調略は剣より鋭い
オーデンヴァルトの自由市場に、招かれざる客が現れた。
深緑のドレスを纏った女が、商人たちの活況を一瞥しただけで足を止めた。関税なし、座銭なし、身分による制限なし。その目が値踏みするように市場を見渡す。
「――面白い仕掛けですね。誰の発案です?」
だが、それは数日後の話。
渓谷の勝利から二月。ノブナは地図と睨み合う日々を過ごしていた。
執務室の壁に貼られた大きな地図。オーデンヴァルト伯爵領を中心に、周辺の領地が色分けされている。ヘルムートが毎日のように書き加える情報が、地図の余白を埋め尽くしていた。
「ヘル。周辺領地の現状を整理してくれ」
「はい。まず東隣のグラーフェン辺境伯領。温厚な老伯爵が治めていますが、経済的にかなり苦しいようです。交易路がオーデンヴァルトに集中したことで、グラーフェンを通過する商人が減っています」
「それは、我々が楽市楽座を始めた影響か」
「正直に申し上げれば、はい。オーデンヴァルトの市場が魅力的すぎて、グラーフェン領を素通りする商人が増えました」
ノブナは地図を指でなぞった。グラーフェンは小さな領地だが、東方との交易路に接している。取り込めば、交易圏がさらに広がる。
「北隣は?」
「シュタインベルク男爵領。こちらは厄介です。軍事的に強く、堅固な城を持つ。ただし……」
「ただし?」
「男爵の評判が、すこぶる悪い。重税と恣意的な処罰で領民が疲弊しており、家臣の間にも不満がくすぶっていると」
「ほう」
ノブナの紅い瞳に、かすかな光が灯った。
「いずれも力攻めは下策だ。渓谷の戦いで我が軍の強さは示した。だが、戦のたびに兵を消耗するわけにはいかぬ。人は最も貴重な資源だからな」
「では、どうなさいますか」
「調略だ。剣で切るより、利で動かす。まずはグラーフェンから手をつける」
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その翌日、オーデンヴァルトの自由市場に、一台の豪華な馬車が到着した。
降り立ったのは、深緑のドレスに身を包んだ壮年の女性だった。豊かな褐色の髪を優雅に結い上げ、鋭い琥珀色の目で市場を見渡している。
商人ギルド長、ローザ・メルカトール。
大陸有数の交易商人であり、各国に張り巡らせた商人ネットワークは、時に国の諜報機関をも凌ぐ情報力を持つと噂される女傑。
「ほう。これが噂の自由市場ですか」
ローザは市場を一周し、値札と品揃え、客の流れを一瞥しただけで、この市場の仕組みを看破した。
「関所税の撤廃と市場利用税への転換。面白いことを考える方がいるものですね」
市場の端にある商談用の建物――ノブナが「商館」と名づけた場所で、二人は向かい合った。
ノブナは令嬢らしい微笑みで迎えたが、ローザは商人の目でそれを見透かしている。
「お初にお目にかかります、ギルド長殿。オーデンヴァルト伯爵家当主、ノブナ・オーデンヴァルトです」
「ローザ・メルカトールです。渓谷の戦いの噂は、大陸中に広まっておりますよ。八百で三千を破った令嬢、と」
「噂は尾ひれがつくものですわ。実際には地の利と兵たちの勇気に助けられただけのこと」
「ご謙遜を。――さて、本題に入りましょうか。わざわざ商人ギルド長を呼びつけたからには、商売の話がおありでしょう?」
遠回しな駆け引きを嫌う直截さ。ノブナは内心で「気に入った」と思いながら、地図を広げた。
「単刀直入に申します。オーデンヴァルトを大陸東部の交易拠点にしたい。そのために、ギルドの商権の三割をこちらに――」
「ノブナ様、口調が」
ヘルムートの小声が割り込んだ。ノブナは一瞬目を瞬かせ、咳払いをした。
「……失礼。ギルドのお力添えを賜りたく存じます」
ローザの目が一瞬鋭くなり、それからくすりと笑った。
「最初の一言の方が、商人には好まれますよ。――東部の交易拠点、ですか。大きく出ましたね」
