天下分け目
旧ヴァルムント領、ブレンハイム。
ヘルムートが伝書鳩を受け取ったのは、ノイシュタイン陥落から丸一日後のことだった。
小さな紙片を開き、目を走らせた瞬間、ヘルムートの顔から血の気が引いた。
『ヘル。ノイシュタインが落ちた。エルヴィンが旧ヴァルムント残存兵と聖エクレシア旧強硬派を率いて挙兵した。私は坑道から脱出し、無事だ。兵を纏めて戻れ。場所はフォルスト村。そなたを待つ』
「エルヴィンが……!」
ヘルムートの手が震えた。だがそれは恐怖ではなく、怒りだった。
自分が城を離れている隙を突かれた。宰相として、この事態を予測できなかった不甲斐なさ。
だが、ノブナ様は生きている。坑道で脱出した。あの坑道――ガルドが管理していた、ノイシュタインの地下の鉱山跡。
「ガルド殿が……」
ノブナ様は備えていたのだ。万が一に。そしてガルドに坑道を整備させていた。
ヘルムートは書状を握りしめ、即座に動いた。
「ローザ殿!」
ヘルムートの傍で帳簿を広げていたローザが顔を上げた。
「何事ですか、この慌てようは」
「ノイシュタインが陥落しました。エルヴィンが挙兵。ノブナ様は脱出して無事ですが、至急戻らねばなりません」
ローザの目が鋭くなった。
「エルヴィンが。なるほど、あの男の目つきが変わったとは思っていたけれど。で、ヘルムート。ここからフォルスト村まで、通常行軍で何日かかるか知っている?」
「七日です。ですが――」
「七日では遅い。そう言いたいんでしょう」
「五日で行きます」
ローザは目を見開いた。
「五日? ここからフォルスト村まで二百里はあるのよ。兵を連れて五日で? 人が死ぬわ」
「死なせません。ですが、休息は最小限にします。街道の補給所で食料と馬を調達する。ローザ殿、あなたの商人ネットワークで、街道沿いの宿場と商会に先触れを出してもらえますか。兵が通過する際に、食料と水と替えの馬を用意してもらいたい」
ローザは少し考え、頷いた。
「……できるわ。街道沿いの商会には顔が利く。伝書鳩で先触れを出せば、明日にはすべての宿場に物資が揃う」
「お願いします」
「ただし条件がある。私も一緒に行くわ」
「ローザ殿。危険です」
「危険も何も、あなたに商人の伝手を使わせるなら、私が現場にいた方が話が早い。それに――」
ローザは帳簿を閉じた。
「ノブナ様には、まだ大陸最大の投資先でいてもらわないと困るのよ」
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ヘルムートは、旧ヴァルムント領の行政整備に帯同していた兵二千を即座に編成した。
本来なら治安維持と行政支援のための部隊だ。戦闘向きではない。だが数は揃っている。
「全軍に通達! これより強行軍を行う! 五日でフォルスト村に到着する! 途中、街道の宿場で補給は確保してある! 遅れる者は置いていく!」
兵たちの間にどよめきが走った。五日で二百里。一日四十里。通常行軍の倍の速さだ。
だがヘルムートの目は、かつて初めて戦場に立った時とは全く違う光を宿していた。渓谷の戦いで震えていた手は、もう震えない。
「出発!」
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強行軍の一日目。
ヘルムートは先頭に立って歩いた。馬には乗らなかった。兵と同じ速度で、同じ道を歩く。
「ヘルムート殿。馬にお乗りになっては」
「私が歩けば、兵も歩ける。私が馬に乗れば、兵の士気が下がる。宰相が先頭を歩く。それだけで、兵は五里余分に歩ける」
ヘルムートの靴が泥に汚れていく。足の裏に水疱ができ始める。だが止まらなかった。
ノブナ様が待っている。
かつて渓谷の戦いで、手が震えたことを覚えている。あの頃は怖かった。だが今は違う。怖いのではない。間に合わなければ、という焦りだけが足を動かしている。ノブナ様のためだけではない。ノブナ様と共に作る世界のために走っている。
あの人は、いつも自分を信じてくれた。家令見習いの平民を、宰相にまで引き上げてくれた。前世の秘密さえ打ち明けてくれた。
あの夜の言葉が、胸に残っている。
『もし、私が遠い別の世界で一度死んで、この身体に生まれ変わったのだとしたら。前の世界では男で、戦国の世を生き、天下を目指し、そして志半ばで死んだのだとしたら』
