Report,00
人口二万人の、山間にある月前町。水田や果樹園が広がっていた。
恭次は日本農家同業者組合、略して「農同」の調査員だった。農家の家々を訪ね、肥料や農薬の具合を聞いたり、新しいものを紹介したりする。
秋の爽やかな日差しの中、恭次は縁側に腰かけ、老婆の出したお茶をすすっていた。
「どうですか、最近」
隣に座る老婆――大沢は金歯をのぞかせて笑いながら、
「虫もつかなくなって、大助かりよ」
「それはよかったです」
「ただね、最近鳥を見なくなったかしら」
「食べる虫がいなくなったからじゃないですか?」
「昔は庭木の枝に餌をさしてたら、よく来たんだけどね」
恭次は話半分に、通帳を確認する。
「実は今、新たに四十万以上の預金をしていただくと、農薬の値段を二割引くサービスをやってるんですよ」
「あら、そうなの」
「今までどおりの年利ですし、いい話だと思うんですけど」
「そうね。最近はガソリン代も高いし、息子夫婦も助かるでしょ」
「ありがとうございます」
農同では農家の資産管理、運用もしている。
「元銀行員ですし、信頼できるわ」
恭次は苦笑する。三年前まで、隣町の銀行に勤めていた。二年ほどで、月前町の農同に転職した。給料や待遇から見れば、かなり見劣りする。
大沢はその事情を知っており――というよりも知らない人間の方が少ない――嘆息をもらす。
「三年前の“あのこと”さえなければねぇ」
恭次の表情が引きつった。
「あら、ごめんなさいね。余計なこといって」
「いえ。妻のずっと暮らしてたこの町で、皆さんのお役に立てて、僕は満足しています」
それに大沢は、どう声をかけるべきか戸惑っているようだった。
恭次は立ち上がり、
「それでは失礼します。ごちそうさまでした」
大沢はしわしわの顔に笑顔を浮かべ、
「もしよかったら、孫娘の旦那に欲しいわ」
恭次は苦笑し、
「ありがとうございます。まだ独り身を楽しみたいので」
大沢家を出て、車に乗り込む。今日のうちに、あと五件。長話に付き合うのも仕事なので、訪ねるペースは遅い。
今の仕事もそんなに悪くなかった。
恭次は三年前、挙式の直前に、妻を殺された。犯人は精神鑑定の結果、「責任能力が無い」と無罪になった。その落胆の中、精神病院の施設で、犯人は変死した。衰弱死とも、自殺ともいわれている。ただ犯人は発作を起こすたびに、「ヨルガクル」と叫んでいたらしい。
夜が来る――だが夜に怯えていたわけではない。昼夜かまわず、発作のたびにそう叫んでいた。
恭次は何度か、その言葉の意味を考えたが、見当もつかなかった。ただその言葉に、妻が殺されなければならなかった、理由を求めたかった。
犯人は妻と同じ、月前町の人間。何か知っている者はいないかと、農同の調査員になり、月前町の人々と親密な関係を築くようになった。
三年目にしてやっと分かったことは、犯人の平戸省吾が、奥月村の人間だということだった。
「奥月村は、今は誰も住んでいないが、あそこの連中には、たまに頭のおかしいのが産まれるんだ」
そう老爺は話した。奥月村は二十年前、月前町に合併された。老人世代の間では、奥月村に関する、奇妙な言い伝えがあった。
「近親結婚を繰り返した結果か、頭に問題をもった連中が多いんだ。ただ見た目や、普段の様子からじゃ分からない。急に暴れ出したり、意味の分からないことを叫び出すらしい。最後は自殺するか、人を殺したりするらしい。俺は見たことないがな」
その言い伝えから、奥月村の人間というだけで、忌避の対象となった。しかし戦後の混迷期などに、出稼ぎにきた村人との混血が多く産まれた。誰が村の血筋か分からなくなり、取り立てて話題にする者もいなくなった。
「平戸が奥月村の人間の、子孫だっていう証拠はない。だが素行を聞く限りじゃ、村の人間の気がするんだよな」
「素行、ですか?」
「嫌なことを思い出させて悪いが、事件を起こす直前、ヨルガクル、そう喚いて、暴れていたらしい。まるで何かに怯えるように」
「夜が来る……」
「それが夜のことだとしても、真っ昼間からだ。今じゃ平戸家もどこかに引っ越して、本当のところを確かめようもないが。一日中、物置から出てこなかったとか、そんな噂を聞いた」
「奥月村の人間は、みんなそうなんですか?」
「全員てことはないが、それと同じようなことを、五年前の一家心中事件の犯人も口走っていたらしい」
疑念は確信に変わった。「ヨルガクル」、その不明な言葉に、何らかの意味がある。
地主である父には、真実を知ってどうするつもりかと聞かれたが、恭次は真相を明らかにすることで、前に向かおうとした。このまま彼女の死を、曖昧にしたくない。
自己満足でしかないが、そうすることで、気持ちの決着がつく気がした。