第1話『遠雷』 ~section2:異国の空気と、凍りつく言語の壁~
ドンッ、という内臓を直接殴りつけられたような強烈な衝撃が、僕の全身を前方に放り出そうとした。
分厚いシートベルトが胸骨と下腹部に容赦なく食い込み、肺から無理やり空気が絞り出される。直後、耳をつんざくようなエンジンの逆噴射の轟音と、巨大なゴムタイヤが滑走路のアスファルトを削り取る甲高い摩擦音が、機内の密室空間に暴力的に響き渡った。
「ひぃぃぃぃっ!」
僕は座席の肘掛けを両手で白くなるほど握りしめ、情けない悲鳴を上げながら目を固く閉じた。空を飛ぶ鉄の鳥が、その数百トンもの巨大な質量を重力に任せて地面に叩きつけ、無理やり静止させようとするこの着陸の瞬間こそが、飛行機という乗り物において最も物理的な恐怖を感じる時間だ。僕の三半規管は激しく揺さぶられ、脳は致命的なエラー信号を全身の神経に送り続けている。
「……カーボンセラミック製のブレーキパッドが、限界まで摩擦熱を発生させておるな。この急減速のGのかかり方、滑走路の表面に微細な水分あるいは凍結の痕跡があることを警戒した、機長の安全マージンの取り方が透けて見えるわ」
僕が死の恐怖に震えているすぐ隣で、如月さんは手元の古い洋書を閉じることもなく、身体を僅かにシートに沈めながら淡々とそう分析していた。彼女の身体は、着陸の激しい衝撃を受けてもなお、完璧な姿勢を保っている。彼女にとっては、己の命が脅かされているかもしれないこの瞬間でさえ、ブレーキパッドの摩耗率や滑走路の摩擦係数といった物理的データの方が重要らしい。
やがて、機体を激しく揺さぶっていた振動が徐々に収まり、轟音は低いエンジン音へと変わっていった。窓の外の景色が猛烈なスピードからゆっくりとした流れに変わり、飛行機は完全に誘導路へと入った。
ポーン、という電子音とともに、機内に到着を知らせる明るいアナウンスが流れ始める。
「……い、生きてる」
僕は全身の力を抜き、座席にドッと寄りかかった。額にはべっとりと冷や汗が張り付き、握りしめていた両手は強張りすぎて感覚がなくなっている。リュックの中に眠る、箱崎彩華ちゃんのアクリルスタンドに向けて、僕は心の中で百万回の感謝の祈りを捧げた。どうかあの、彼女が無傷でいてくれますように。
「無様な顔を晒すのはそこまでにしておくのじゃ、サクタロウ。わしたちはただ物理的に座標を移動しただけに過ぎぬ。さあ、未知なる不純物が眠る大地へ降り立つぞ」
如月さんは優雅な動作でシートベルトを外し、チャコールグレーのトラベルコートの襟を正して立ち上がった。僕はまだ震える足に無理やり力を込め、機内持ち込み用のリュックサックを背負い、彼女の後に続いた。
機体のドアが開き、ボーディングブリッジへと足を踏み入れた瞬間だった。
「……冷たっ」
僕は思わず身震いをした。
僕たちの暮らす月見坂市は、街のインフラが高度に制御されたスマートシティだ。もちろん自然の猛威である台風や吹雪が来ないわけではないが、ひとたび屋内や地下通路に入れば、気温や湿度は常に完璧な状態に保たれている。
しかし、この異国のボーディングブリッジの空気はまるで違った。ベルグラヴィアは緯度が高く、今の季節でも日本の真冬並みの寒さだと聞いてはいたが、想像以上の物理的ダメージだ。さらに、鼻腔を突く匂いも違う。ここには『古い石材が孕んだ湿気』と、『乾いた埃』、そして微かな『機械油』の匂いが複雑に混ざり合っている。これが、数百年もの歴史が地層のように積み重なった異国の空気なのだと、僕の五感が強烈に認識させられる。
「ほう。やはり日本の空気とは、粒子の重さがまるで違うな」
僕の前を歩く如月さんが、ボーディングブリッジの通路の壁面に視線を向けながら立ち止まった。彼女は素手の指先で壁の表面を軽く撫で、その視線を細めている。手袋をしていないということは、本格的な鑑定ではないものの、彼女の物理的観察眼はすでに周囲の環境情報を無意識のうちに読み取り始めているのだ。
