プロローグ:『選別』 ~section2:見えない鎖と不協和音のオリエンテーション~
数日後の放課後。如月学園高等部の中央棟にある第三会議室の前で、僕は重い足を止めた。
旧校舎の埃っぽい廊下とは打って変わり、中央棟の廊下はチリ一つなく磨き上げられている。間接照明が柔らかく足元を照らし、壁には学園の長い歴史を示す絵画や、各種コンクールでの輝かしいトロフィーの数々が誇らしげに飾られていた。防音性の高い壁材が周囲の喧騒を吸い込み、ここがただの高等学校ではなく、選ばれた者たちだけが足を踏み入れることを許された特別な空間であることを無言のうちに主張している。
今日この会議室で行われるのは、来月に迫った『特別海外研修』に向けたオリエンテーションだ。清瀬主任から一方的に選抜を言い渡されて以来、僕の胃は常に鉛を飲み込んだような重さを抱えていた。逃げ出したい。今すぐ踵を返して、あの落ち着く旧校舎の図書室に引きこもりたい。しかし、僕の斜め前を歩く如月さんは、そんな僕の情動など一顧だにすることなく、堂々とした足取りで会議室の重厚なオーク材の扉の前に立っていた。
彼女は今日もいつものように、漆黒の美しい髪を揺らし、一切の皺がない純白の手袋を両手にはめている。制服の着こなしにはミリ単位の乱れもなく、その凛とした背中は、彼女が如月コンツェルンの令嬢であるという事実を抜きにしても、周囲を圧倒する気品に満ちていた。
「何を怯えておる、サクタロウ。愚鈍な顔をして突っ立っている暇があるなら、さっさと扉を開けるのじゃ」
振り返りもせず、如月さんは静かな声でそう告げた。その声に命令の色はない。ただ、それが僕の役割であるという物理的な事実を提示しているだけだ。僕は「はい、如月さん」と力なく返事をし、真鍮製の冷たいドアノブに手をかけた。
扉が開くと同時に、中から押し寄せてきたのは、圧倒的な『アウェー感』だった。
長方形の巨大なマホガニーの会議机。その周囲には、すでに他クラスから選抜された四名の生徒たちが席に着いていた。誰もが如月学園の制服を完璧に着こなし、その顔には『自分がここに選ばれたのは当然だ』という自信と余裕が満ち溢れている。ごく一般的な家庭で育ち、趣味といえばパソコンとゲーム、そして地下アイドルの応援くらいしかない僕にとって、ここは息をするのすら苦しい空間だった。
「――如月さん。今回の研修でご一緒できること、大変光栄に思います」
僕たちが会議室に足を踏み入れるなり、真っ先に立ち上がって声をかけてきたのは、1年2組の桐生院誠だった。
文武両道を地で行くような、容姿端麗な男子生徒である。如月コンツェルンとも深い取引のある企業の御曹司であり、次世代の社交界を担うエリート中のエリートだ。綺麗にセットされた髪、仕立ての良い制服の上からでもわかる均整の取れた体躯。彼はまるで映画のワンシーンのように優雅な動作で如月さんに向かって一礼した。
如月さんは歩みを止めることなく、桐生院の向かいの席へと優雅に腰を下ろした。
「桐生院か。わしは己の目的のために海を渡るのみじゃ。お主はお主の役割を全うするがよい」
「ええ、もちろん。如月家の名に泥を塗らぬよう、微力ながらサポートさせていただきます」
桐生院の笑顔には一片の曇りもない。彼はおそらく、如月さんを『対等な家柄の人間』として完全に認識しているのだろう。そして、その流麗な視線が、如月さんの斜め後ろで縮こまっている僕へと向けられた。
「ああ。君は、如月さんの荷物持ちだね。いつもご苦労様」
桐生院は爽やかに、一切の悪意を感じさせない口調でそう言った。
