その処刑人は悪役令嬢を許さない
「セレナ・カナトリア! 今ここで、あなたとの婚約を破棄する!」
第二王子が叫ぶ。
「兄上に毒を盛るとは、さすがにもう庇い立てできない!」
社交パーティーで、私は王太子の飲み物に、魔法で完全に排出できる量の即効性の睡眠薬を混入させた。彼は、意識こそ失うが、どうあっても死ぬことはない――すっ転んで頭を打つとかしなければ。まあ、そうなりそうなら、私が支えた――けれど悪名高い私が側にいる時となれば、王妃になるために、婚約者より王位継承順位の高い彼を亡き者にしようとしたと疑われるのも自然なことだった。
入れたのが致死性のないものだと知られないよう、駄目押しで、私は叫ぶ。
「っ……なんで!? どうしてっ!? 王妃の座は、私の物よ――ッ!」
そのまま、事態を重く見た国王の命令で、私は牢屋に入れられた。数時間後、苛立たしさを隠しきれていない足音を響かせて、面会人がやってくる。
黒い髪に、青い瞳の青年。彼は、厳しい目つきで言った。
「どうして、こんなことをしたんですか? 俺には、あなたが理解できない」
「だから、なに? あなたと話すことはないわ」
「……そうですか。先程、あなたの処刑が決まりました。執行人は、俺です」
そう言い残して、彼は去って行った。
私は、悪役令嬢だ。
正確には、二回目の人生で、わざと悪役として生きる道を選んだ公爵令嬢。もうすぐ、処刑人アシュレイ・リヒテンの手によって、この世から消えてなくなる。
彼は、神の授け物とされる特殊な力を持っている。〈裁きの炎〉と呼ばれるそれは、たとえどんな強大な相手であっても、罪人を跡形もなくこの世から消し去ることができる。私のような小娘、そんなことをしなくても、剣の一振りで簡単に処刑は完遂されるけれど。彼が出てきたということは、私は、皆からよほど恨まれているのだろう。
――素晴らしい! まったく、計画通りだわ。
私は、消えなければいけない。この、呪いとも言うべき力と共に。
◇◇◇
一度目の人生のことだ。
幼い私は、森のすみで一人きりで泣いていた。その涙は魔力のこもった宝石となって、ポロポロと地面に落ちる。海底でしか採れないといわれる希少なものが、簡単に、涙の数だけ出てくる。
こういう体質なのだ。水魔姫の生まれ変わりとか、過剰に生成される魔力を体から逃がすためとかいわれている。
あと、どうにも人を魅了してしまって――大体いつも誰かしらに囲まれていたけれど、どこから宝石の噂が他国に漏れるかわからないので、泣く時は決まって一人になっていた。
なのに、そんなこと知ったこっちゃないっていう幼馴染が、目ざとく私を見つけて寄ってくる。
「あっ、また泣いてる。セレナ、どうしたんですか?」
「アシュレイ……。この子、死んじゃったの……」
飼っていた小鳥を、手のひらに乗せて差し出す。
「そっか……じゃあ、お墓を作ろう。大丈夫、その子は天国に行けますよ。セレナに愛されていたんだから」
こういう時、いつもは凛としている彼の顔が、うんと優しくなる。
アシュレイは、よく、あたたかな声で泣き虫な私をなぐさめてくれた。
とても優しい、大好きなアシュレイ。
〈執念の執行者〉と呼ばれた初代から続く処刑人の家系だった彼は、その中でも飛び抜けて優秀な能力を評価され、王都へ移住することになった。
以前より会う機会は減ったけれど、私も、この体質と公爵令嬢という身分から王族に厚遇されていた。城の庭で、時おり、彼と私と、私を気に入ってくれている王女コレットの三人で茶会や散歩をするのだ。変身魔法が得意なコレットがネコに化けて、一緒にこっそり城下町へ遊びに行くこともあった。――幸せだった。とても。
それでもやっぱり、泣きたくなることはある。
十八歳の時に開かれた茶会で、コレットは声をひそめて言った。
「あのね、これはまだ、内緒の話なのですが。エイベルお兄様が、セレナを婚約者にしたいとおっしゃっていました。そうなれば、私たち、義理の姉妹ですね……!」
「えっ、あ、私がですか……!?」
彼女は嬉しそうだった。
その時、私は、ただただ驚くばかりだった。
けれど、茶会が終わって、そのまま庭のすみでぽつんと一人。
――私は、アシュレイと……結ばれない、のね……。
そう考えると、涙があふれてきた。ポロポロ、ポロポロ。宝石になって地面へ落ちる。公爵家の人間に自由恋愛は難しいと、わかっていたはずなのに。
頭上では、弱った獲物を狙っているかのように、一羽の鷹が飛んでいた。
しばらくすると、うずくまって泣き声を押し殺す私のそばにアシュレイがやってきた。
足元だけちらりと見て、私は顔を上げないまま涙声で尋ねる。
「……なにをしに来たの? コレット様のエスコートはどうしたの?」
そうすると、彼は
「あなたの隣にいたかったんです」
と、答えた。ほんの少し、涙声だった。
