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第9巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(上)  作者: アリス・リゼル


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第1話『遠雷』 ~section1:青空の密室と、音響のルーツ~

 窓の外の果てしない青空と、隣で微かな熱を帯びた瞳をしている如月さんから、僕は逃げるように視線を引き剥がした。

 いつまでも己の不吉な予感や、この鉄の鳥に対する根源的な恐怖に向き合っているほど、僕の精神は頑丈にできていない。現実逃避は、凡人が過酷な環境を生き延びるための最も有効な防衛手段である。


 僕は強張った筋肉を無理やりほぐし、正面に据え付けられたパーソナルモニターへと意識を向けた。

 それにしても、僕たちにあてがわれたこのビジネスクラスの座席というのは、一般庶民の僕からすると過剰なまでの豪華さだ。独立したパーティションで区切られた半個室のようなプライベート空間。体を包み込むような本革のシートは、手元のボタン一つでフルフラットのベッドにまで変形するという。足元は思い切り伸ばしても前の座席に届かないほど広く、木目調のサイドテーブルには陶器のグラスや高級そうなアメニティキットがうやうやしく置かれている。月見坂市にある僕の自室よりも、よほど機能的で快適かもしれない。


 僕はリュックサックからノイズキャンセリング・ヘッドホンを取り出し、耳を完全に塞いだ。

 機内に響くエンジンの低周波ノイズや、同級生たちの話し声がスッと消え去り、人工的な静寂が訪れる。僕は震える指先でモニターのタッチパネルを操作し、機内エンターテインメントの映画一覧をスクロールし始めた。


 ハリウッドの最新アクション、感動的なヒューマンドラマ、難解なヨーロッパの芸術映画。そんなものは今の僕には必要ない。僕が求めているのは、思考を完全に停止させてくれる圧倒的なB級感だ。

 スクロールの果てに見つけたのは、『メガ・シャークVS多頭マダコ』という、タイトルだけで頭が痛くなりそうなパニック映画だった。これだ。これしかない。


 僕は再生ボタンを押し、画面の中で繰り広げられるチープなCGのサメと、無駄に水着姿で逃げ惑うヒロインの姿に意識を没入させた。

 ヒロインが巨大なサメの顎から間一髪で逃れるシーン。僕はそのヒロインの顔を、脳内で意図的に別の顔へと変換する。僕の推しである地下アイドル『魚魚ラブ』の絶対的センター、箱崎彩華ちゃんだ。鱗を模したスパンコールの衣装に身を包んだ彩華ちゃんが、マイクスタンドを武器にしてメガ・シャークの鼻先を殴りつける。


(いけっ! 彩華ちゃん! そのサメのエラを狙うんだ! オイ! オイ! オイ!)


 脳内で激しいコールを送りながら、僕は完全に映画の世界へと逃避していた。高度一万メートルの空に浮かぶ巨大な密室で、僕はサイリウムを振る一匹の小魚へと退行することで、迫り来る非日常の恐怖と、同級生の女子たちに対する極度の緊張から目を背けようとしていたのだ。


 だが、そんな僕のささやかな聖域は、右肩をトントンと叩く物理的な感触によってあっさりと崩壊した。


 ビクッとして顔を向けると、通路を挟んだ隣の席から、如月さんが僕をジッと見つめていた。仕切りはすでに下げられており、彼女は手袋をしていない素手の指先で、僕のヘッドホンを外すように促している。

 僕は渋々ヘッドホンをずらし、彩華ちゃんが多頭マダコの触手に巻き付かれそうになっている画面を一時停止した。


「……なんですか、如月さん。今、クライマックスなんですけど」


「そのような三文芝居の映像信号に脳の処理能力を割くとは、相変わらず愚鈍じゃな。もっと周囲の環境に目を向けるのじゃ、サクタロウ」


如月さんは面白くもなさそうに息を吐いた。


「環境って……外は雲と空しかありませんよ」


「視覚情報のみに頼るから本質を見落とすのじゃ。この機内を満たしている『音』に耳を澄ませてみよ」


 彼女はそう言って、機体後方、ジェットエンジンがマウントされているであろう方向へと僅かに視線を向けた。


「現在の巡航高度における外気温は、およそマイナス五十度から六十度。空気密度は地上の三分の一以下にまで低下しておる。この希薄な大気中では、音波の伝播速度――つまり音速が、地上とは明確に異なる。絶対温度の平方根に比例して音速は低下するゆえ、今の外の音速は秒速三百メートルを大きく下回っておるじゃろう」


