プロローグ:『選別』 ~section3:下僕の戸籍謄本と、令嬢のトラベルドレス~
月見坂市の市役所、市民課の待合スペース。
天井から降り注ぐ無機質な蛍光灯の光が、ひどく目に痛かった。僕は硬いプラスチック製のベンチに深く腰掛け、手元の整理券と、壁に掲示された『現在の呼び出し番号』を示す電光掲示板を、もはや何度目かわからない虚ろな視線で見上げていた。
「302番の方、3番窓口へお越しください」
合成音声のアナウンスが響く。僕の手元の番号札は345番。絶望的な数字だった。
僕たち如月学園の生徒が暮らすこの月見坂市は、ネットワークを介した情報収集や環境操作が可能な最先端のスマートシティである。大抵の行政手続きは端末一つで完結するはずなのだが、こと『人生初のパスポート取得』に向けた戸籍謄本の取り寄せや、それに付随する厳密な本人確認のプロセスにおいては、未だにこうしたアナログで泥臭い物理的拘束を強いられる部分が残っていた。
特別海外研修の通達から数日。僕は放課後の貴重な時間を削り、パスポート取得という名の果てしない苦行に身を投じていた。
まず、自分の本籍地がどこにあるのかを親に確認するところから始まり、必要書類のリストを睨みつけ、証明写真を撮るために駅前のボックスに駆け込んだ。限られた時間の中で、ただでさえ女性耐性ゼロの僕が、佐伯や鳴海といった同学年の女子生徒たちと一週間も寝食を共にするというプレッシャーに押し潰されそうになっているのだ。カメラのレンズに向かって自然な表情を作れなどという要求に応えられるはずがない。
結果としてプリントアウトされた写真は、極度に緊張して顔の筋肉が強張った、まるでこれから重罪を犯しに行くかのような一枚だった。
周囲のベンチには、旅行の計画を弾ませる学生のグループや、穏やかな表情の老夫婦が座っている。彼らの目には、海外という未知の世界への期待と希望が満ち溢れていた。しかし、僕の心の中にあるのは、ひたすらな恐怖と逃避願望だけだ。
そもそも、僕のような特技もない一般生徒が、桐生院のようなエリートや、如月コンツェルンの令嬢である如月さんと一緒にベルグラヴィアなどという歴史ある国へ行くこと自体が間違っている。僕はただ、旧校舎の図書室で如月さんが淹れろと命じた紅茶を作り、彼女が様々なモノのルーツを探るのを傍で眺め、帰宅して推しの地下アイドルの配信を見るだけの、平穏な下僕ライフを送れればそれでよかったのだ。
ようやく戸籍謄本を手に入れ、次に向かったのは県の旅券事務所だった。そこでもまた終わりの見えない順番待ちの列に並び、分厚い申請書に何度も同じような住所や氏名を書き込み、担当の職員からローマ字のブロック体の書き損じを指摘されては訂正印を押すという作業を繰り返した。
すべての手続きを終え、ようやく引換書を受け取ってパスポートセンターを出た頃には、すでに外は真っ暗になっていた。心身ともに疲労困憊し、足取りは鉛のように重い。僕のライフはもう完全にゼロだった。
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数日後、自宅の自室。
無事に交付された真新しい紺色の五年用パスポートを机の上に放り出し、僕はフローリングの床に広げたキャリーケースと睨み合っていた。
出発は明後日に迫っている。一週間の海外滞在に向けた荷造りという難題が、僕の前に立ちはだかっていた。
ベルグラヴィアは西欧の国であり、今の季節は日本よりも気温が低く、霧が多いと聞いている。とはいえ、衣類を詰め込みすぎれば移動の際に地獄を見るのは明らかだ。僕は必要最低限の着替えと洗面用具を無心でキャリーケースの片側に詰め込み、ジッパーを乱暴に閉めた。衣類なんて着られればそれでいい。
問題は、もう半分のスペースだ。
僕にとっての海外研修とは、教養を深める場でも異文化交流の場でもない。四方八方をハイスペックな同級生と、僕の精神を無自覚に削り取ってくる女子生徒たちに囲まれた、一週間に及ぶサバイバルなのだ。
精神崩壊を防ぐためには、完全なる防衛設備が必要不可欠だった。
僕は机の引き出しから、命綱とも言えるガジェット類を次々と取り出し、ベッドの上に並べていった。
まずは最新型のノイズキャンセリング・ヘッドホン。周囲の雑音、特に佐伯の天然な問いかけや鳴海の遠慮のないツッコミを物理的に遮断するための最強の盾である。次に、海外対応の変換プラグと変圧器のセット。そして、大容量のモバイルバッテリーを二つ。
「っと、危ない危ない。モバイルバッテリーはキャリーケースに入れちゃ駄目なんだった」
僕はモバイルバッテリーを手に取ったまま、慌てて手を止めた。