あの時、ヘルムートは答えた。「あなたが何者であっても、私の答えは変わりません」と。
今がその言葉を証明する時だ。
「五日で着く。必ず」
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二日目。
ローザの手配通り、街道の宿場に食料と水が用意されていた。兵たちは歩きながら食事を取り、宿場では馬を替え、荷物を軽くした。
三日目。
ヘルムートの足は水疱が潰れ、靴の中が血で濡れていた。膝が笑い、太腿の筋が千切れそうだった。それでも顔には出さない。先頭の背中が揺らげば、後ろの千七百も揺らぐ。
脱落者が出始めた。足を痛めた者、体力の限界に達した者。ヘルムートは脱落者を宿場に残し、本隊を前に進めた。
「申し訳ありません、ヘルムート殿。もう歩けません……」
「気にするな。ここで休んで、回復したら追いつけ。先に行く」
二千の兵は、日を追うごとに減っていった。だが、残った者たちの目には一様に、ノブナのために駆けるという意志が燃えていた。
四日目の夕方。ローザが馬を並べた。
「ヘルムート。脱落者は三百。残り千七百。予想より少ないわ」
「ノブナ様のために走る兵は、簡単には止まりませんよ」
「あなたもね。足、もう限界でしょう」
「足がなくても、這ってでも行きます」
ローザは苦笑した。
「あなた、本当にノブナ様に似てきたわね。無茶なところが」
「光栄です。あの方に似ていると言われるなら」
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五日目。
昼過ぎ。
フォルスト村の見張りが、街道の向こうに土煙を見つけた。
「ノブナ様! 街道の南から、大部隊が接近中です!」
ノブナは村の外に出た。
土煙の中から、旗が見えた。
オーデンヴァルト連合の旗。
「ヘルだ」
ノブナの口元に、笑みが浮かんだ。
街道を駆けてくる兵の先頭に、栗色の髪の青年が立っていた。泥だらけの服。血の滲んだ靴。顔は日焼けと疲労で別人のようになっている。
だが、ヘルムートの目だけは輝いていた。
「ノブナ様!」
ヘルムートが駆け寄ってきた。五日間の強行軍で足がもつれ、最後の数歩でよろめいた。
ノブナがその腕を掴んだ。
「遅いぞ、ヘル」
「申し訳ございません。五日が限界でした」
「五日で来たのか。二百里を」
「ローザ殿の補給がなければ無理でした。それと――」
ヘルムートは振り返った。土煙の中から、続々と兵が現れる。疲労の色は濃いが、まだ歩いている。
「千七百です。二千から三百が脱落しましたが、千七百が走り通しました」
「千七百か。我がの二百五十と合わせて二千弱。エルヴィンの六千には及ばぬが――」
「及びます。あと一日待ってください。途中、ローザ殿が街道沿いの領主たちにも声をかけています。ノブナ様が生きていると知れば、援軍を出す領主もいるはずです」
ローザが馬から降りてきた。
「ノブナ様。お久しぶりです。大変な目に遭いましたわね」
「ローザか。ヘルムートを支えてくれたな。感謝する」
「感謝は商売で返してくだされば結構です。それより、いくつか朗報があります」
ローザは書状の束を差し出した。
「一つ。帝都のクラウス殿下が、帝国軍の一部をこちらに派遣する準備を進めています。ただし到着まで十日はかかるでしょう。
二つ。エルヴィンの陣営に亀裂が生じています。旧ヴァルムント兵とエルヴィンの間で方針の対立が起きている。旧ヴァルムント兵はノブナ様の首を要求しているが、エルヴィンは拒否している。
三つ。リーゼロッテ殿が、エルヴィンの陣営内でフリードリヒ殿の治療に成功しました。重傷ですが、命に別状はないとのことです」
「そうか。リーゼロッテが間に合ってくれたか」
ノブナの声に、安堵が滲んだ。捕虜として生きているとは聞いていたが、重傷の容態が気がかりだった。
「あの老骨め。命令通り、しぶとく生き延びおって」
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その夜。ノブナとヘルムートは、村の外で二人きりになった。
月明かりの下、二人は並んで座っていた。
「ヘル。前世の話をしたな」