 始まった。如月さんの衒学的な分析タイムだ。僕は小さくため息をつき、姿勢を正した。こうなると彼女は、僕が相槌を打つまで絶対に話を止めない。


「機体の外壁――炭素繊維強化プラスチックとアルミニウム合金の複合素材を透過して我々の鼓膜に届くエンジンの燃焼音は、異なる媒質を通過する際の音響インピーダンスの違いにより、高音域の周波数が著しく減衰して聞こえる。さらに言えば、この機内は与圧システムによって人工的に気圧がコントロールされておるが、完全な一気圧ではない。標高二千メートル程度の山の上にいるのと同じ状態じゃ。ゆえに、空気の分子の衝突回数が減り、音の反響はよりドライで平坦になる」


 如月さんは素手で自身の喉元を軽くトントンと叩いた。


「わしの声も、地上で発する時よりも僅かに倍音が削られておるのがわかるじゃろう。この音響のルーツを辿れば、現在機体が受けている外気圧と、エンジンのタービンが空気を圧縮・燃焼させている出力の正確な数値が導き出せる。お主が先ほどまで怯えていたこの鉄の鳥は、極めて精緻な物理計算と流体力学の上で、寸分の狂いもなく空という流体を切り裂いておるのじゃ。怯える要素などどこにもない」


「……はあ。つまり、飛行機は安全に飛んでいるから安心しろ、ということですか?」


「わしはお主の精神安定のために事実を歪める気はない。だが、無知からくる情動の乱れは、観察のノイズになるゆえ指摘したまでじゃ」


 如月さんは澄ました顔でそう言い放ち、手元のサイドテーブルに置かれていた備え付けの機内誌を素手でパラパラと捲り始めた。彼女なりの不器用な気遣いなのだろうか、それとも本当にただ物理現象を語りたかっただけなのだろうか。どちらにせよ、彼女のその揺るぎない理性に触れると、僕の抱えていた漠然とした恐怖が少しだけ薄れるのは事実だった。


「失礼いたします。お食事の準備が整いましたが、いかがなさいますか?」


 通路を挟んだ斜め前から、上品な声がかけられた。制服を完璧に着こなした客室乗務員が、純白のテーブルクロスと銀食器が乗せられたカートを押して微笑んでいる。

 そうか、もう機内食の時間か。僕はモニターの時計を確認した。離陸してからすでに二時間が経過しようとしている。


「いただきます。ええと、僕は和食のほうで」


 僕が答えると、客室乗務員は流れるような動作で僕のテーブルにクロスを敷き、小鉢がいくつも並んだ豪華な和食の御膳をセットしてくれた。ビジネスクラスの機内食は、エコノミーのそれとは次元が違う。まるで高級料亭の食事がそのまま空の上に持ち込まれたかのようだ。


「わしは洋食じゃ。肉の焼き加減は指定できるのか?」


 如月さんが尋ねると、客室乗務員は申し訳なさそうに微笑んだ。


「申し訳ございません。機内食は安全上の理由から、事前に地上で調理されたものを、専用のオーブンで再加熱して提供しておりますため、細かな焼き加減の調整はいたしかねます。本日は牛フィレ肉のステーキ、赤ワインソース添えをご用意しております」


「ふむ。再加熱のプロセスを経た肉か。よかろう」


 如月さんの前にも、陶器のプレートに乗せられた見事なステーキが配膳された。立ち上るソースの香りが機内の乾燥した空気を刺激し、僕の胃袋が急激に自己主張を始める。


 僕は割り箸を割り、「いただきます」と小さく呟いて食事に手をつけようとした。


「サクタロウ。食事を口に運ぶ前に、己に与えられたカトラリーを観察するのじゃ」


 如月さんの冷たい声が、僕の箸を止めた。

 見れば、彼女はチャコールグレーのトラベルコートの内側に隠された特殊なポケットから純白の綿手袋を取り出し、指の先まで隙間なく嵌めているところだった。それは、彼女が『モノのルーツ』に深く潜り、対象を鑑定する際の絶対的なスイッチである。普段は素手で過ごす彼女がわざわざこの手袋を嵌めたということは、目の前の食事をただの栄養源としてではなく、読み解くべき『遺物』として認識した証拠だった。


