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第9巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(上)  作者: アリス・リゼル


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4/20

プロローグ:『選別』 ~section4:スマートシティの喧騒と、翡翠からの言伝~

 放課後の旧校舎を出て、如月学園高等部の広大な敷地を正門へと向かって歩く僕の腕の中には、ずっしりとした物理的な質量を持つ革張りのバインダーが抱えられていた。


「サクタロウ。それは我が如月家の使用人たちが編纂(へんさん)した、ベルグラヴィアの歴史と、滞在先である『静寂の館』の建築様式、および流通したアンティーク調度品に関する独自調査の資料じゃ。明日の出国前までに、その愚鈍な頭にしっかりと叩き込んでおくのじゃぞ」


 僕の斜め前を、純白の手袋をはめた手を優雅に揺らしながら歩く如月さんが、振り返りもせずに言い放った。


「……はいはい。機内で読ませていただきますよ」


「機内は気圧の変化で五感が鈍る。地上にいる今のうちに、紙の繊維に染み込んだインクの匂いと共に記憶を定着させるのが最も合理的じゃ。データなどの薄っぺらい電子信号では、モノのルーツを辿るための土台にはならぬからな」


 僕の腕に沈み込むこのバインダーには、コンツェルンの優秀な情報網が収集した膨大な資料が、あえて『紙』という物理的な媒体でファイリングされている。スマートタブレットにデータとして送信すれば重さはゼロになるというのに、如月さんはこうした情報のインプットにおいて、徹底してアナログな物理媒体を好む。文字のフォント、紙の質感、インクの乗り具合。そうした物質的な情報すらも、彼女にとっては世界を読み解くための重要なファクターなのだ。


 僕たちが歩く如月学園のキャンパス、そしてこの月見坂市は、街全体が高度なネットワークで管理された最先端のスマートシティである。

 生徒たちが正門を通過すれば、生体認証ゲートが瞬時に個人を特定し、歩く速度を一切緩めることなくシームレスに開閉する。頭上を環境データを収集する小型の監視ドローンが羽音一つ立てずに滑空し、車道を走る学園専用の送迎バスは、排気ガスを出さない完全自動運転の電気自動車(EV)だ。この街には、無駄なノイズや予期せぬエラーというものが極限まで排除されている。


 僕の腕の中にある分厚い紙の資料は、この徹底的にデジタル化され、情報が質量を持たないデータとして飛び交う月見坂市の空間において、あまりにも異質で、圧倒的な存在感を放っていた。


「……重い」


 僕は小さくため息をつきながら、バインダーを抱え直した。

 数日前、清瀬先生から突然の選抜を言い渡された直後は、確かにパニックに陥った。人生初の海外渡航というプレッシャー。そして何より、佐伯陽菜や鳴海亜衣といった、僕の女性耐性を無自覚にゴリゴリと削ってくる他クラスの女子生徒たちと、一週間も寝食を共にするという拷問のような環境。僕の精神は崩壊寸前まで追い詰められ、推しの地下アイドルである『魚魚ラブ』の箱崎彩華ちゃんのアクリルスタンドにすがりつくしかなかった。


 だが、冷静になって考えてみれば、どうだろうか。

 僕は入学式の日から今日に至るまで、この前を歩く漆黒の髪の令嬢の『助手』として、数々の異常な事態に巻き込まれてきた。ありえない場所に置かれたありえないモノのルーツを探る過程で、凄惨な現場を目にすることもあったし、人間の底知れぬ悪意や、悲しい嘘の果てにある情動に直面することもあった。如月さんの『情動の視座』と『物理的観察眼』による容赦のない真実の解明を、僕は常に一番近くで見届けてきたのだ。


 そんな僕が、如月さんと一緒に海を渡るのだ。

 エリートの桐生院やデータ至上主義の五味、そして女子生徒たちとの共同生活による胃痛など、所詮は些末な問題に過ぎない。僕のこれまでの経験と、ベテラン下僕としての生存本能が、静かに、しかし確信を持って告げていた。


(……まあ、如月さんと一緒にいる限り、ただの平和な研修旅行で終わるわけがないよな)


