一、帰らずの島
昔、とある地の海辺から見える水平線すれすれのところに、ぽっかりと浮かぶひとつの島があった。その島は楽園とか、地獄とか、向こうの郷とか、様々な名で呼ばれていたが、最も広く知られていた呼び名は「帰らずの島」だった。ひとたび島に上陸すると、二度と戻ってこられないからだ。これまでに数えきれないほどの人間がその島の謎を解き明かそうと挑んだが、ただの一人も戻ってきたものはいない。薄らぼんやりと靄の向こうにかすむ島は、居心地がよすぎて離れられないのか、あるいは何者かに捕まって囚われてしまったのか、そういったこともいっさい外側には伝わってこない。ただ一人、こちらの岸と島までを行き来する舟の渡し守だけが、何かを知りながら隠しているふうであった。
今また一人、思いつめた表情の若者が、海岸線をとぼとぼ歩いてやってきた。渡し場の舟の上で笠をかぶり居眠りしていた船頭は、砂を踏む足音を聞き、慌てて体を起こした。
「どうもおは……こんにちは。寝てません、寝てませんよ。旦那もあっちの島へ渡りたいんですかい?」
「ああ、そうだ」
若者はちらりと辺りを見回した。
「噂に聞いていた通りだ。本当にこんなちっぽけな舟であの島までたどり着けるのか? この海域には怖ろしい怪物が棲んでいると聞いたが……」
「そこまで知っているなら、途中で転覆したり怪物に引きずりこまれたという話がまったくないこともご存じでしょう。何より、何度も陸と島を行き来している私がこうしてぴんぴんしていることがいい証拠ですよ」
「たしかに、そうだな」
若者はうなずくと、さっさと乗船しようとした。船頭が櫂を振り立ててそれを引きとめる。
「ちょい待ち! あの島へ上陸してしまったら最後、二度と戻ってこられる保証はないってことはわかってますよね?」
「当たり前だろ」若者はため息をついた。「だから行くんだ」
「そうですか。なら問題なしだ。早速、出発するとしましょう」
若者が舟に乗りこむと、船頭は杭に結ばれたもやい綱をほどき、桟橋を蹴ってぐいと舟を海に押し出して、すばやく自分も乗りこんだ。しぶきが飛び散り、若者の羽織を派手に濡らした。
「おい、気を付けてくれ。ずぶ濡れじゃないか」
「まあまあ。今のうちに濡れておけば、このあと多少の波をかぶっても気にならないですから」
若者はなんだか腑に落ちなかったが、船頭は構わずに舟をこぎだした。波も風もほどほどにあったが、小舟は不思議なほどすいすいと進んだ。
「ところでお客さんは、どうして島へ渡る気になったんです?」
「別にあんたに話す義務はないだろう」
「まあ、そうですが。見知らぬ土地と人が相手じゃ緊張するかと思いましてね。ただの世間話ですよ」
「……ちょっと下手をやらかして、お尋ね者の身なのさ」
「なるほど、それで逃げ回るのに疲れてしまったわけですか。大変でしたね」
「あんた、俺が怖くないのか?」
「もっとずっと厄介な人を山ほど乗せてきましたからね。重そうな金棒を決して手放そうとしない巨漢とか、恋人に裏切られてえらく逆上している女とか、長い髪のすき間から一言もしゃべらずにじっとこっちを睨んでいる不気味なやつとか。それに比べたら、旦那は落ち着きがあるし受け答えもしっかりしている。かわいいもんですよ」
「案外、大変な仕事なんだな」
「それはもう。肉体労働なうえに接客業ですからね」
「辞めたいと思ったことはないのか?」
「そりゃまあ、なくはないですけど、なんだかんだ稼ぎはいいですから」
「俺は大した金は持ち合わせていないんだが……」
「雇われだから給料性なんですよ。旦那が支払う必要はないから心配しなくて大丈夫です」
「そうか」