「はい」
「前の世で、信長が死んだ後、信長の家臣の一人が、驚くべき速さで軍を返して光秀を討った。中国大返しと呼ばれている」
「中国大返し」
「遠征先から、わずか十日で二百里を駆け戻り、光秀を倒した。その家臣の名は――豊臣秀吉。のちに信長の後を継いで、天下を統一した男だ」
ヘルムートは黙って聞いていた。
「そなたは五日で二百里を走った。秀吉の倍の速さだ」
「……偶然です。ローザ殿の補給があったから」
「偶然ではない。そなたの意志の強さだ」
ノブナは月を見上げた。
「前の世では、秀吉のおかげで光秀は倒された。だが信長はすでに死んでいた。今度は違う。私は生きている。そなたも来た。後は――」
「エルヴィンを止めるだけですね」
「そうだ」
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翌日。
ローザの予告通り、周辺の領主から援軍が届いた。合わせて八百。ノブナの手勢と合わせて、二千七百を超えた。
「エルヴィンの六千には及ばぬが、戦える数だ」
ノブナは軍議を開いた。
「これより、ノイシュタイン城を取り返す。ただし、目的はエルヴィンの軍を壊滅させることではない。エルヴィンと交渉し、降伏を引き出すことだ」
「交渉ですか」ヘルムートが確認した。
「そうだ。リーゼロッテが仲裁に動いている。そして、エルヴィンの陣営は一枚岩ではない。旧ヴァルムント兵と旧強硬派は、エルヴィンとは思惑が違う。その亀裂を突く」
ノブナは地図を指差した。
「まず、ガルド隊が補給線を遮断する。これでエルヴィンの六千は兵糧に困る。次に、ヘルムートが本隊を率いてノイシュタインの正面に布陣する。エルヴィンの注意を引きつけろ」
「私は」
「私は少数で、城の裏手に回る。坑道からではない。リーゼロッテと合流して、エルヴィンと直接話す」
「ノブナ様! 危険すぎます!」
「承知している。だが、この戦いは刃で終わらせたくない。エルヴィンは悪ではない。道を誤った理想家だ。理想家は、言葉で止められる」
ヘルムートは唇を噛んだが、やがて頷いた。
「……わかりました。ですが、護衛は最低でも五十はつけてください」
「二十だ」
「三十で」
「……わかった。三十で手を打とう」
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出陣の朝。
ノブナは二千七百の兵の前に立った。
「聞け、皆の者。これより我々はノイシュタインに向かう。だが、これは復讐の戦ではない。エルヴィンは、かつて我が旗の下に立った者だ。敵であっても、殺すなとは言わぬ。だが、降伏する者は受け入れよ。無用な血は流すな」
兵たちが頷く。
「我々が目指すのは、天下の平定だ。ここで殺し合いをすれば、大陸は再び乱れる。我々は、それを望まぬ」
ノブナは剣を掲げた。
「全軍、前へ!」
二千七百の軍勢が、ノイシュタイン城に向けて動き出した。
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ノイシュタイン城。
エルヴィンは物見の報告を受けていた。
「ノブナ軍、約三千。城の南方から接近中」
「三千。ヘルムートが戻ったか。あの男、五日で二百里を……」
エルヴィンの顔に、苦い感嘆が浮かんだ。
「エルヴィン殿。迎撃しましょう。我々は六千。数では倍です」
旧ヴァルムントの将校が進言した。
「城を出て野戦に持ち込めば、数の優位で押し潰せる」
「だが相手にはヘルムートがいる。あの男の用兵は侮れない」
「ならば城に籠もりますか」
「……いや。出る。だが、全軍は出さない。四千を正面に出し、二千は城の守りに残す」
エルヴィンは地図を見下ろした。
ノブナの姿が、脳裏に浮かぶ。あの紅い瞳。不敵な笑み。どんな窮地でも決して揺るがない覚悟。
なぜ、あの人の敵にならねばならないのか。
いや。わかっている。あの人のやり方では、大陸の民は本当の意味で救われない。力による統一は、力で崩れる。
だが――あの人がいない大陸に、希望はあるのか。
「……行くぞ」
エルヴィンは剣を取り、城門を出た。
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