「この壁面の塗料。表面のひび割れから覗く下地の層に、鉛系の防錆塗料の痕跡が見える。今では環境規制で使用が禁止されている成分じゃ。そこから推測するに、この空港ターミナルの基本構造が建設されたのは、少なくとも半世紀以上前ということになる」
如月さんは歩きながら、誰に聞かせるわけでもなく淡々と語り続ける。
「さらに、その上に重ね塗られたアクリルシリコン樹脂の劣化具合と、修繕のムラ。……過去数十年間にわたり、財政的な理由からか、根本的な改修を行わず、表面的な補修だけを繰り返してきた歴史のルーツが、この微細な塗膜の層に克明に記録されておる。常に最新の建材でアップデートされ続ける月見坂市では決して見られない、澱んだ時間の地層じゃな」
「如月さん、歩きながら壁の塗料の年代測定をするのはやめてください。他の乗客に変な目で見られていますよ」
僕は慌てて彼女の背中を促した。エリートである桐生院や、常にデータを重んじる五味、そして佐伯や鳴海といった同級生たちは、すでに足早に入国審査のゲートへと向かっている。僕たちだけがここで壁を見つめて立ち止まっているわけにはいかないのだ。
順路に従って進み、やがて巨大な入国審査のホールへと辿り着いた。
薄暗い照明の下に並ぶ審査ブースには、屈強な体格をした現地の審査官たちが、全く笑みのない冷徹な表情で座っている。彼らの鋭い眼光は、僕たち一人一人の挙動を物理的な不審点がないか品定めしているようだった。
「……次の方」
現地語訛りの硬い英語で呼ばれ、僕はビクッと肩を震わせた。
女性耐性がゼロであることは言うまでもないが、それ以前に、僕はこういう『威圧的な権力者』に対しても致命的に弱いのだ。僕は震える手で真新しい五年用パスポートを差し出し、審査官の顔を見上げることもできずに視線を泳がせた。
「サイトシーイング? スタディ?」
審査官が低い声で何かを聞いてくる。観光か、勉強か、という意味だろう。中学生レベルの英語だが、極度の緊張状態にある僕の脳内翻訳機能は完全にフリーズしていた。
「あ、ええと……ざ、ざっつらいと……? イエス、イエス……」
意味不明な相槌を打つ僕を、審査官がさらに怪訝な目で見下ろしてくる。このままでは別室に連行されてしまうのではないか。そう思い、僕の胃袋が激しく自己主張を始めたその時だった。
「彼は私の生徒です。私たちは日本の如月学園高等部から、ベルグラヴィアの歴史と文化を学ぶための特別研修プログラムで参りました。滞在期間は一週間、滞在先は『静寂の館』です。こちらが全員分の研修証明書と、身元引受の書類になります」
横からスッと差し出されたのは、流暢で、かつ相手に一切の隙を与えない完璧な発音の英語だった。
清瀬先生だ。彼女は動きやすいパンツスーツ姿のまま、審査官に対して毅然とした態度で書類を提示している。その理知的で堂々とした振る舞いに、さしもの威圧的な審査官も「オーケイ」と頷き、僕のパスポートに無骨なスタンプをバンッと押し付けた。
「助かりました、清瀬先生……」
「朔くん。異国の地では、自信のなさは相手に付け込まれる隙になるわ。堂々としていなさい。それにしても、もう少し語学の勉強をしておくべきだったわね」
清瀬先生は呆れたようにふふっと笑い、ヒールを鳴らして先へと進んでいった。僕はホッと胸を撫で下ろし、急いで如月さんの後を追って荷物受け取りのターンテーブルへと向かった。
ターンテーブルの周囲には、すでに桐生院や五味たちが集まっていた。
金属製のコンベアが、キーキーと耳障りな軋み音を立てながら回り始める。月見坂市の静音設計されたモーターとは大違いの、いかにも古い機械といった音だ。
やがて、次々と荷物が吐き出されてくる。
桐生院がスマートにピックアップしたのは、一目で高級ブランドとわかる、傷一つないレザー製のトランクだった。彼の優雅な所作は、荷物を受け取るという単なる物理的作業すらも一枚の絵画のように見せてしまう。
「お、来た来た」
鳴海がひょいと持ち上げたのは、ステッカーがベタベタと貼られた使い込まれたボストンバッグだ。彼女の活発な性格がそのまま形になったような荷物である。
そして、コンベアの奥から、ひと際異彩を放つ巨大な塊が流れてきた。
