悪役令嬢は包囲されても笑う
帝都に入って一月。
ノブナの政治工作は、着実に成果を上げていた。
カールハインツに冷遇されていた中堅貴族を三人、改革派に引き込んだ。帝国議会での発言権が少しずつ回復している。クラウスの表情にも余裕が戻り始めていた。
ただし、代償もあった。
「ノブナ様。ランツベルク伯との会談、まとまりました」
ヘルムートが報告する。だが、その声にはわずかな曇りがあった。
「まとまった、というのは」
「先方の条件を飲みました。『改革派に合流する代わりに、帝都における官職の登用は従来通り貴族の推薦制を維持する』と。つまり――」
「帝都では能力主義を適用しない、ということだな」
ノブナは淡々と言った。
「……はい。連合領では平民でも実力で登用されていますが、帝都の議会工作を進めるには、貴族たちの面子を立てる必要がありました」
「構わぬ。帝都の官職など末節だ。まず味方を増やし、基盤を固める。理念を通すのは、力を得てからでよい」
ヘルムートは頷いたが、心のどこかに引っかかるものがあった。連合領で身分を問わず人材を登用してきたノブナが、帝都では旧来の身分秩序を容認している。状況が違うとはいえ、あのエルヴィンが聞いたら何と言うだろうか。
「ここ数日、議会での空気が変わってきました」
ヘルムートは気を取り直して続けた。
「保守派の一部に動揺が広がっています。ノブナ様が帝都で精力的に動いていることで、改革派が本気だと認識されたようです」
「当然だ。口先だけの改革では誰もついてこない。行動で示さねばならぬ」
だが、ノブナの台頭は当然、敵の警戒も呼び起こしていた。
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最初の報せは、西から来た。
「ノブナ様。ローザ殿から緊急の報告です」
ヘルムートが真剣な表情で執務室に入ってきた。
「ヴァルムント王国が、帝国西部国境に兵を集結させています。将軍ヴォルフ・シュヴァルツ直率の二万」
「二万だと」
「渓谷戦の時の七倍近い兵力です。ローザ殿の分析では、直接の侵攻ではなく、軍事的な圧力をかけて我々を帝都から追い出す狙いではないかと」
ノブナの紅い瞳が鋭くなった。
「ヴォルフめ。帝都の混乱に乗じて動いたか」
ヴォルフの意図は明確だ。ノブナが帝都にいる間に、国境に圧力をかける。ノブナは帝都に留まるか、領地に戻るかの二択を迫られる。どちらを選んでも、一方が手薄になる。
「二つ目の報せもあります」
ヘルムートの声が重い。
「聖エクレシア教国が、帝国南部の諸侯に対して『教国の庇護を受けるよう』呼びかけを始めました。教国の影響力圏を帝国内部にまで広げる動きです」
「アウグストか」
「はい。さらに、教国は帝都の大聖堂を通じて、帝都の市民への布教を強化しています。ノブナ様の能力主義を『神の定めた秩序への反逆』と暗に批判する説教が増えているとか」
三つ目の報せは、宮廷内部からだった。
「カールハインツ宰相が、帝国議会で『辺境の勢力が帝都の政に介入するのは越権である』との決議を提出しました。改革派は反対しましたが、保守派の多数で可決されました」
ノブナは三つの報告を聞き終えて、椅子の背にもたれた。背筋を冷たいものが這い上がってくる。頭ではなく、身体が覚えている。四百年前にも、同じ感覚を味わった。
「……包囲網か」
「え?」
「西からヴァルムント。南から聖エクレシア。そして帝都内部から保守派貴族。三方から同時に圧力をかけてきた」
ノブナは低く笑った。
「信長包囲網――いや、なんでもない」
「ノブナ様。笑い事ではありません。三方から同時に攻められれば」
「だから笑っているのだ。三方から攻められるということは、それだけ我々が脅威だということ。恐れられているのは、弱い証拠ではない。強い証拠だ」
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緊急の軍議。
屋敷の一室にクラウスも招いた。