 そう、諦めと覚悟である。

 これから僕たちが向かうベルグラヴィアのマナーハウス『静寂の館』は、この月見坂市のようなスマートインフラとは対極にある、歴史と伝統に縛られた古い洋館だと聞いている。ネットワークが不安定で、自動制御の空調も、顔認証のドアロックもない。そんな閉鎖的でアナログな空間に、如月コンツェルンの令嬢が足を踏み入れる。事件の匂いしかしないではないか。

 僕はすでに、ただ怯えるだけの素人ではない。いざという時は、如月さんの手足となって物理的な作業をこなし、彼女の冷徹な推理の傍らで常識人としてのツッコミを入れる準備ができている。僕の心は、すでに『その時』に向けてのアイドリング状態に入っていた。


 学園の壮麗な正門が見えてきた。

 生体認証ゲートを抜けた先の専用ロータリーには、整然と並ぶ無個性な自動運転の車列の中で、圧倒的な威圧感を放つ一台の車が停まっているのが見えた。

 深い漆黒の塗装が、傾きかけた夕日をすべて吸い込んでいるかのような、最高級のリムジン――マイバッハだ。如月家が所有する数々の車両の中でも、要人警護や特別な送迎の際にのみ使用される特注の装甲車両である。


 そして、その後部座席のドアの横に、微動だにせず直立している巨漢の姿があった。

 如月コンツェルンの専属ボディーガードであり、幾度となく僕たちを物理的な危機から救ってくれた男、黒田さんだ。仕立ての良い漆黒のスーツの下に鋼のような筋肉を隠し、鋭い鷹のような目つきで周囲を警戒している。僕と如月さんの姿を認めた黒田さんは、無言のまま深く一礼し、一切の摩擦音を立てずに後部座席の重厚なドアを開けた。


「ご苦労じゃ、黒田」


 如月さんは歩みを止めることなく、そのままマイバッハへと向かう。


 僕も如月さんを見送り、そのまま自分の帰路につこうとした、その時だった。


「あら。ギリギリで捕まえられたわね」


 学園の敷地内、守衛室の死角からふらりと姿を現した人物がいた。

 学校主任の清瀬瑞希である。仕立ての良いスーツをスマートに着こなし、理知的な眼鏡の奥の瞳が、僕たちを捉えて細められた。今日は学内での業務を終えた後なのか、いつもよりも少しだけ柔らかな雰囲気を纏っているように見えるが、その奥にある隙のなさは健在だ。


「清瀬主任。わざわざ正門までわしの見送りか? 明日の朝、高宮国際空港で嫌でも顔を合わせるというのに、ご苦労なことじゃ」


 如月さんは車のドアの前で立ち止まり、静かに応じた。


「もちろん、如月学園を代表するあなたたちが出発するのだから、事前のご機嫌伺いくらいはしておくべきかと思ってね。それに……」


 清瀬先生はふふっと上品に笑い、それから視線を、重いバインダーを抱えている僕へと移した。


「あなたのお姉様から、助手くんに直々に伝言を預かっているのよ」


 その瞬間、僕の背筋にゾクリと悪寒が走った。

 如月翡翠。如月コンツェルンの経理・会計を一手に担い、莫大な資金の流れを完璧に支配する、瑠璃さんとはまた違ったベクトルで恐るべき天才。僕にとっては、気まぐれにちょっかいを出してきては心臓を縮み上がらせる、美しくも、そして底知れず恐ろしい存在である。


 清瀬先生は一歩僕に近づき、その理知的な笑顔を崩さないまま、しかし周囲の空気を凍りつかせるような凄まじい『圧』を放ちながら、囁くように言った。


「『うちの可愛い妹に異国の地で万が一のことがあったら、どうなるか。光太郎くんも、わかっているわね?』……とのことよ」


 ヒュッ、と僕の喉から短い音が漏れた。

 それは脅迫ではない。事実の確認だ。もし如月さんに何かあれば、僕の存在などコンツェルンの力で社会的に――あるいは物理的に――跡形もなく消し飛ぶという、絶対的な真理の提示である。