「大きく出なければ、商人は振り向かないでしょう?」
「具体的には」
「まず、ギルドの商人たちにオーデンヴァルトの出店権と倉庫を無償で提供する。関税も座銭も一切取らない。その代わり、ギルドの交易路をこの一帯に集中させていただきたい」
ローザは一瞬だけ目を細め、それから静かに首を振った。
「甘いですね」
「何?」
「無償の出店権と倉庫。関税なし。それは恩恵ではなく、依存です。商人は施しを受けたいのではなく、儲けたいのです。あなたの条件では、商人は来ても定着しない。一時の利に群がり、もっと条件の良い場所が出れば去る」
ノブナは言葉を失った。前世の楽市楽座は、座の廃止と関税撤廃だけで商人が集まった。だがそれは、周辺の領主がすべて旧弊な座を強制していたからだ。この世界の商慣習は異なる。ギルドという組織が商人を束ね、単なる税の優遇では動かない。
「……なるほど。では、ギルド長殿ならどう組み立てる」
「商人が欲しいのは、保護と独占です。東方香辛料と鉱産物の集積地をここに作り、ギルド加盟の商人に優先取引権を与える。同時に、周辺領地との交易協定で関税を統一して下げる。出店は無償ではなく応分の市場利用税を取りなさい。そのほうが商人は安心する。無償は裏があると疑いますから」
ノブナは内心で舌を巻いた。この世界の商いの論理を、自分はまだ理解し切れていない。前世の成功体験をそのまま持ち込んだのは浅慮だった。
「……わかった。ならばそのように組み立て直す。それと、『周辺領地との交易協定』には、当然グラーフェン辺境伯領も含める」
「さすがですわね。飲み込みが早い」
ローザは腕を組んだ。
「グラーフェンは経済的に追い詰められている。あなたが救いの手を差し伸べれば、喜んで傘下に入るでしょう。武力を使わず、利で版図を広げる。……なるほど、あなたは商人の頭を持っていらっしゃる。荒削りですが」
「商人と武将は、根本は同じです。相手の欲するものを見極め、自分の利にも適う交渉をする。それだけのこと」
ローザはしばらくノブナを見つめていた。この若い令嬢の目の奥に、何十年もかけて商いを学んできた自分にも匹敵する、いやそれ以上の深い経験に裏打ちされた光がある。
「……面白い方だ。若い令嬢のふりをしていらっしゃるけれど、あなたの目は百戦錬磨の大商人のそれですよ」
「褒め言葉と受け取っておきましょう」
「褒めています。――いいでしょう。ギルドとして協力します。ただし、条件があります」
「承りましょう」
「私を顧問にしてください。あなたのそばで、この壮大な商売を見届けたい」
ノブナは一瞬だけ目を細め、それから手を差し出した。
「望むところです。ようこそ、ローザ殿」
「ローザで結構ですよ、ノブナ様」
二人の手が交わされた。商人と覇王の、利と信頼に基づく同盟の始まり。
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ローザの協力を得て、グラーフェン辺境伯領への工作は速やかに進んだ。
ノブナはヘルムートをグラーフェンへ交渉役として派遣した。
「ヘル。グラーフェン辺境伯に伝えよ。オーデンヴァルトとの経済同盟を結べば、関税の優遇と市場へのアクセスを保証する。さらに、鉱山から産出した鉄で農具を提供しよう。領民の暮らしが楽になる」
「しかし、それだけの支援をすれば、実質的にグラーフェンは我が領の傘下に入ることになりますが……」
「そうだ。だが、武力で従わせるのではない。利を与えて味方にする。相手が自ら望んで手を結ぶ形にせよ。それが最も長続きする」
ヘルムートは頷いた。渓谷の戦いで別働隊を率いた時と同じだ。ノブナは自分に任せてくれている。その信頼に応えなければ。
交渉は三日で決着した。
グラーフェン辺境伯――六十を超えた白髪の老人は、ヘルムートの提案を聞いて、ほとんど泣きそうな顔をした。