「状況は深刻だ」
クラウスが顔をしかめた。
「カールハインツの決議で、帝都でのノブナの政治活動が制限される。議会への出席も難しくなった」
「保守派は数で勝る。議会での正面突破は元々無理だった。別の手を打つ」
「別の手?」
「議会の外で動く。宮廷の社交、商人の経済活動、市民の世論。政治は議場だけで行われるものではない」
クラウスは感心したように頷いた。
「しかし、ヴァルムントの軍事的圧力はどうする。国境の防衛が手薄になれば、連合領が危ない」
「それは――」
ノブナは言葉を切った。連合領にはエルヴィンが残っている。フリードリヒの率いる連合軍もいる。だが、ヴォルフの二万に対抗するには心許ない。
「エルヴィンに伝令を送る。国境防衛を固めつつ、ヴォルフとの直接衝突は避けるよう指示する。帝国軍の牽制も必要だ。クラウス殿下、帝国軍の一部を国境に展開させることはできないか」
「難しい。カールハインツが軍権を握っている。私の名で動かせる兵は限られている」
「では、ローザの商人ネットワークで経済的な圧力をかける。ヴァルムントの補給線に商人が物資を売らなくなれば、長期の軍事展開は維持できない」
「それで時間は稼げるかもしれない。だが、根本的な解決にはならない」
「承知している。だが今は時間を稼ぐことが最善だ」
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数日後。連合領のエルヴィンから返書が届いた。
「ノブナ様の指示通り、国境防衛を強化しました。ヴァルムント軍は国境付近に布陣していますが、今のところ進軍の動きはありません。こちらからの攻撃は控え、防衛に徹しています」
エルヴィンの報告は的確で、状況判断も冷静だった。だが、その末尾にこう記されていた。
「ただし、一点だけ懸念があります。帝都での政治的妥協が長引けば、我々の理念が損なわれる恐れがあります。ノブナ様の掲げる能力主義と自由市場は、宮廷の旧弊と相容れないもの。妥協の末に骨抜きにされることのないよう、くれぐれもお気をつけください」
ノブナはその一節を何度か読み返した。
「エルヴィンらしい」
「何か問題が?」
ヘルムートが訊ねた。
「いや。至極真っ当な懸念だ。政治で妥協すれば、理念が薄まる。だが妥協しなければ、政治そのものが成り立たぬ。この二つの間で、常に綱渡りをしなければならない」
ノブナは手紙を畳んだ。
エルヴィンの言葉は正しい。正しいが故に、少しだけ胸に引っかかった。
あの男は、理想に対して純粋すぎる。純粋さは美徳だが、政治の世界では脆さにもなりうる。
「返書を書く。『懸念は承知している。理念を守りつつ、現実と折り合う術を見つける。それが天下を取るということだ』と」
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さらに一週間。
状況は悪化の一途を辿った。
カールハインツが帝国議会で新たな決議を通した。「帝国内の諸侯が独自に軍事同盟を結ぶことを制限する」という内容だ。名指しこそしていないが、オーデンヴァルト連合を狙い撃ちにした法案であることは明白だった。
「これが通れば、連合の法的基盤が揺らぎます」ヘルムートが深刻な表情で言った。
「帝国法上は連合も帝国諸侯の結合体ですから、この決議に違反する形になりかねない」
「形式上の問題だ。だが、形式は政治において力を持つ。カールハインツはそれを熟知している」
同時に、聖エクレシアの動きも活発化していた。帝都の大聖堂で行われる説教の内容が、明らかにノブナを標的にし始めた。
「秩序を乱す者は神の怒りを受ける」
「身分の別は神が定めたもの。それを覆すのは傲慢の罪である」
直接名前は出さないが、ノブナの施策を批判していることは誰の目にも明らかだった。帝都の市民の間に、ノブナへの不信感がじわじわと広がり始めている。
そして、ヴァルムント。
国境の二万の兵は動かないが、その存在自体が連合領に重くのしかかっていた。