僕は五味のようなシステム構造やアルゴリズムを理解している専門的なハッカーではないが、新しいデジタル機器や便利なガジェットを集めて使うのが好きな、ごく一般的な現代の高校生だ。だからこそ、航空機搭乗における最低限のルールは知っている。リチウムイオン電池を内蔵したモバイルバッテリーは、発火の危険性があるため預け入れ荷物に入れることは航空法で固く禁じられているのだ。
容量も規定の範囲内であることを背面の小さな印字で確認し、僕はそれらを機内持ち込み用のリュックサックのポケットへと慎重に移し替えた。異国の地でスマートフォンや音楽プレーヤーの充電が切れることは、外界との接続を絶たれるのと同義であり、即座に死を意味する。
そして、最後に残った最も重要なアイテム。
僕はそれを、まるで国宝でも扱うかのような手付きでそっと持ち上げた。
「……彩華ちゃん。どうか一週間、僕をお守りください」
手の中にあるのは、僕の推しである地下アイドル『魚魚ラブ』の絶対的センター、箱崎彩華のアクリルスタンドだった。
鱗を模したスパンコールの衣装に身を包み、弾けるようなウインクをしている彼女の姿は、僕の精神の根幹を支える究極の聖域である。現実の女性に対しては致命的なまでに免疫がなく、少し距離を詰められただけでフリーズしてしまう僕だが、このアクリルスタンドの向こう側にいる『概念としてのアイドル』に対しては、どれほどの熱量でも向き合うことができる。
見知らぬ異国の地、歴史ある洋館。そんな圧倒的なアウェー空間において、僕が正気を保つためには、彩華ちゃんの笑顔が絶対に必要だった。キャリーケースの中で傷がつかないよう、僕はアクリルスタンドを何重にも柔らかいタオルで包み込み、さらにクッション性のある衣服の間に慎重に潜り込ませた。
よし、これで最低限の防御力は確保できたはずだ。
僕はキャリーケースの蓋を閉じ、ロックをかけた。準備は整った。あとはあの飛行機の強烈な重力に耐え、ベルグラヴィアの『静寂の館』の隅っこで、ひたすら息を潜めて一週間をやり過ごすだけだ。
僕は大きく深呼吸をし、ベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。天井の木目をぼんやりと見つめながら、どうかこの一週間、何も起こらないでくれと無意味な祈りを捧げた。
一方、同じ頃。
月見坂市の一等地に広大な敷地を構える如月家の本邸。
その一角にある、静謐という言葉をそのまま形にしたような広大な自室で、如月瑠璃はそっと瞳を閉じていた。
彼女の周囲には、サクタロウが市役所で経験したような泥臭い疲労感や、荷造りに対する焦燥感といったものは微塵も存在しない。
アンティークのマホガニー材で作られた重厚なデスクの上には、学園から配布された分厚い研修のしおりと航空券の控えが置かれている。さらにその横には、真紅の表紙を持つ十年用のパスポートと、如月コンツェルンの情報網が独自に調査してまとめたベルグラヴィアの歴史的資料のファイルが、一切の隙なく整然と並べられていた。
瑠璃はそれらの書類を手に取ることもなく、ただそこにある物理的な事実として視界の端に留めているだけだった。己の恵まれた環境や、如月家という巨大な権力に対して、彼女は俗っぽい優越感を抱くことはない。富も権力も、彼女にとってはただ己の目的を阻害するノイズを排除するための、実用的なツールに過ぎなかった。
部屋の中央に置かれた豪奢なベッドの上には、明日からのベルグラヴィア滞在に向けた彼女の衣装が並べられている。
すでに傍らにある大型の革製トランクの中には、使用人たちの手によって、洋館でのディナーの際に着用するシックなイブニングドレスや、日中の館内探索に向けた動きやすくも気品のあるウールのワンピース数着、そして質の良いシルクのナイトウェアが美しくパッキングされていた。
そしてベッドの上に広げられているのは、明日の長時間のフライトと異国への降り立ちに備えた、気品と実用性を極限まで高めたトラベルドレスとコートである。
彼女にとって衣服とは、己の権力を誇示する装飾品ではなく、未知なるルーツの探索という目的を遂行するための物理的かつ機能的な装備に過ぎない。
ドレスは、深い夜空を思わせるミッドナイトブルーの上質なシルクとウールの混紡素材で仕立てられていた。一見すると装飾を抑えたシンプルなAラインのシルエットだが、動くたびに布地が波打ち、その織りの細やかさと重厚な光沢が、只者ではない気品を放っている。首元は控えめなスタンドカラーで、繊細な黒のフランス産アンティークレースが縁取られており、冷たい外気を防ぐと同時に、彼女の透き通るような白い肌を際立たせるよう計算されていた。袖口は手首にぴったりと沿うデザインで、いかなる鑑定作業の際にも邪魔にならないよう物理的な機能性が優先されている。
