天下布武、ここに始まる
アイゼン渓谷の勝利から一月。
オーデンヴァルト伯爵領は、一変していた。
かつて没落寸前だった辺境の領地は、今や大陸中の注目を集める存在になっていた。「わずか八百の兵でヴァルムント三千を撃破した辺境の令嬢」の噂は、商人たちの口を通じて大陸全土に広まった。
城下町は以前にも増して賑わっていた。噂を聞きつけた者たちが、次々とオーデンヴァルトを訪れる。
腕に覚えのある傭兵。新しい市場に商機を見出した商人。自由な研究環境を求める学者。そして――身分に関係なく能力を認めてもらえると聞いた、各地の才能ある若者たち。
「ノブナ様。今月だけで百八十名の移住申請がありました」
ヘルムートが執務室で帳簿を読み上げる。その声には、隠しきれない喜びが混じっていた。
「うむ。受け入れ態勢は」
「住居の建設が追いつきません。鉱山の拡張で人手が足りないくらいで……嬉しい悲鳴です」
「問題はある。人が増えれば、揉め事も増える。ヘル、法の整備を急げ。公正な裁きがなければ、人は定着せぬ」
「承知しました」
窓の外から、訓練場の掛け声が聞こえる。志願兵は千を超え、渓谷の戦いで経験を積んだ古参兵が新兵を鍛えている。フリードリヒの騎兵隊も増強され、オーデンヴァルト軍は領地の規模に見合わぬ精強さを誇っていた。
「ノブナ様」
「なんだ」
「帝都から使者が来ております。皇太子クラウス殿下が、直接視察にいらっしゃるとのことです。名目は『ヴァルムントの脅威に対する東部前線の視察』だそうですが」
ノブナは筆を止めた。
「……クラウスか。前線視察は口実だろう。あの男の本音は別にある」
婚約破棄から四月。あの時は見下していた令嬢が、辺境の英雄になっている。帝都では保守派が幅を利かせ、改革派の皇太子は味方を欲しているはずだ。
「通せ。いや――私が出迎えよう」
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三日後。
帝都から護衛の騎士団を連れたクラウス・フォン・ライゼンが、オーデンヴァルトの城門をくぐった。
金髪碧眼の皇太子は、馬上から城下町を見渡して、目を瞠った。
活気に満ちた市場。行き交う商人たち。整備された街路。建設中の新しい家屋。そして、規律正しく巡回する兵士たち。
これが、四月前まで没落寸前だった辺境領だと?
城の前庭で、ノブナが待っていた。
深紅のドレスに銀髪を結い上げた姿は、舞踏会の夜と変わらない。だが、その佇まいがまるで違った。あの時は婚約破棄される令嬢だった。今は、領地を治め、戦に勝ち、人を率いる領主だ。
「ようこそ、殿下。遠路お疲れ様でございます」
礼儀正しい令嬢の挨拶。だが紅い瞳の奥には、対等な者としての矜持が宿っている。
クラウスは馬を降り、ノブナの前に立った。
「……久しぶりだな、ノブナ」
「ええ。舞踏会以来ですわね」
沈黙。
クラウスが先に口を開いた。
「正直に言おう。私は君を見誤っていた」
「……」
「あの時の私には、君の価値がわからなかった。傲慢な令嬢としか見ていなかった。だが、今の君が成し遂げたことを見れば――」
「殿下」
ノブナが穏やかに、しかしきっぱりと遮った。
「見誤っていたのではありません。あの時の私は、まだ目覚めていなかっただけのこと。今さらお気になさる必要はございませんわ」
クラウスは苦笑した。
「相変わらず、掴みどころがないな」
城内の応接間に移り、二人は向かい合った。クラウスの護衛騎士は外に控え、ノブナの側にはヘルムートだけが同席している。
「本題に入ろう。ノブナ。帝国はオーデンヴァルトの帰順を求める。ヴァルムントの脅威が増す中、辺境の防衛を一領地に任せるわけにはいかない。帝国の直轄として、正規軍を駐留させたい」
要するに、お前の領地を帝国に差し出せ、という話だ。
ヘルムートが顔を強張らせる。だがノブナは、茶を一口啜ってから答えた。
「お断りいたします」
「……やはりか」
「ただし、対案がございます」
ノブナはテーブルの上に地図を広げた。
「同盟を結びましょう、殿下。帝国とオーデンヴァルトの対等な軍事同盟。オーデンヴァルトは帝国東部の盾となりヴァルムントの侵攻を食い止める。代わりに、帝国はオーデンヴァルトの自治権を認め、交易の便宜を図る」
「対等な同盟だと? 一伯爵領が帝国と対等など、前代未聞だ」
「前代未聞で結構。実力が対等でないことは承知しておりますわ。ですが、実績はお見せした通りです。三千を八百で退けた領地を、殿下は力で従わせるおつもりですか?」
クラウスは押し黙った。