「ええと……フォークがどうかしたんですか?」


「このフォークの表面に刻まれた、無数の微細な擦過痕。これは人間の手による通常の使用でついたものではない」


 如月さんは純白の手袋で銀色のルーペを取り出し、自分のプレートの横に置かれたステンレス製のフォークを舐め回すように観察し始めた。


「機内食工場における、巨大な工業用食洗機の中で他の大量の食器と激しく衝突しながら、高温のアルカリ性洗剤で強制的に洗浄された痕跡じゃ。金属表面の酸化被膜に、特有の規則的なダメージが見られる」


彼女は次に、ルーペの視線をメインディッシュのステーキへと移した。


「そして、この牛フィレ肉。表面にはメイラード反応による美しい焼き色がついておるが、肉の繊維の収縮率と、このソースの粘度から見て、地上で焼かれた後、一度急速冷凍されている。それを機内のスチームコンベクションオーブンで短時間に再加熱したため、タンパク質の熱変性に不自然な歪みが生じ、中心部と表面の温度勾配に逆転現象が起きておるな」


「……あの、如月さん」


「この肉を加工した工場の作業員たちの情動が見えるようじゃ。時間との勝負、徹底された衛生管理、マニュアル化された反復作業に対する疲労と諦念。彼らの感情に共感はせぬが、その物理的な痕跡は、この肉の断面とソースの飛び散り方という事実として、見事にこのプレートの上にルーツを残しておる」


「如月さん! お願いですから、これからご飯を食べようとしている人間の横で、工業用食洗機だの作業員の疲労だのと解説するのはやめてください! せっかくの高級機内食のロマンが台無しです!」


 僕はたまらず抗議した。如月さんのモノのルーツを探る能力は本物だが、TPOという概念が決定的に欠如している。彼女は食事すらも、ただの『流通経路と物理現象の集合体』として処理してしまうのだ。


「事実から目を背けて美味しいという錯覚に浸るなど、愚鈍の極みじゃな。まあよい、お主はせいぜい、その添加物で調整された旨味成分を堪能するがよい」


 一通りの鑑定を終えると、如月さんは満足げにルーペを仕舞い、純白の手袋をゆっくりと外して再びコートのポケットに戻した。

 そして、素手でナイフとフォークを手に取ると、ステーキを切り分け始めた。その所作は、先ほどのマッドサイエンティストのような分析が嘘のように、完璧で優雅なテーブルマナーに基づいていた。如月家で受けてきた教育の賜物だろう。僕もこれ以上彼女のペースに巻き込まれないよう、無言で和食を口に運び始めた。確かに美味しいが、如月さんの解説のせいで、巨大な工場で機械のように弁当を詰める人たちの顔が脳裏をチラついて仕方がなかった。


**


 食事が終わり、機内販売のアナウンスが静かに流れた後。

 客室乗務員が窓の日よけを下ろすように促して回り、機内の照明が段階的に落とされていった。天井のLED照明が、人工的な夕暮れから、深い夜を思わせる藍色へと変化していく。時差を調整するための、強制的な睡眠時間の始まりだ。


 だが、僕は全く眠気を覚えていなかった。

 慣れないビジネスクラスのシート、完全には消えない飛行への恐怖、そして何より、明日から始まる他クラスの女子生徒たちとの共同生活への憂鬱感が、僕の交感神経を極限まで昂らせていた。


 僕はシートを少しだけ倒し、薄暗い機内を見渡した。

 通路を挟んで少し前の席では、エリートの桐生院誠が、まるでギリシャ彫刻のように微動だにせず、美しい寝顔で眠りについていた。アイマスクも耳栓もつけず、ただ腕を組んで目を閉じているだけなのに、その姿には一切の隙がない。彼はおそらく、どんな環境でも即座に己の精神をコントロールし、最適な休息を取ることができるよう訓練されているのだろう。如月コンツェルンと渡り合うような名家の御曹司とは、かくも完璧な生き物らしい。


 その斜め後ろの席では、五味鉄平が暗闇の中でタブレット端末の青白い光を顔に浴びていた。

 彼は眠る気など毛頭ないらしく、画面に表示された複雑なフライトマップや、機体の現在位置を示すGPSデータに食い入るように見入っている。時折、彼が指先で画面をスワイプするたびに、眼鏡のレンズに青い光が反射して光る。彼にとっては、自分の身体が空を飛んでいるという主観的な恐怖よりも、画面上の現在座標という客観的なデータのほうが世界の真実なのだろう。


 さらに後方の席からは、微かに佐伯と鳴海の寝息が聞こえていた。清瀬先生も明宮先生も、引率としての責任を果たすために、今は静かに休息を取っているようだ。清瀬先生はきっと、眠っていても周囲の異常にすぐ気づくような浅い眠りなのだろうと、勝手に想像してしまう。