その上に羽織るためのコートは、チャコールグレーの厚手なギャバジン生地を使用したテーラードカラーのトラベルコートである。一見すると紳士物のような硬質なシルエットを持つが、ウエスト部分には計算し尽くされたダーツが入っており、彼女の細身の体を美しく包み込む。風雨に耐えうる高密度の織りでありながら驚くほど軽く、長時間の移動でも疲労を感じさせない。
特筆すべきは、その内側に隠された機能美である。コートの裏地にはなめらかな深いボルドーのキュプラが張られており、左右には銀のルーペや手帳を瞬時に取り出せるよう、外からは縫い目が一切見えない隠しポケットが複数配置されていた。ボタンはすべて本物の黒水牛の角から削り出されたものであり、一つ一つに微細な紋様が刻まれている。
足元に用意されたのは、装飾を排した漆黒のレザーアンクルブーツ。良質な仔牛の革を使用し、職人の手によって彼女の足の形に完全にフィットするよう木型から作られた特注品だ。石畳の多いヨーロッパの街並みを歩き回っても、決して足音を乱さず、疲労を蓄積させないための完璧な構造を持っていた。
瑠璃は、ベッドの上に並べられた衣装の繊維の並びを物理的観察眼で一瞥し、その機能性に一切の瑕疵がないことを確認すると、視線をその横に置かれた革製のトランクへと移した。
着替えの衣服よりも瑠璃にとって重要なのは、彼女がモノのルーツと対話するための必需品たちである。
スペアを含めた数十組の純白の綿手袋。
対象の微細な傷や歪み、繊維の編み込みを捉えるための銀のルーペ。
薬品や微細な粉末の成分を確認するための小さな銀の匙。
一切の引っ掛かりなくインクを吐出する、ペン先が完璧に調整された万年筆。
そして、瑠璃は自身の制服のポケットから、一つの古い手帳を取り出した。
いや、それは手帳というよりも、小さな革表紙の辞書のようだった。表紙の革は長年の使用によって飴色に変色し、角はすり減って丸みを帯びている。ページを閉じるための真鍮の留め具には、緑青が微かに浮き出ていた。
それは、彼女の師匠である山内かえでから譲り受けた、異国の古い文字や紋章学、そして忘れ去られた流通経路の暗号を解き明かすためのルーツの結晶とも言える品だった。
瑠璃は純白の手袋をはめた指先で、その飴色の革表紙をゆっくりと撫でた。古い革特有の微かな獣の匂いと、幾星霜の時間をかけて吸い込んできた古紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。この手帳には、旧市街で過ごした山内かえでという老婦人の、果てしない知識への探求心と、モノの歴史に対する揺るぎない敬意という情動が、確かな質量を持って刻み込まれている。
「ベルグラヴィア」
瑠璃はその国名を口にすると、手帳をコートの内ポケットに収まるようトランクの最も取り出しやすい位置に収め、金属製の留め具をカチリと音を立てて閉じた。
彼女の胸の中に、一般的な高校生が海外旅行に対して抱くような浮ついた興奮や期待という情動は一切ない。あるのはただ、ひたすらに純粋な、未知なる情報への飢餓感だけだった。
あの歴史ある洋館には、どのような思惑で運ばれ、どのような悲劇を吸い込み、どのような嘘に塗り固められた遺物たちが眠っているのだろうか。日本の空気とは異なる異国の不純物。それらが発する沈黙の声を読み解き、真実のルーツを証明すること。それこそが、彼女が海を渡る唯一の理由だった。
瑠璃は歩みを進め、部屋の巨大な窓の前に立った。
厚いベルベットのカーテンの隙間から、冷ややかな月光が差し込んでいる。
窓ガラスにそっと指先を触れる。外気と室内の温度差によって、ガラスの表面は微かに冷たさを帯びていた。その温度の伝導率から明日の朝の気温と大気の湿度を瞬時に算出しながら、瑠璃は視線を真っ暗な夜空の彼方へと向けた。
制服の胸元で、懐中時計の秒針がチク、タク、と正確なリズムを刻み続けている。
その音は、まるで彼女の心臓の鼓動と完全に同期しているかのようだった。
「未知なる過去が沈む国…」
誰に聞かせるわけでもないその呟きは、窓ガラスに当たって虚しく消えた。
海の向こう、深い森と霧に閉ざされた『静寂の館』で、悪意に満ちた物理的トリックと、血塗られた銀のおたまが自分たちを待ち受けていることなど、この時の彼女はまだ知らない。
ただ静かに、彼女の思考の秒針は、未だ見ぬ異国のルーツへと向けて冷徹な調律を続けていた。