如月コンツェルンのお抱え職人が、最高級の雄牛の革を手縫いで仕上げたという、重厚な特注の革トランクである。飴色に変色したヌメ革の表面と、鈍い光を放つ真鍮のコーナーガード。それは単なる荷物入れではなく、それ自体が美術品のような威圧感を持っている。
「サクタロウ。わしの荷物じゃ。傷をつけぬよう、慎重に運ぶのじゃぞ」
「わかってますよ……よいしょっと!」
如月さんの指示に従い、僕はその巨大なトランクをターンテーブルから引っ張り下ろした。中に大量のルーペや専門書、鑑定用の機材が詰まっているせいか、腕の骨が外れそうになるほど重い。
その直後に流れてきた僕自身のキャリーケースは、量販店で買った安物のポリカーボネート製だ。車輪の片方が少し歪んでいて、転がすたびにカラカラと情けない音を立てる。如月さんの革トランクと並べてカートに乗せると、その圧倒的な格差に涙が出そうになった。
全員が荷物を回収し、税関を抜けて到着ロビーへと足を踏み入れた。
自動ドアが開いた瞬間、さらに多くの人種と多言語の喧騒が波のように押し寄せてくる。出迎えのプレートを掲げた人々、抱き合って再会を喜ぶ家族、タクシーの客引き。
「さて、現地のガイドと合流する手はずになっているのだけれど……」
明宮先生が周囲を見渡し、引率者としての柔らかな笑顔を浮かべながら目当ての人物を探し始めた。
「あ、明宮先生! もしかして、あの人じゃないですか?」
佐伯陽菜が、パステルカラーのキャリーケースを引きながら、ロビーの片隅を指差した。
僕もそちらへ視線を向けて、思わず瞬きを繰り返した。
そこに立っていたのは、手書きで『キサラギ学園 御一行様』と不格好な日本語で書かれた段ボールのプレートを掲げている、一人の外国人男性だった。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。金髪に碧眼、彫りの深い顔立ちと立派な体格は、いかにもベルグラヴィアの現地人といった風貌だ。しかし、問題はそのファッションだった。
彼は、ベルグラヴィアの伝統的な民族衣装と思われる、幾何学模様の刺繍がびっしりと施された厚手のウールコートを羽織っていた。そこまではいい。だが、そのコートのインナーに着ているのは、目も眩むような原色のネオンイエローのストリート系パーカーだった。さらに下半身はダメージジーンズ、足元にはゴツゴツとした最新のハイテクスニーカーを履き、頭にはツバの平らなベースボールキャップを斜めに被っている。
歴史ある伝統と、現代のストリートカルチャーが、一切の調和を見せることなく大事故を起こしている。それはファッションの多様性などという言葉では片付けられない、歩く違和感の塊だった。
「オー! イエス! アナタタチが、ニホンから来たキサラギ学園のエリートさんたちデスネ!」
僕たちを見つけたその男は、プレートを放り投げんばかりの勢いで駆け寄ってきた。声がやたらとでかい。
「ワタシは、今回アナタタチのガイドと運転手を務める、ミハイル・ルストヴァニアと申しマース! ベルグラヴィアへヨウコソ! どうぞミハイルと呼んでクダサイ!」
ミハイルと名乗ったその男は、大仰な身振り手振りを交えながら、流暢だがどこか胡散臭いアクセントの日本語で挨拶をした。
「初めまして、ミハイルさん。引率の明宮海翔です。一週間、生徒たちの案内をよろしくお願いしますね」
明宮先生は完璧な笑顔を崩すことなく、ミハイルと固い握手を交わした。どんな奇抜な相手であっても、教育者としてのポーカーフェイスを貫くその精神力は素直に尊敬する。
「オー、アケミヤセンセイ! コチラこそヨロシクデス! さあさあ、エリートのミナサン、長旅でお疲れでしょう! ホンモノのベルグラヴィアの空気を吸って、リフレッシュしてクダサイ!」
ミハイルは満面の笑みを浮かべ、僕たち生徒の方へと向き直った。
「ベルグラヴィアは歴史と伝統の国デス! アナタタチが滞在する『静寂の館』も、スバラシイ場所デスヨ! まさに、ヨーカさんのヨウカンへ行くデース!」
……ん?
