帝都は魑魅魍魎の巣窟である
帝都の宮廷で、ノブナは初めて背筋が凍った。
前世を含めても、この感覚は数えるほどしかない。戦場の刃ではなく、笑顔の下に隠された殺意。入城から三日。ノブナは皇太子クラウスの用意した屋敷に滞在しながら、帝都ライゼンハウプトの空気を肌で感じていた。
「宮廷の派閥は、大きく三つに分かれています」
ヘルムートが資料を広げながら説明する。ローザの情報網が集めたものだ。
「第一に、宰相カールハインツ率いる保守派。帝国貴族の過半数がこちらに属しています。旧来の身分秩序と特権の維持が信条です」
「第二に、クラウス殿下を中心とする改革派。若手貴族と一部の軍人が支持基盤ですが、数では劣勢です」
「第三に、聖エクレシア教国の使節団。枢機卿アウグストが直接率いています。表向きは中立ですが、実際には保守派に接近しています」
「つまり、クラウスは四面楚歌に近い」
「はい。我々の到着で改革派は勢いづいていますが、宮廷全体で見れば少数派です」
ノブナは窓の外を見た。屋敷の窓からは、帝都の中心部が見渡せる。宮殿の尖塔、大聖堂の鐘楼、貴族たちの邸宅。美しい街並みの下で、醜い権力闘争が蠢いている。
「――面白いな」
「面白い、ですか」
「戦場では敵の顔が見える。だが宮廷では、笑顔で握手しながら背中に刃を隠す。こちらの方がよほど難しい」
「ノブナ様は、そういうのは苦手でしょう」
「何を言う。悪役令嬢を舐めるなよ、ヘル。社交の場こそ、この身体の本領だ」
---
その日の夜。宮廷の大宴会に招かれた。
ノブナは銀髪を整え、深紅のドレスに身を包んだ。辺境の伯爵令嬢が着るには華美すぎる衣装だが、ローザが帝都の仕立屋に特注させたものだ。
「第一印象で格を見せなければ、宮廷では舐められます」
ローザの助言は的確だった。
大宴会場に入った瞬間、五感が一斉に叩かれた。蝋燭が百本は灯されているだろう。蜜蝋の甘い匂いが鼻をくすぐり、絹の衣擦れと杯が触れ合う音が低く響いている。手にした銀杯の冷たさと重さが、辺境の宴席との格の違いを指先に教えてくる。
そして、無数の視線がノブナに集まった。
囁き声が広がる。
「あれが辺境の悪役令嬢?」
「三領地を束ねたという噂の」
「皇太子殿下に婚約破棄されたのに、堂々としたものね」
「あの渓谷戦で二千の敵を打ち破ったとか」
ノブナは噂を背に、堂々と歩いた。背筋を伸ばし、微かな笑みを浮かべて。悪役令嬢としての教育で叩き込まれた完璧な立ち居振る舞いが、今ほど役立つ時はない。
「ノブナ・オーデンヴァルト伯爵令嬢です。本日はお招きいただき、光栄でございます」
宴会の主催者――帝国宮内卿への挨拶も、淀みなくこなした。
だが、本当の勝負はここからだ。
---
「お初にお目にかかります。聖エクレシア教国枢機卿、アウグストと申します」
声をかけてきたのは、白い法衣に身を包んだ老人だった。
白髪を綺麗に撫でつけ、穏やかな微笑みを浮かべている。杖をつく手は枯れ枝のように細いが、その目だけが異様に若い。淡い灰色の瞳が、ノブナを値踏みするように見つめている。
「枢機卿猊下。お噂はかねがね」
「おや。辺境にまで、この老いぼれの名が届いているとは光栄ですな」
「聖エクレシア教国の実質的な指導者のお名前を知らぬようでは、政に携わる資格がございません」
「はは。率直なお方ですな。辺境の令嬢というには、ずいぶんと目が鋭い」
アウグストの微笑みは崩れなかった。だがノブナは感じ取った。この老人の内側に、氷のような計算が走っているのを。
「聞けば、伯爵令嬢は身分を問わず人材を登用されているとか。平民を宰相に据え、鉱夫を管理長に任じた。実に、革新的なことをなさる」
「能力ある者に機会を与えるだけのこと。革新のつもりはございません」
「なるほど。ですがね、ノブナ様。秩序というものは、長い年月をかけて築かれるものです。それを急いで変えようとすれば、思わぬところが崩れることもある」
穏やかな声に、明確な警告が込められていた。
「ご忠告として承ります」
「忠告などとんでもない。年寄りの独り言ですよ」
アウグストは微笑んだまま去っていった。
ヘルムートが小声で訊ねた。
「あの方は――」
「厄介な相手だ。武人なら力で測れる。だが、ああいう『微笑みの裏に刃を持つ』タイプは、最も警戒が要る」
ノブナの脳裏に、前世の記憶が過ぎった。本願寺の顕如。穏やかな高僧の顔をしながら、一向一揆の号令で何十万もの民を動かした男。
「あの枢機卿は、信仰を政治の道具にする。民の心を掴むのが上手い分、軍勢よりも怖い」
---
宴会の途中、庭園に出たノブナの前に、見覚えのある姿が立っていた。
「……ノブナ様?」
白い祭服に身を包んだ少女。金色の髪と、透き通るような緑の瞳。
リーゼロッテだった。
「久しいな、聖女殿」
「お久しぶりです。帝都にいらっしゃると聞いて、でもまさか本当に」
リーゼロッテは驚きの表情を隠せなかった。あの辺境の領地で出会った令嬢が、今や三領地を束ねる連合盟主として帝都に乗り込んできている。
「あなたは、変わりましたね」
「そうか」
「ええ。前にお会いした時よりも、もっと大きくなった。背丈ではなく、纏っている空気が」
