第二話 絶望の目覚めと、報復の誓い
意識が浮上する感覚があった。だが、それは安らかな目覚めではなかった。全身を締め付けるような激しい痛みと、体が鉛のように重い感覚。薄く目を開くと、視界はぼやけていたが、天井が見えた。見慣れない天井だ。ぼんやりとした頭で考える。自分は、馬車で崖から落ちたはずだ。あの後、女神の声が聞こえ……。
「坊ちゃん!目をお覚ましになったのですか!」
かすれた視界の隅に、人影が飛び込んできた。白髪の老執事らしき人物が、涙を浮かべて自分を覗き込んでいる。見覚えのない顔だ。混乱したまま、アルフレッドは自分の体を見下ろした。
動かないはずの手足が、微かに震えながらも動く。傷ついていたはずの身体に痛みはあるものの、これほどまでに酷い状態ではない。何よりも、自分の手ではない。これは、誰かの手だ。
「ああ、神よ……!本当に、本当にありがとうございます!」
老執事は、アルフレッドの手を握りしめ、顔を伏せてむせび泣いた。その温かい手に、アルフレッドは困惑した。自分の意識が、別の体にある。女神の言葉が、現実になったのだと、そこでようやく理解した。
ゆっくりと周囲を見回す。質素だが清潔な部屋だ。天蓋付きのベッドは、王宮のものよりはるかに簡素だが、それでも貴族の部屋であることはわかる。自分が今いるのは、伯爵家の長男の体。名前は何だったか。咄嗟には思い出せない。だが、この体には、何らかの理由で以前から病を抱えていたかのような、虚弱な気配があった。
「坊ちゃん、意識ははっきりされていますか?お声が出せなくても、大丈夫ですよ。ゆっくりで構いませんから」
老執事が、心配そうに問いかけてくる。アルフレッドは喉を鳴らしてみたが、まだうまく声が出ない。だが、その声は、かつての自分の声とは全く違うものだった。少し掠れてはいるが、少年らしい、まだ変声期前の高い声だ。
「水……」
やっと絞り出した声は、自分のものではない。しかし、そのことに深く考える余裕はない。老執事はすぐに冷たい水をコップに注ぎ、アルフレッドの口元に運んでくれた。ゆっくりと喉を潤すと、いくらか意識がはっきりした。
「坊ちゃん、伯爵様がお喜びになります。すぐに、お呼びして参ります!」
老執事はそう言うと、慌ただしく部屋を出て行った。一人残された部屋で、アルフレッドは改めて自分の体を見つめる。鏡はないが、触れた感触で、自分の体ではないことがはっきりとわかる。そして、脳裏に、かつての家族の顔が鮮明に浮かび上がった。国王である父、王妃である母、そして兄のレオナルドとカイン。彼らはどうなったのだろう。女神は、帝国が王国に攻め入ると言っていた。
考えるだけで、胸が締め付けられるような激しい痛みが走る。もし、あの事故が本当に貴族の謀略によるもので、帝国が攻め入ったのだとしたら……。
しばらくして、部屋の扉が再び開いた。入ってきたのは、初老の男性だった。堂々とした体躯に、鋭い眼光。だが、アルフレッドを見るなり、その目には安堵の色が浮かんだ。
「よくぞ、目を覚ましてくれた、ラウル!」
その男性は、ベッドのそばに駆け寄ると、アルフレッドの頭を優しく撫でた。彼こそが、この体の父、伯爵家の当主なのだろう。彼の新しい名前は、ラウル。伯爵家の長男、ラウル。
「ラウル、お前が数日前から意識不明だと聞いて、私は……」
伯爵は、そこで言葉を詰まらせた。そして、表情を歪め、深く息を吐いた。
「息子よ、お前に話さねばならないことがある。王都が……オルド王国が、落ちた」
その言葉は、アルフレッドの脳髄を直接揺さぶるような衝撃を与えた。
信じられない。信じたくない。だが、伯爵の顔は、あまりにも深刻だった。
「ラーヴェン帝国が、先日の王子殿下の馬車事故の翌日には宣戦を布告し、一斉に攻め込んできたのだ。我々の軍は善戦したが、帝国の物量と、何よりも……彼らの新型兵器の前に、為す術なく……」
伯爵の言葉は、まるで鋭い刃物のように、アルフレッドの心を抉っていった。
「国王陛下も、王妃様も、レオナルド様も、カイン様も……皆、帝国の手にかけられた」
「……っ!」
喉から、声にならない呻きが漏れた。全身から血の気が引いていく。家族が、皆、殺された。信じられない、信じたくない現実が、冷酷に突きつけられた。守りたかった、愛する家族が、もうこの世にいない。
「お前は、奇跡的に目を覚ましたのだ。病に伏していたとはいえ、この時期に意識を取り戻したことは、天の配剤だろう。私は、お前を帝国に奪われるわけにはいかない」
伯爵は、苦渋に満ちた表情で言った。
「帝国は、残党狩りを進めている。王家に連なる者、忠誠を誓う貴族たちは、次々と捕らえられ、処刑されている。我々伯爵家も、いつ狙われるか分からない」
「父は……、私と執事たちだけで、お前を王都から逃がす準備をしている。お前は、ここで死んではならぬ。お前には、生き延びて、この国の……いや、このオルドの仇を討ち、王国を再建するという使命があるのだ」
伯爵は、震える手で、アルフレッドの新しい体を抱きしめた。その腕は、彼の揺れ動く心を鎮めるかのように、強く、温かかった。
「私には、もう時間がない。だが、お前は生きるのだ。この国の希望として、必ずや復讐を果たし、再びオルド王国を築き上げるのだ」
伯爵の言葉に、アルフレッドの心に激しい炎が燃え上がった。悲しみ、絶望、そして何よりも、激しい怒りが彼の全身を駆け巡った。家族を奪われた怒り。王国を滅ぼされた怒り。この身が死の淵から蘇ったのは、この復讐を果たすためだったのだ。女神が自分に与えた、神のごとき魔法の力。それは、この日のためにあったのだと。
その夜、伯爵と数名の忠実な執事に連れられ、アルフレッド――今はラウル――は密かに伯爵家を後にした。馬車ではなく、夜陰に紛れて馬を走らせる。背後には、炎に包まれる王都の光が見えた。それが、彼が最後に見た、かつての故郷の姿だった。
「ラウル、振り返るな。前だけを見ろ」
伯爵が、馬を並走させながら、低い声でアルフレッドに語りかけた。
「生きるのだ、息子よ。生きて、我々の誇りを、未来へと繋ぐのだ」
アルフレッドは、言葉なく頷いた。伯爵は、自分を逃がすために命を投げ出す覚悟をしている。この伯爵もまた、家族を失い、深い悲しみを抱えているのだ。しかし、彼は、このアルフレッドという「息子」に、全ての希望を託そうとしている。
「父上……」
アルフレッドは、心の中で深く感謝した。そして、同時に誓った。
必ず、王国を再建する。
必ず、ラーヴェン帝国に、そして裏切った貴族に、報復を果たす。
この、神のごとき魔法の力を使って、必ず。
旅は、ここから始まる。故郷を失い、家族を失い、自分の体すら失った少年が、新たな体と新たな力で、世界の命運を動かす、壮絶な復讐と建国の物語が。