「三方から締め上げられている」
ヘルムートが唇を噛んだ。
「どこから手をつければ」
「ヘル。お前は賢いが、一つ欠点がある」
「な、なんですか、急に」
「追い詰められると顔に出る。宮廷では表情を悟られた者から崩される」
ノブナは椅子から立ち上がり、窓を開けた。
夜の帝都に、大聖堂の鐘が鳴り響いている。
「包囲網を敷かれた時。最もやってはならぬことは何か、わかるか」
「……わかりません」
「慌てること。三方から攻められると、どの方向にも手を打とうとして兵力を分散させる。そうすると、どこも中途半端になって瓦解する。これが包囲網に負ける典型的なパターンだ」
「では、どうするのですか」
「まず落ち着いて、敵の弱点を見極める。三方の敵は一枚岩に見えるが、本当に一枚岩ならとっくに潰されている。彼らの間に隙間があるはずだ」
ノブナは振り返った。
「カールハインツは権力が目的。アウグストは教国の影響力拡大が目的。ヴォルフは軍事的覇権が目的。三者の目的は異なる。ということは」
「目的が衝突する局面が、いずれ来る」
「そうだ。その時まで耐える。そして、亀裂が生じた瞬間に、一気に切り崩す」
ヘルムートは深く息を吐いた。
「……しかし、耐えるのにも限度があります。連合領の防衛、帝都での政治工作、聖エクレシアへの対処。すべてを同時に進めるのは」
「だから、優先順位をつける」
ノブナは地図を広げた。
「最も危険なのはヴォルフだ。二万の兵は実際の脅威。だが、今すぐ侵攻してこないのは、帝国を敵に回すリスクを避けているから。つまり、帝国との関係が維持されている限り、ヴォルフは動けない」
「とすると、帝国内の政治を安定させることが、ヴォルフの牽制にも繋がる」
「そうだ。カールハインツを排除すれば、帝国軍の指揮権がクラウスに戻る。帝国軍が機能すれば、ヴォルフは後退する。そしてカールハインツの後ろ盾を失えば、アウグストの帝都での工作も力を失う」
「すべては帝都の政治に帰結する、と」
「そうだ。だが正面からカールハインツを倒すのは無理だ。議会では数で負ける。ならば、議会の外で崩すしかない」
ノブナは笑った。
追い詰められた笑みではない。策略を巡らす者の笑みだ。
「ヘル。ローザに伝えろ。『帝都の商人ギルドとの会合を設定してほしい。議題は、帝国の交易制度改革について』と」
「商人ギルドですか。政治に商人を巻き込むのですか」
「商人は政治家より現実を見ている。カールハインツの保守政策で損をしている商人は多い。特に、関税の引き上げと交易路の制限は、帝都の経済を停滞させている」
「商人を味方につけて、経済的な圧力をカールハインツにかける」
「経済と軍事と信仰。この三つが政治の柱だ。信仰はアウグストに握られ、軍事はヴォルフに脅かされている。ならば、残る経済で勝負する」
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その夜。ノブナは一人で屋敷の屋上に立った。
帝都の夜景が広がっている。無数の灯りが星のように瞬き、大聖堂のステンドグラスが月光に淡く光っている。
美しい街だ。だが今この瞬間も、この街の中で無数の謀略が蠢いている。
「……前の世でも、こうだった」
信長包囲網。浅井・朝倉・本願寺・武田。四方から攻められ、一時は存亡の危機に立たされた。
あの時は力で突破した。敵を一つずつ叩き潰した。比叡山を焼き、浅井を滅ぼし、朝倉を追い詰めた。
だが、力で勝つたびに、敵はさらに増えた。力は力を呼び、恐怖は反発を生む。
その果てが、本能寺だった。
「今度は、違う方法で破る」
力ではなく、知恵で。恐怖ではなく、利で。孤独ではなく、仲間と共に。
ノブナは夜空を見上げた。
星々が瞬いている。どの星も小さいが、集まれば天を覆う。
「包囲網は、内側から崩す」
その言葉を胸に刻み、ノブナは階段を降りた。
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