 結局、この暗闇の中で完全に覚醒しているのは、僕と、隣の席で静かに読書灯をつけて分厚い洋書を開いている如月さんだけだった。


「眠れぬのか、サクタロウ」


 ページをめくる音の合間に、如月さんがポツリと尋ねてきた。彼女は手袋をしていない素手で、丁寧に古い紙を扱っている。


「ええ、まあ。色々と考えてしまって」


「女子生徒たちとの共同生活が恐ろしいか?」


 図星を突かれ、僕は思わず言葉に詰まった。如月さんの情動の視座は、僕の隠しておきたい情けなさなど容易く見抜いてしまう。

 しかし、一つだけ心の中でツッコミを入れさせてもらうなら、目の前で優雅に洋書を読んでいるこの人も、間違いなく『女子生徒』の一人なのだ。


「……否定はしません。僕は佐伯さんのように計算されたお嬢様の距離感や、鳴海さんのような遠慮のない物理的コミュニケーションが極端に苦手なんです。如月さんのように、僕を完全に『助手』という機能として扱ってくれるなら平気なんですけど……」


「当然じゃ。お主はわしの手足であり、観測のための道具に過ぎぬ。そこに雌雄の別や、不要な情動など介入させる余地はない」


如月さんは洋書から目を離すことなく、淡々と言い放った。


「それはそれで少し悲しい気もしますけど、今の僕にはそのドライさが何よりの救いです。ただ、女性への恐怖だけじゃなくて、ベルグラヴィアの洋館というのも、どうも嫌な予感がして。絶対、ただの平和な研修じゃ終わらない気がするんです」


「予感などという曖昧なものに支配されるな」


 如月さんはピシャリと告げた。


「恐怖のルーツは常に無知にある。対象の構造を知り、物理的な事実を積み重ねれば、恐れるべきものなどこの世には存在せぬ。……まあ、お主がどうしても怯えるというのなら、わしが事実のみをもって、すべての不純物を解体してやろう。お主はただ、わしの後ろで助手としての役割を全うするのじゃ」


 それは決して、僕を慰めるための言葉ではなかった。彼女の傲慢なまでの自信と、揺るぎない事実への探求心が、そのまま口からこぼれ落ちただけだ。しかし、僕にとってはその冷たい言葉こそが、何よりの鎮静剤だった。


「……ええ。頼りにしていますよ、如月さん」


 僕が小さく返事をすると、如月さんは何も言わず、ただ洋書のページを一枚めくった。

 乾燥した機内の空気に、古紙の擦れる音が微かに響く。

 僕は再びシートに深く身を沈め、目を閉じた。エンジンの低周波ノイズが、まるで遠くで鳴る雷のように、腹の底に響き続けている。この鉄の鳥が僕たちをどこへ運んでいくのか。その答えは、あと数時間もすれば、強制的に目の前に突きつけられることになる。


**


『――皆様、当機は間もなくベルグラヴィア国際空港への着陸態勢に入ります』


 機内アナウンスの明るい声が、僕の浅い微睡みを切り裂いた。

 ポーン、という電子音とともに、シートベルト着用のサインが赤々と点灯する。機体が僅かに機首を下げ、降下を始めた感覚が三半規管に直接伝わってくる。


「ひぃっ……!」


僕は再び跳ね起きて、座席の肘掛けを全力で握りしめた。


「最後まで騒々しい奴じゃな。……まあよい。いよいよじゃ」


 僕の隣で、如月さんはゆっくりと洋書を閉じ、トラベルコートの隠しポケットから銀色の美しい懐中時計を取り出した。

 カチッ、と蓋を開ける。


 チク、タク、チク、タク。


 正確な秒針の音が、再び僕の耳に届く。

 如月さんは素手の指先で竜頭をつまみ、日本時間から、ベルグラヴィアの現地時間へと、針を静かに、しかし確実に巻き戻した。


「時差…ですか?」


「時差の調整だけではない。……わしの思考の歯車を、かの国の古い空気に調律するのじゃ」


 カチリ。

 蓋が閉まる音が、これからの非日常を告げるスタートの合図のように、機内の静寂の中に鋭く響き渡った。


 遠雷のようなエンジンの逆噴射音が機体を包み込み、僕たちを乗せた鉄の鳥は、ついに未知なるルーツが眠る地、ベルグラヴィアへと降り立ったのだ。



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