これは脅しではない。事実の提示だ。オーデンヴァルトを力で従わせようとすれば、相応の出血を強いられる。しかもヴァルムントが再び侵攻してくる可能性がある中で、帝国が東部で内紛を起こす余裕はない。
「……なるほど。君は、こうなることを見越して動いていたのか」
「さあ。どうでしょう」
ノブナの微笑みは、何も答えなかった。
長い沈黙の後、クラウスが嘆息した。
「暫定的な同盟として、枢密院に諮ろう。正式な批准には時間がかかるが、私の権限で仮の盟約は結べる」
「感謝いたします、殿下」
「一つだけ聞かせてくれ」
クラウスの碧い目が、真っ直ぐにノブナを見据えた。
「君は、どこを目指している? この先、何を成そうとしている」
ノブナは少し考えるように窓の外を見た。
「……この大陸は、今のままでは滅びますわ。諸国が争い、民が苦しみ、才ある者が埋もれていく。それを変えたい」
「変える? どうやって」
「一つにまとめる。争いではなく、秩序によって」
クラウスは息を呑んだ。
「まさか……大陸統一を、と?」
「おかしいですか? 辺境の悪役令嬢が天下を語るなど」
「いや。おかしくはない。おかしくはないが――途方もない」
「途方もないことでなければ、やる意味がない」
ノブナは微笑んだ。今度は令嬢の微笑みではなく、覇王の笑みだった。
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クラウスの一行が帝都へ発った後。
城の廊下で、リーゼロッテがノブナを呼び止めた。
「ノブナ様。私、明日こちらを発ちます」
「そうか。帝都に戻るのか」
「はい。皇太子殿下の要請もありますし、聖エクレシアの本山にも行かなければなりません。聖女としての務めがありますから」
「そなたにはそなたの道がある。引き止めはせぬ」
リーゼロッテは少し寂しそうに、それから真っ直ぐにノブナを見上げた。
「一つ聞いてもいいですか。あなたは本当に、どこを目指しているんですか」
ノブナは窓の外の夕焼けを見つめた。
リーゼロッテには、嘘をつく気になれなかった。この少女は、自分のことを「悪役」としてではなく、一人の人間として見てくれた初めての存在だ。
「天の下、すべてを武で統べる」
信長の言葉が、令嬢の唇から零れた。
「天下布武だ」
リーゼロッテは目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「やっぱり、普通じゃないですね、ノブナ様は」
「褒め言葉と受け取っておこう」
「褒めてます。……また会えますか?」
「会えるだろう。この大陸はそう広くない。そして、私の歩む道はすべてに繋がっている」
リーゼロッテは深くお辞儀をして、去っていった。
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夜。
ノブナは一人、城の最上階にある展望の間にいた。
大きな窓から、満天の星空と、その下に広がる大陸の闇が見える。遠くに町の灯りがちらちらと揺れている。
背後から足音。
「ノブナ様。こちらにいらっしゃいましたか」
ヘルムートだった。手に二つの杯と酒瓶を持っている。
「戦勝の祝杯を、まだ交わしていなかったと思いまして」
「気が利くな、ヘル」
二人は窓辺に並んで立ち、杯を掲げた。
「勝利に」
「勝利に」
静かに杯を合わせ、一口飲む。
「ヘル」
「はい」
「本当に天下を取るぞ。私は」
ヘルムートは杯を持ったまま、しばらく黙っていた。
「……正直に申し上げてよろしいですか」
「いつでも正直に言え。世辞を言う家臣は要らぬ」
「最初にそれを聞いた時は、正気ではないと思いました」
「だろうな」
「でも今は――」
ヘルムートは大陸を見渡した。あの暗闇の中に、無数の人々が暮らしている。争い、苦しみ、明日を憂いている人々が。
「あなたならできるかもしれない、と。そう思っている自分がいます」
「かもしれない、では困るな」
「では、こう言い直します。ノブナ様がやると決めたなら、私は全力でお支えします。何があっても」
「……そうか」
ノブナは杯を空にして、大陸の闇を見据えた。
本能寺で燃え尽きたはずの志が、胸の奥で熱く脈打っている。
この世界には、まだ何もない。楽市楽座も、天下布武も、これから築くのだ。敵は多い。道は長い。だがそれは、尾張の小城から天下を望んだあの日と同じ。
「さて」
ノブナは不敵に笑った。
銀髪が夜風に揺れ、紅い瞳に星の光が映る。令嬢の姿をした覇王が、新たなる乱世を見据えていた。
「次は、どの領地を切り取ろうか」
――第一部・完――
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