悪意がないからこそタチが悪いのだ。彼の世界において、僕のような一般生徒は『背景』か『便利な道具』程度にしか認識されていない。僕は反論する気力すら湧かず、ただ引きつった愛想笑いを浮かべて小さく会釈をした。荷物持ち。下僕。なんとでも呼ぶがいい。僕はこの一週間、空気と同化して生き延びるつもりなのだから。
僕が如月さんの隣の席にこっそりと座ろうとしたその時、机の斜め向かいから、不快な舌打ちのような音が聞こえた。
「……非科学的ですね。理解に苦しむ」
独り言のように呟いたのは、1年3組の五味鉄平だった。
科学部に所属する彼は、分厚いレンズの眼鏡を指で押し上げながら、手元の最新型タブレット端末を高速で叩いていた。画面には複雑なデータや数式が目まぐるしく表示されている。彼は僕の方を一瞥することもなく、その冷笑を含んだ視線を如月さんへと向けていた。
「モノに宿る想いだの、情動の視座だの。そんな主観的で曖昧な感覚を重用するなど、スマートシティ月見坂の理念から大きく外れている。人間の主観的な感覚など、エラーの温床に過ぎません。すべてはデータが証明する。我々が学ぶべきは、より精緻なアルゴリズムと統計学のはずです」
五味の言葉は、如月さんのスタンスに対する明確な敵視だった。月見坂市は、ネットワークを介した情報収集や環境操作が可能な最先端のスマートシティである。データを信奉する彼にとって、如月さんのように『歴史』や『情動』といった数値化できない概念でモノのルーツを解き明かそうとする姿勢は、オカルトか何かにしか見えないのだろう。
だが、当の如月さんは五味の挑発など全く意に介していなかった。
彼女は純白の手袋をはめた指先で、会議机の表面をゆっくりとなぞっている。
「……この机。表面のコーティングで誤魔化しておるが、木目の間隔が異常に詰まっておるな。極寒の地で長い年月をかけて育ったオーク材じゃ。しかし、伐採後の乾燥工程において急激な温度変化を与えられた痕跡がある。細胞壁の微細な歪み……おそらく、三代前の持ち主が暖炉の近くにこの机を長期間放置したことによるものじゃな。木材が発する沈黙の悲鳴が聞こえるようじゃ」
如月さんは完全に自分の世界に入り込み、机のルーツを物理的観察眼と情動の視座で淡々と読み解いていた。五味の『非科学的』という批判など、彼女の耳には物理的な音声データとしてすら認識されていないかのようだった。
「……ッ、人の話を聞いていないのか!」
完全に無視された五味は、イラ立ちを隠すことなくタブレットの画面を乱暴にスワイプした。僕はその光景を見ながら、この研修が間違いなく地獄のような人間関係の摩擦を生むことを確信し、深く、深くため息をついた。
しかし、僕にとっての本当の試練は、エリートの嫌味やデータ至上主義者の冷笑などではなかった。
「あ、ねえねえ、朔くん」
ふわり、と。
甘く、そしてどこか高級なフローラルの香りが僕の鼻腔をくすぐった。
「ヒッ……!?」
僕の喉から、カエルのような奇妙な音が漏れる。
いつの間にか、僕のすぐ隣に1年2組の佐伯陽菜が立っていたのだ。彼女は桐生院を慕うおっとりとしたお嬢様で、学園のアイドル的存在である。ゆるく巻かれた髪、透き通るような白い肌、そして、悪意の欠片もない純粋な瞳。彼女は僕のパーソナルスペースなど全く気にする様子もなく、物理的な距離を限界まで詰めてきていた。
「朔くんが鞄につけてるそのガジェット、すごくかっこいいね。どうやって使うの? 音楽プレーヤー? それとも何か特別な通信機器?」
佐伯は僕の鞄にぶら下がっていた最新型のデジタルオーディオプレーヤーを指差し、小首を傾げた。その顔が、僕の顔からわずか数十センチの距離にある。彼女の吐息が僕の頬を撫でる錯覚すら覚えた。
警告。警告。脳内の緊急アラートがけたたましく鳴り響く。
