の話じゃなくて……』
元々、家が近いからという怠惰な理由で、僕は現在通っている高校一本に絞って受験した。僕が持ち出したのは、“彼女の志望校について”の話だった。
少し前、ちょっとした用事で出かけた時、彼女が志望する高校に立ち寄ったことがある。立ち寄ったといっても、前を通り過ぎただけであったが、彼女の高校を眺めて、僕は戦慄した。見てしまったのだ。校庭で真っ黒な鎌を抱えて佇む、気味の悪い憑きものを――。
あのころは“憑きもの”などという“生き物”の存在を知らなかったので、僕は勝手にあれが“悪霊”なのだと思いこんでいた。真っ白な容姿に似つかわしくない禍々しい鎌。悪霊は人に害を及ぼすものだ。そんな悪霊が住み着いている高校に、奈緒は進学すると言っている。そんなこと、させたくなかった。
だから僕は言ったのだ。
――『あの高校には通っちゃダメだ。今からでも遅くない。他の高校へ変更してくれ』
無我夢中。なりふり構わずに。
――『……ちょっと、なに言ってんの? ムリに決まってるじゃない。私にだって、やりたいことがあるんだから……』
やりたいことが陸上であることも知っていた。
――『無理を承知で言っているんだよ』
――『……なにそれ? 理由を言ってくれなきゃわかんないよ』
奈緒の表情は笑っていたが、声が震えていたのを僕は覚えている。そのことに気付いていながら、続けた。
――『僕には――』
――幽霊が見える、と。
あの日のことを思いだせば、今でも赤面できる。眩暈すら覚えるぐらいだ。生きてきてその日まで、誰にだって明かしたことのなかった秘密。京子さんにも、武史さんにも、間宵にも、クラスメイトの面々にも。
あの日、僕は生まれて初めて、“告白した”のだ。
僕の健闘空しくというか、よくぞ合格してくれたというか、結果的に当初の意志を変えることなく、難関と呼ばれるその高校に進学した。そして、これもまた結果的にだが、その高校に鎮座していた憑きものの姿もいなくなっていた。
結局、彼女は陸上を続けることをしなかった。才能の壁にぶち当たったのだ、と大口を叩いて笑っていたが、それが嘘であることを僕は知っている。膝の怪我をして、春先の公式戦に出られなかったことを契機にやめたのだ、と。入学して早々、思いを残して陸上部を退部した。そんな事実を風の噂で聞いていた。
隣に座る奈緒のようすを横目で見て、お前も嘘が下手じゃないか――と内心で毒づいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
奈緒は時刻を確認してから立ち上がり、「じゃ、私そろそろ帰るね」と断りの言葉を入れた。僕も続いて立ち上がり、見送るために玄関まで行こうかと考えたが、一応、仮病のぶんざいであるために、結局腰を下ろすことにした。
僕の部屋を出る直前、「あとちょっと気になったことがあるんだけどさー」と奈緒は自分の鼻っ面に指をさしながら言った。
「なんかさぁ。この部屋、女の子の匂いしない? 芳香剤でもおいたの?」
「……は?」
なんのことだか、甚だ見当がつかない。
「いや、なんていうんだろ? 女の子というよりも、お花畑のような、シャンプーみたいな匂いがするんだけど」
花と聞いて、僕は確信した。ルクリア。沙夜の匂いだ。姿は見えないのに、匂いだけはこの部屋に充満しているのだ。こんなことってあるのか。内心で驚かされていた。学校でも、自宅でも指摘されたことがなかったので、気が付かなかった。
「え、ああ、芳香剤だ。この間まで部屋に置いてあったんだよ」
もちろん沙夜のことを話題に出すわけにはいかず、適当なことをうそぶいた。
「へー、そうなんだ。らしくないことするじゃん」
「そうだな。らしくないと思ったから、捨てたんた」
嘘を重ねた。
奈緒は、ドアのぶに手をかけたまま、なかなか立ち去ろうとしない。
「残さずにお弁当食べてよね。弁当箱は今度会った時に返してくれればいいから」
「ああ、もらったからには、きちんと食べるよ」
「いやさ、そうじゃなくて――」
「え? なにが言いたいんだよ?」
「そのお弁当には、おまじないがしてあるから……」
「は? まじない?」
慌てて、弁当の中身を確認した。ふりかけのかかったご飯に、ミートボールにたまご焼き、チンゲン菜とちょっとしたサラダ。まさかとは思うが、この中のどれかに――、
「――毒でも盛ったか……?」
奈緒は僕の頭を殴りつけた。パーじゃなくて、グーだった。
「よ、よくそんなことが言えるわねっ! 信じられないっ!」
「冗談だよ。でも、じゃあ、なんだって言うんだよ? おまじないなんて乙女ちっくなこと言うキャラでもないだろ」
「うん。まぁ……わかってるけど……」
「それで、なんのまじないだよ?」
おどけるように言葉を並べる彼女は、そこはかとなく照れ臭そうだった。
「元気になりますように――って」
ぼうっと奈緒のことを見つめながら、僕は呆れるような感情を抱いた。顔を真っ赤に染めるぐらいに言いたくないことならば、無理して言わなくてもいいのに――。
僕のことをよく知る幼馴染みは、『病気を治せよ』とか、『学校行けよ』とかではなく、『元気になれよ』と言ってくれた。この言い回しの違いは大いにある。
嘘を見透かした上で気遣ってくれたのだ。干渉しないようにと思いながらも、エールを送ってくれたのだ。なので、奈緒の言う通り、元気にしよう、と素直に思った。目を閉じて、呼吸を落ち着かせると、高まった気持ちがすーっと浄化されていくのを感じた。
僕は彼女の気持ちを切に受け止めて、
「ありがとう」
とだけ返した。奈緒はその言葉に仰天して、ますます顔を紅潮させた。
「ま、真に受けてるんじゃないわよ! なんか私が痛い子みたいになってんじゃん!」
「いいだろ、痛い子でもなんでも。素直に言ってくれるだけ、僕は嬉しい」
僕の言葉に、まんざらでもないような顔をする。
「ふぅん。まぁいいや。じゃあね」
そうして春風少女は、自分は役割を果たしたといわんばかりに、颯爽と家から出ていった。効力は抜群で、奈緒のおかげで募りに募っていた苛立ちが大方解消された。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
それからしばらくして僕はおもむろに立ち上がり、玄関のカギをかけるべく、一階に下りた。
その後、部屋に戻り、ベッドを見れば、沙夜が怖じ怖じした顔で、僕のことを見つめていた。殻にこもったやどかりのように、布団を全身にまとって、顔だけを覗かせている。
喧嘩中に怒りが消えたとなれば、残る感情はいつだって気まずさだけである。
さて、どうしたものか――。
耳の裏をかきながら、僕は沙夜と向かい立った。
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