「大きくならねば、守れるものも守れぬ。それだけのことだ」
リーゼロッテは少し黙り、それから小声で続けた。
「……ノブナ様。あなたは本当は、悪い人なんかじゃないのに」
ノブナは足を止めた。
「何だ。急に」
「だって。世間では悪役令嬢と呼ばれているでしょう。皇太子を脅した、傲慢な女だと。でも、私は知っています。領民を守るために戦い、身分を問わず人を登用し、聖エクレシアの蜂起の時も、民を傷つけまいと体を張ったあなたを」
ノブナは庭園の薔薇を見つめた。
悪役令嬢。世間がそう呼ぶ。皇太子に切り捨てられた傲慢な女。それが、この世界での余の評価だ。だが――
「他人が貼った名札通りに生きるつもりはない。世間が悪役だと言うなら、世間の方を変えてみせる」
リーゼロッテの緑の瞳が大きく見開かれた。
「世間を……変える?」
「ああ。他人が決めた烙印など、知ったことではない。私は私の意志で、この世界を変える」
この聖女は、世間の決めた枠を超えて人を見ることができる。聖女という肩書きに甘んじることなく、目の前の人間と向き合える。それがリーゼロッテ自身の強さだ。
「……面白い方。本当に」
リーゼロッテは微笑んだ。眩しいものを見るような、それでいて悲しみを含んだ微笑みだった。
リーゼロッテは少し黙って、それから静かに言った。
「私は今、教国の聖女として帝都に来ています。アウグスト枢機卿の使節団の一員として」
「そうか。となると、我々は対立する立場か」
「……形の上では。でも、私は枢機卿とは考えが違います」
リーゼロッテの声が小さくなった。
「枢機卿は、信仰を使って政治を動かそうとしている。でも、信仰は人を救うためのもので、支配するためのものではないと、私は思う」
「よい考えだ。聖女がそう思うなら、教国にも救いがある」
「ノブナ様。一つだけ教えてください」
「何だ」
「あなたは、この帝都で何を目指しているのですか。本当の目的は」
ノブナはリーゼロッテの真っ直ぐな瞳を見つめた。
この聖女には、嘘をつく気になれない。前世から幾度となく人を欺いてきた信長が、この少女の前では、なぜか正直になってしまう。
「天下を統べる。大陸のすべてに、戦なき世を作る。そのために帝都に来た」
「……大きな夢ですね」
「夢ではない。必ず成し遂げる」
リーゼロッテは微笑んだ。悲しいような、あるいは眩しいものを見るような、複雑な微笑みだった。
「あなたと私では、きっと目指すものは違う。でも、人々が平穏に暮らせる世を願う気持ちは同じだと、信じたいです」
「ああ。方法は違っても、目指す先が同じなら、敵にはならぬ」
二人の間に、夜風が吹いた。
---
宴会も終盤に差し掛かった頃。
ノブナの前に、一人の老人が現れた。
深い皺が刻まれた顔に、銀縁の眼鏡。背は曲がっているが、その眼光は鷹のように鋭い。帝国宰相カールハインツ・フォン・ヴァイセンブルクだった。
「これはこれは。辺境のノブナ嬢。わざわざ帝都までお越しとは、ご苦労なことですな」
見下すような口調。辺境の小領主を軽んじる態度を隠そうともしない。
「宰相閣下。お目にかかれて光栄です」
「皇太子殿下の客人として来られたのでしょうが。帝都の政は、辺境の方々にはいささか複雑すぎるかもしれませんな。若い女性が巻き込まれては気の毒だ」
侮辱を親切の形に包んだ言葉。宮廷ではよくある手法だ。
ノブナは微笑んだ。悪役令嬢の微笑み。
「ご心配いただき恐縮です。ですが、複雑なことは嫌いではありません。単純な力比べより、知恵の駆け引きの方が面白うございますから」
カールハインツの目が細まった。
「ほう。なかなか言いますな。だが、帝都の駆け引きは一つ間違えれば命に関わる。辺境での遊びとは訳が違いますよ」
「承知しております。だからこそ、参りました」
二人の視線が交差した。
老獪な政治家と、覇王の魂を持つ令嬢。
カールハインツはふんと鼻を鳴らして去っていった。だがノブナは見逃さなかった。老人の目の奥に、わずかな警戒が宿ったのを。
「ヘル」
「はい」
「帝都での戦い方が見えてきた。カールハインツは老獪だが、自分の力を過信している。アウグストは慎重で危険だが、教国内部に弱点がある。そしてクラウスは追い詰められているが、まだ戦える」
「我々は、どう動きますか」
「まずはクラウスの地盤を固める。改革派の貴族を一人ずつ味方につけていく。そして――」
ノブナは宴会場を見渡した。煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たち。その誰もが、自分の利益のために動いている。
「この宮廷の中に、我々の味方になりうる者がいるはずだ。全員が保守派ではない。不満を持ち、変化を望む者が、必ずいる」
「それを、どうやって見つけるのですか」
「簡単だ。カールハインツに虐げられている者を探せ。権力者に不満を持つ者こそ、最も良い味方になる」
かつて信長が美濃を獲った時と同じ方法だ。
敵の中から味方を作る。
帝都の魑魅魍魎を相手に、ノブナの政治戦が始まった。
読んでくださりありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけるととても励みになります!