僕は同世代の女性に対する耐性が完全にゼロなのだ。身体的な接触はもちろんのこと、こうして至近距離で会話をされるだけで、脳の処理能力が限界を超え、思考が完全に停止してしまう。
「あ、あ、あの、これは、その……ただの、プレーヤーで……」
僕の口からは、意味をなさない単語の羅列がこぼれ落ちる。視線は泳ぎまくり、全身から冷や汗が噴き出していた。僕の視界の端で、桐生院が「陽菜、彼を困らせてはいけないよ」と優しく窘めているのが見えたが、佐伯の天然な距離感はそう簡単に修正されるものではなかった。
「えー、でもすごく複雑なボタンがついてるよ? 朔くんってパソコンとか機械に詳しいんだよね。すごいなぁ、私そういうの全然わからなくて。ねえ、今度使い方教えてくれない?」
さらに距離を詰めてくる佐伯。彼女の肩が僕の腕に触れそうになる。
臨界点突破。僕の精神のタガが外れかけたその時、逆方向から別の声が飛んできた。
「ちょっと佐伯さん、あんまり朔をいじらないであげてよ。完全にフリーズしてるじゃない」
バン、と僕の背中を遠慮なく叩いたのは、1年3組の鳴海亜衣だった。
陸上部に所属する彼女は、日焼けした健康的な肌とショートカットが似合う活発な美女だ。彼女は僕の反対側の隣にドカリと座り込み、ズケズケと踏み込んでくるような視線を向けてきた。
「で? 朔はなんで如月さんとずっと一緒にいるわけ? 入学式からずっと荷物持ちってマジ? ぶっちゃけ、あんな浮世離れしたお嬢様と一緒にいて疲れない? 私なら三日で胃に穴が開くわ」
鳴海は如月さん本人が目の前にいるにもかかわらず、全く声を潜めることなく堂々とそう言い放った。裏表がないといえば聞こえはいいが、デリカシーという概念が著しく欠如している。
右からは佐伯の天然な接近戦、左からは鳴海の遠慮のない物理的・精神的打撃。女性耐性ゼロの僕にとって、これはもはや挟み撃ちの十字砲火だった。
「ひ、ひぃ……す、すみません、僕はただの、ただの凡人なので……」
僕のライフは、すでにゼロを通り越してマイナスに突入していた。このままではベルグラヴィアに行く前に、この会議室でショック死してしまう。
僕は最後の防衛本能を働かせ、ぎゅっと目を閉じた。
現実からの逃避。
僕の精神を保つ唯一の手段。それは、脳内での完全なる映像再生だった。
『――みんなー! 今日も元気に泳いでるー!?』
『フィッシュ! フィッシュ! ラブリーフィッシュ!』
目を閉じた僕の脳内に、極彩色のレーザー照明と、耳をつんざくような重低音が響き渡る。
僕の推しである地下アイドル、『魚魚ラブ』のライブステージだ。鱗をモチーフにしたスパンコールの衣装に身を包んだ彼女たちが、ステージの上で弾けるように踊っている。客席を埋め尽くす色とりどりのサイリウムの光。地鳴りのようなファンのコール。
なぜ僕が、同世代の女性が極端に苦手であるにもかかわらず、魚魚ラブの彼女たちだけは平気なのか。それはおそらく、彼女たちが僕にとって物理的な接触を伴わない『偶像』であり、モニターの向こう側に存在する『概念』として処理されているからだ。現実の生々しい女性特有の気配や予測不可能な接近がない安全な世界。
僕は脳内で、両手に持った不可視のサイリウムを激しく振り回していた。
(オイ! オイ! オイ! オイ! そこのお前も! 限界超えてけー!)
現実世界で佐伯が「ねえ朔くん、聞いてる?」と声をかけてくるのも、鳴海が「こいつ立ったまま気絶してない?」と肩を揺さぶってくるのも、今の僕の脳内ではすべて、魚魚ラブのメンバーによる熱いMCとして変換されていた。
(そうだ、僕はファンだ! 荒波に揉まれる一匹の小魚だ! どんな苦難も、魚魚ラブへの愛があれば乗り越えられる!)