僕の思考が、一瞬だけ停止した。
ヨーカさんのヨウカン? 洋館、と掛けているのか? いや、そもそも『八日さん』って誰だ。一週間の滞在だから八日間という数字を無理やり捩ったのか? だとしたら、あまりにも苦しすぎるし、何より絶望的に古い。
僕は思わず周囲の同級生たちの反応を窺った。
桐生院誠は、彫刻のような美しい微笑を口元に張り付けたまま、完全に音声を脳内で遮断しているようだった。
五味鉄平は、手元のタブレット端末を叩きながら、「……現地の翻訳アプリの言語アルゴリズムに、深刻なバグが発生しているようですね。意味不明な音声データが抽出されました」と、物理的なエラーとして処理している。
佐伯陽菜は、「八日さん? 現地のオーナーさんのお名前かな?」と小首を傾げ、天然のフィルターでギャグそのものを無効化している。
鳴海亜衣に至っては、「うわ、さっむ。ここの気温より寒いわ」と、直接的すぎる言葉でドン引きしていた。
誰も、ミハイルの言葉に対して『正しい反応』をしていない。
このままでは、空気が死ぬ。せっかく歓迎してくれている現地ガイドの心が、この日本のエリート高校生たちの冷たい反応によって粉々に砕け散ってしまうのではないか。
根が常識人で、波風を立てることを嫌う僕の心の中に、『誰かがツッコミを入れなければ場が凍りつく』という、謎の強迫観念がむくむくと湧き上がってきた。しかし、初対面の、しかも屈強な外国人男性に対して大声で突っ込む勇気などあるはずもない。
「……八日さんじゃなくて、八日間の洋館滞在、ですよね……」
結果として、僕の口から漏れ出たのは、蚊の鳴くような小声の、非常に陰湿なツッコミだった。
「オー!? ボーイ、ナニか言いましたカ!?」
「ひぃっ! い、いえ! 何も!」
耳ざといミハイルが僕の方をバッと振り返り、僕はカートの陰に隠れるように身を縮めた。
「ハッハッハ! シャイなボーイですね! 大丈夫デス! ベルグラヴィアの夜は長いデスから、疲れた時はツケモノですね! ハハハ!」
……ツケモノ?
疲れた時は甘いもの、の間違いではないのか。なぜ漬物なんだ。塩分補給を推奨しているのか。それとも、ベルグラヴィア特有のジョークなのか。
(いや、漬物じゃなくて甘いものですよ! なんでピクルス勧めてるんですか!)
僕は脳内で激しくツッコミを入れながら、この現地ガイドの破壊力によって、自分のHPがゴリゴリと削られていくのを実感していた。これでは、洋館に着く前に僕の精神がもたない。
「ミハイルとやら」
その時、それまで無言だった如月さんが、静かに口を開いた。
彼女はミハイルの奇抜なファッション――そのウールコートの胸元に施された刺繍を、素手のままじっと見つめている。
「お主が羽織っておるそのコートの刺繍。幾何学模様に見せかけておるが、実はベルグラヴィア北部の山岳地帯に伝わる、魔除けと豊穣を祈る古代文字のルーツを汲んでおるな。糸の染料に使われているのは、この国特有の針葉樹の樹皮じゃ。……しかし、その下に着ている化学繊維のパーカーと、クッション性のみを追求したゴム底の靴のせいで、せっかくの歴史的意匠が台無しになっておる。モノのルーツに対する冒涜じゃな。すぐに脱ぎ捨てるがよい」
「オゥ……?」
如月さんの容赦のない、そして全く空気を読まない物理的・歴史的観察眼からのダメ出しに、ミハイルは目をパチクリとさせて硬直した。彼女は他者の感情に寄り添うことはしない。たとえ相手が初対面の現地ガイドであろうと、そこにある事実とルーツの歪みを指摘せずにはいられないのだ。
「如月さん! 初対面の人に服を脱げって言うのはやめてください! 国際問題になりますよ!」
僕は慌てて如月さんとミハイルの間に立ち塞がった。サムいギャグへのツッコミどころの騒ぎではない。
「ハ、ハッハッハ! なかなかキツいジョークを言うお嬢さんデスネ! ワタシのファッションセンスは最先端デスヨ! さあさあ、バスは外に停めてありマース! 行きましょう!」
ミハイルは引きつった笑いを浮かべながら、強引に場を誤魔化し、僕たちを空港の出口へと誘導し始めた。僕は深い絶望のため息をつき、如月さんの重すぎる特注トランクと自分のキャリーケースが乗ったカートを押して、彼らの後を追った。
空港の自動ドアを抜け、外の車寄せに出る。
そこに停まっていたのは、最新のEVバスなどではなく、エンジン音をガラガラと響かせる古びたディーゼルバスだった。排気ガスの匂いが鼻を突く。
僕は二つの荷物をバスの荷台に押し込み、ふと空を見上げた。
どんよりとした分厚い灰色の雲が、空全体を重苦しく覆い尽くしている。太陽の光は届かず、周囲の景色はすべて彩度を落としたような暗い色調に沈んでいた。月見坂市でも雨は降るし台風も来る。だが、この見知らぬ異国の空が放つ、歴史の重圧そのもののような底知れぬ暗さは、日本のそれとは決定的に違っていた。
「……本当に、遠くまで来てしまったんだな」
僕は誰に聞こえるわけでもない声を漏らした。
冷たい風が首筋を撫でる。サムいギャグを連発する奇妙なガイド、底知れぬ事実を容赦なく暴き出す令嬢、そしてエリートと同級生たち。この不協和音の塊のような一行を乗せた古いバスは、やがて来る惨劇と真実が待ち受ける深い森の奥、『静寂の館』へと向けて、重苦しいエンジン音とともに走り出したのだった。