「本当に、これだけの条件を? 我が領は見返りに何を差し出せばよいのか……」
「見返りなど要りません。強いて言えば、この一帯が共に栄えること。それがノブナ様の望みです」
経済同盟の締結。実質的に、グラーフェン辺境伯領はオーデンヴァルトの経済圏に組み込まれた。武力による征服ではなく、利益の共有による統合。
ただし、ヘルムートは一つ気になることを報告した。
「グラーフェンの領民は、領主への税のほかに、聖エクレシア教国にも税を納めているようです。信仰上の慣習で、稼ぎの十分の一ほどを。あちらでは当たり前のことらしく、辺境伯も手をつけられないと」
「宗教税か。厄介だな。だが、今はまだ触れるな。グラーフェンとの関係を固めるのが先だ」
ノブナはそう言ったが、その紅い瞳は「いずれ」という光を宿していた。
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グラーフェンとの同盟が締結された夜。
ローザがノブナの執務室を訪れた。手には上等な茶葉と茶器を持っている。
「お祝いに、南方から取り寄せた茶をお持ちしました。商談の後には茶を嗜む。商人の作法です」
「茶か。……面白い。前の世でも、茶は大事にされておったな」
「前の世?」
「いえ。なんでもありません」
ローザが丁寧に茶を淹れた。湯の温度を指先で見極め、茶葉の量を量り、器を温めてから注ぐ。一連の所作に無駄がない。
「茶の良し悪しがわかる方は、人の良し悪しもわかるものです」
ノブナは茶碗を受け取りながら、内心でかすかに笑った。利休も同じようなことを言いそうだ。茶の湯で人を見極め、一碗の中に天下の機微を読む。この商人は、前世の茶人と同じ目を持っている。
二人は茶を啜りながら、地図を眺めた。
「ローザ。北のシュタインベルクについて、情報はあるか」
「ええ。かなり詳しく。商人は金のある所には出入りしますから」
ローザは茶碗を置き、声を低くした。
「シュタインベルク男爵、ディートリヒ。四十代、武勇に優れるが粗暴で猜疑心が強い。重税で領民から搾取し、逆らう家臣は容赦なく処罰する。最近、筆頭家臣との間に亀裂が走っているという噂があります」
「筆頭家臣?」
「エルヴィン・フォン・シュタインベルク。男爵の遠縁にあたる二十五歳の青年。知略に優れ、領内の実務を一手に引き受けている有能な人物。男爵の暴政に苦悩しているとか」
ノブナの目が光った。
「有能な人物が、主君に不満を持っている。――これは、使えるな」
「調略ですか」
「うむ。ただし、グラーフェンのように利で動かすだけでは足りぬ。シュタインベルクは軍事力がある。内側から崩さねばならぬ」
ノブナは地図の上のシュタインベルクに指を置いた。
「エルヴィンという男。会ってみたい。ローザ、密かに接触できるか」
「商人の出入りは自由ですからね。難しくはありません」
「頼む。それと――」
ノブナはふと、窓の外を見た。西の方角。ヴァルムントの方向。
「ヴォルフの動きも監視を続けよ。あの男は、このまま引き下がるような器ではない」
「承知しました」
ローザが去った後、ノブナは一人で地図を見つめ続けた。
グラーフェンを得て、東の交易路を押さえた。次は北のシュタインベルク。堅城と軍事力を手に入れれば、帝国東部における地盤は盤石になる。
だが、武力で攻め取れば被害が出る。それに、力で従わせた領地は、隙あらば離反する。信長はそれを知っている。
調略。内応。人の心を動かして、戦わずして勝つ。
それは、前の世で自分が最も得意としたことのひとつだった。
「さて。エルヴィンとやら、どんな男か見せてもらおうか」
ノブナの紅い瞳に、策略家の光が宿っていた。
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