僕が脳内で激しいオタ芸を繰り広げ、なんとか精神の崩壊を食い止めていたその時。
会議室の扉が再び開き、軽快な足音が室内に入ってきた。
「やあみんな、待たせたね。揃っているかな?」
爽やかな、通り抜ける風のような声だった。
僕がハッと目を開けると、そこに立っていたのは、今回の海外研修の引率を務める1年の担当教員、明宮海翔先生だった。
二十代前半という若さと、俳優と見紛うほどの整った顔立ち。常に絶やさない爽やかな笑顔で、女子生徒からの人気が非常に高い新米教師だ。仕立ての良いスーツをラフに着こなし、手にはタブレットと数枚の資料を持っている。
彼が教室に入ってきた瞬間、佐伯や鳴海はもちろん、エリートである桐生院すらも姿勢を正した。明宮先生の持つ、不思議と人を惹きつける明るいオーラが、この重苦しい会議室の空気を一瞬にして浄化してくれたように感じた。僕は内心で深く安堵の息を吐き、脳内のサイリウムをそっと片付けた。
「では、さっそくオリエンテーションを始めようか」
明宮先生はホワイトボードの前に立ち、スマートフォンの操作で会議室の大型モニターを起動した。画面には、深い森に囲まれた古風で巨大な洋館の写真が映し出される。
「今回、君たちが向かうのは西欧の歴史ある国、ベルグラヴィアだ。そして滞在先は、この国でも有数の歴史を持つマナーハウス『静寂の館』。君たちにはここで一週間、現地の文化や歴史、そして言語に触れながら、最高の教養を身につけてもらう」
明宮先生の説明は、淀みがなく、かつ情熱的だった。
ベルグラヴィアの気候、現地のマナー、そして研修の具体的なスケジュール。彼は身振り手振りを交えながら、生徒たちの期待を煽るように語りかけた。五味ですら、その論理的な説明には静かに耳を傾けているようだった。
「この館は、かつて没落した貴族が所有していたものでね。広大な庭園、地下の巨大なワインセラー、そして何百年も前から受け継がれてきた調度品の数々が、当時のまま残されているんだ」
モニターの画像が切り替わり、館の内部の豪奢なシャンデリアや、重厚な暖炉、そして古びた鎧などの調度品が次々と映し出される。如月さんはモニターには目もくれず、手元の懐中時計の蓋をカチリと開け、チク、タク、という正確な秒針の音を小さく響かせていた。彼女の思考はすでに、その館に眠る不純物たちのルーツへと飛んでいるのだろう。
「特に、この館に残されている『古い調度品』たちは、ベルグラヴィアの血塗られた歴史と……」
明宮先生が、滑らかな口調でそう語り継ごうとした、その瞬間だった。
彼の声のトーンは、全く変わっていなかった。
口角の上がった爽やかな笑顔も、一ミリたりとも崩れていない。
だが、ほんの一瞬。瞬きをするよりも短い時間。
明宮先生の瞳――その眼球の奥底に、泥のように濁った、異常なほどの『執着』と『冷酷さ』が混ざった色が浮かび上がったのを、僕は確かに見た。
それは、教育者が生徒に向けるような温かい光ではなかった。
獲物を狙う肉食獣か、あるいは過去の深い因縁に囚われた亡者が、暗闇の中で執念深く獲物を睨みつけるような、底知れぬ暗い欲望の色だった。
ゾクリ、と。
背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒が走り、僕は思わず息を呑んだ。
見間違いだろうか。僕が瞬きをして再び明宮先生の顔を見たときには、彼はすでにいつもの爽やかな新米教師の顔に戻り、「素晴らしい歴史に触れる貴重な機会になるはずだ」と朗らかに締めくくっていた。
佐伯や鳴海、桐生院も五味も、誰も今の『一瞬の違和感』に気づいた様子はない。
ただ一人。僕の隣に座る如月さんだけが。
カチリ。
懐中時計の蓋を、静かに、しかし意味ありげなタイミングで閉じた。
如月さんは明宮先生の顔を直接見ることはなかった。しかし、その純白の手袋に包まれた指先が銀色の蓋をゆっくりと撫でる動作は、彼女の持つ『情動の視座』が、今の明宮先生の微かな、しかし決定的な内面の歪みを確かに捉えたことを示していた。
窓の外では、いつの間にか厚い雲が太陽を覆い隠し、会議室の中にうっすらとした影を落としていた。
僕の胃の重さは、海外旅行への不安や女子生徒への恐怖といったレベルを超え、これから向かう異国の洋館で『取り返しのつかない何かが起こる』という、明確な死の予感へと変わっていた。
見えない鎖は、すでに僕たちの足首にしっかりと巻き付いていたのだ。
ベルグラヴィアの、あの冷たい霧の底へと引きずり込むために。