空にはところどころ白い雲が浮かび、カモメが近くを飛んでいる。のどかなものだ、と若者は思う。こっちは今、得体の知れない島へ向かっているというのに。自ら選んだ道ではあったが、やはり喜び勇んでという心持ちにはなれなかった。
「なあ、あの島には何があるんだ?」
「さあねぇ。それは島に入っていった人にしかわかりませんよ。私はいつも上陸はせずに客だけ降ろして帰ってくるんで」
「そうは言っても、近くで見ているから雰囲気くらいはわかるだろう?」
「ええ、そこなんですけど」
船頭は櫂を操る手を止めた。
「どうも毎回、その辺の記憶が曖昧でして……しっかり送り届けたことはわかっているんですけど、島がどんなところだったか、それに関する記憶だけはすっかり抜け落ちているんですよ。不思議ですねぇ」
「本当に何も知らないのか」
若者は信じがたいというふうに眉を吊り上げた。
「私が知っているのは、誰もが上陸したきり、二度とは戻ってこないということだけですよ。少し損な気はしますね。あっちからこっちへ来るときは客が取れないわけですから」
「あんたは島に入ろうと思ったことはないのか?」
「ありますよ。というより、むしろ最初はそれが目的だったんです」
「どういうことだ?」
船頭は水平線のほうを見やり、目を細めた。さっきから櫂を漕ぐ手は止まっていたが、小舟は着実に島へ向かって進んでいた。
「その昔、永遠の愛を誓い合った連れがおりまして。ところが一緒になっていくらも経たぬうちに、病にかかって死んでしまったんです。まだ若いのだから後妻を取ればいいと周りの人は言ってくれましたが、どうにもこうにもそんな気持ちにはなれず、かといって後を追って死ぬほどの覚悟もなく、ふらふらとさまよい歩いているうちにここの噂を聞きつけ、やってきたというわけなんですよ」
「それは気の毒だったな……つらいことを聞いた」
「お気になさらず。もうずいぶんと昔の話ですから」
「そうか。しかし、どうして島へ行こうと決心したはずのお前が、船頭なんかやっているんだ?」
「ああ、それはもう単純な話です。怖くなったんですよ。もしもあの島があの世へ通じていたらと思ったら。もしも妻が待ち構えていたらと思うと……」
「なぜだ。妻に会いたくないのか?」
「それがねえ、あいつったら死ぬ間際になって、『永遠の愛を誓ったんだから、あなた、一緒に来てくれますよね?』なんて言い始めて。瀕死の妻に向かって『そいつは御免だな』とは言いづらいじゃないですか。だから本心を押さえつけて、妻の冷たい手を握って、『当然だろ。でもちょっと片付けないといけないことがあるから待っていてくれ。終わったらすぐにそっちへ行くから』と言ったんですよ。すると妻は痩せた顔でにっこり微笑んで、『よかった、安心しました』と言って目を閉じたきり、動かなくなっちまいました。悲しいなんてもんじゃなかった。一晩中、妻の手を握って泣きました。本気で後を追うことも考えました。だけど日が昇ってみると、やっぱり死ぬのは御免だと思いました。薄情なやつでしょう? 私はその程度の人間なんですよ」
「誰だって死ぬのは怖いものだ」
若者は膝に置いたこぶしに目を落とした。
「そう言ってもらえると、少しは気が楽になります」
船頭は笠をかぶりなおし、再び舟を漕ぎ出した。
「あとは先ほども言った通り、噂を聞いてふらふらとここへやってきました。引き寄せられたと言ってもいい。とぼとぼと海岸を歩いていくと、沖にぼんやりと島が見えるのに気づき、小舟に寝転んでいる船頭に会ったというわけです」
「ちょっと待て。お前が来る前にもほかの船頭がいたのか?」
「ええ、そうですよ」
船頭はこともなげに言って、そのときのことを語りだした。