 数ヶ月前の僕であれば、ここで「ひぃっ」と悲鳴を上げてその場に崩れ落ち、パスポートを破り捨てて逃走を図っていただろう。


 しかし、僕はすでに数多の修羅場を潜り抜けてきた男だ。

 僕は抱えていたバインダーを左脇にしっかりと挟み込み、空いた右手で制服のズボンのポケットに突っ込んだ。


「……肝に銘じておきます。翡翠さんには、くれぐれもご安心をとお伝えください」


 僕は極めて乾いた声でそう返すと、ポケットから銀色のシートを取り出した。市販の、よく効く胃薬である。僕はそれを親指で押し出し、水も飲まずにそのまま口に放り込み、ゴクリと飲み込んだ。もはや如月家の理不尽な重圧からくる胃痛など、僕にとっては日常のスパイスのようなものだ。いちいち動揺してエネルギーを消費している暇はない。


 僕のその手慣れた動作を見た清瀬先生は、一瞬だけ驚いたように目を丸くした後、クスクスと肩を揺らして笑った。


「ふふっ、本当に面白いわね、あなた。さすがは翡翠が目をかけるだけはあるわ。それじゃあ二人とも、明日の朝、遅れないようにね」


 清瀬先生はヒールを鳴らして踵を返し、スマートシティの夕暮れが差し込む学園の敷地内へと歩き去っていった。


 僕の胃の中で、ようやく薬が溶け出し始めた頃。

 正門の周囲には、生体認証ゲートの無機質な電子音や、EVバスの接近を知らせる人工的なメロディ、そして監視ドローンの微かな駆動音が絶え間なく飛び交っていた。ここは完璧に制御された、情報とノイズの海だ。


 ふと、車のシートに乗り込もうとしていた如月さんが、動きを止めた。

 彼女は制服のポケットから、銀色の美しい懐中時計を取り出した。


 カチッ、と。

 金属の蓋が開く音が、周囲のデジタルな喧騒を切り裂いて、僕の耳に届いた。


 チク、タク、チク、タク。


 正確無比な秒針の音が響く。

 それは、パニックを起こした人間を落ち着かせるための音ではない。僕はこの時、完全に冷静だったからだ。

 如月さんは、この最先端のデジタル都市のノイズを遮断し、自分と僕の意識を、これから向かうベルグラヴィアの『古いルーツ』へと強制的に向けるために、あえてこのアナログな音を空間に響かせたのだ。

 情報という見えないデータではなく、幾つもの歯車が物理的に噛み合い、ゼンマイが解けることで時を刻む、確かな質感を伴った『機械』の音。その音が、僕たちの立ち位置を明確に切り替えていく。


「お主も随分と、打たれ強くなったものじゃ」


 懐中時計の文字盤を見つめたまま、如月さんが静かに言った。

 彼女は僕の胃痛に同情しているわけではない。他者の感情に寄り添うことのない彼女は、ただ僕の『慣れ』と『覚悟』という情動を読み取り、一つの事実として評価しただけだ。


「案ずるな、サクタロウ。異国の地であろうと、古い洋館であろうと、そこにどんな悪意が隠されていようと。……わしが暴くのは、いつだってそこに残された事実だけじゃ」


 チク、タク、チク、タク。

 秒針の音が、夕闇の迫るロータリーに静かに溶けていく。

 それは、これから始まる非日常に対する、主からの絶対的な宣言だった。異空間も、魔法も存在しない。すべては物理的な事実と、情動の痕跡によってのみ証明される。それが彼女のルールだ。


「はい、如月さん。明日の朝、高宮(こうみや)国際空港で」


 僕が短く返事をすると、如月さんは満足そうに一つ頷き、カチリと蓋を閉じてマイバッハの後部座席に滑り込んだ。

 黒田さんが無言でドアを閉める。重厚な密閉音が響き、外のノイズを完全に遮断したその漆黒の車体は、音もなく自動運転の車列の中へと合流し、あっという間に見えなくなった。


 残された僕は、手元のスマートフォンを取り出した。

 画面の右上には、月見坂市の完璧なインフラによる通信アンテナのマークが、一本の欠けもなく立っている。


「この平和な電波とも、一週間お別れか」


 僕は小さく呟き、画面をオフにしてポケットにしまった。

 左脇に抱えた資料の重みが、現実の質量として僕の身体にのしかかる。明日から向かうのは、ネットワークが不安定な古い洋館。そこには、僕の理解を超えた異国の不純物と、得体の知れない事件が間違いなく待ち受けている。

 僕はもう一度深く息を吐き出すと、来るべき非日常に向けて、スマートシティの冷たい風の中を一人、静かに歩き出した。



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