――ああ、この魅了の力のせいだろうけど。私と彼は、きっと同じ気持ち。
それがとてつもなく嬉しくて、でもやっぱり叶わないのが悲しくて、また宝石が地面に増えた。
私と第二王子の結婚は、国中が祝福してくれた。披露宴には周辺諸国の王族たちもいて――私は、絶対に泣くまいと思っていたけれど、どうやらすでに手遅れだったらしかった。
隣国の暴君、ヴェアドーリが、祝いの席でその要求を言い放つ。
「気に入った。花嫁を寄越せ。そうすれば、この国への侵略は取りやめにしよう」
空気が凍る。彼の国は強大な軍事国家で、彼自身も恐ろしいほど強くて――周辺諸国は巻き込まれたくない一心で誰も口出ししない。突然侵略だなんてものをちらつかされて、第二王子も国王も言葉を失っている。コレットだけが「あら、ヴェアドーリ様。私ではいけませんか?」なんて、怖かったろうに、お茶目に笑ってみせた。
結果として、私は皆の惜しむ声を聞きながら、その日の内に隣国へ向かうこととなった。侍女を一人だけ伴って城から出ようとしたとき、後から話を聞きつけたアシュレイが血相を変えて駆けてくる。
「セレナ……! こんなっ、こんなこと……! 今すぐ逃げてください! もしヴェアドーリに企みがあってのことなら――あなたは、これから、酷い目に……」
人間は、自分の上限値より多くの魔力を体に溜め込むことができない。けれど、私の涙――魔力のこもった宝石があれば、それを利用して大量の魔力を扱うことができる。
国力を増強するために、量産を求められる可能性もあるだろう。
けれど私は、気丈に笑ってみせる。
「大丈夫よ。私を利用したいなら、命を危険にさらされることはないはずだもの。それに、もしかしたら、本当にただ私の魅了にかかっただけかもしれないし。――ふふ、困った体質よね」
「っ……」
辛そうな彼に腕を引かれて、そのまま抱きしめられる。
「セレナ。あなたは、一人じゃない。もしも助けが必要な時は、俺を呼んでください。隣国の暴君だろうと、俺が裁いてみせます」
そのまま彼にすがりついて泣きたいのを我慢して、私はアシュレイの胸をそっと押す。
「……ありがとう。もう、行かなくちゃ」
アシュレイは、ああ言ってくれたけれど、隣国の王がどんな悪事を働こうと――この国の法では、彼を裁くことはできない。
それが、私たちの今生の別れとなった。
ただ、私だけが、アシュレイの最期を見届けた。
ヴェアドーリに宝石を渡さないために、なにをされても泣くまいと思っていたけれど、彼は私に傷ひとつ付けなかった。
その代わりに、魔法で動けない私の目の前で、付き添ってきてくれた侍女を手にかけた。以前どこかで私の秘密を知っていたのだろう、彼は愉快そうに
「ああ、本当に涙が宝石になるのだな!」
と、それを拾い上げた。
程なくして、ヴェアドーリは、私の国へ報復戦争を始めた。
私を取り戻すために、一部の国民が国境線を侵犯し、戦いを仕掛けたらしい。それは、ヴェアドーリの狂言か――あるいは、私に“魅了”された人々が実際に起こしたことなのか。
多くの人が犠牲になった。その様子を、使い魔の視覚と聴覚を共有でもされたのだろう、私はまざまざと見せつけられた。魔力のこもった宝石を、量産させるために。
――どうして。
応戦する人々の中に、アシュレイがいた。彼は戦士ではないのに、最前線を駆けていた。
「セレナ――!」
喧騒の中で、アシュレイの声が響いた。
次の瞬間、彼の左胸を、一本の矢が貫いた。
頭が“それ以上”を拒否して、私は意識を失った。
忘れない。忘れるものか。この蛮行を。命をかけて抗った人々を。アシュレイが、戦場で、私の名前を呼んでくれたことを。
そして――私が目を覚ますと、飼っていた小鳥が、小さな手のひらで静かに眠っていた。
「……!?」
私は、ひとり、森のすみにいた。視界がやけに低い。足元には宝石が落ちている。
――これは……? 昔の記憶? いや……時間が、巻き戻ってる……!?
遠くの方では、私を捜しているのか、まだ幼いアシュレイがきょろきょろと辺りを見回していた。
――まだ、間に合う。
私は、小鳥をそっと地面に置くと、彼に見つかる前に屋敷へ駆け込んだ。それから自分の部屋で、元気そうな彼の姿を思い出して、ベッドを宝石だらけにした。
――もしもあれが、全て悪い夢でないのなら。これから現実に起こることなら。変えなくちゃ、未来を。
できることなら、誰も悲しまない方法がいい。でも、それは難しい。
――お父様と、お母様は、どうあっても悲しむかもしれない。
でも、みんなに愛される、かわいい娘が突然失われるよりは、きっとマシな方法。
私は、悪役令嬢になる。
誰も、私を愛さないように。誰も、私を助けに来ないように。
しばらくしたら忘れるくらいに、自然に、この世から退場するために。
けれど、臆病な私ができたのは、人を冷たくあしらうくらいだった。特に、アシュレイとは、徹底して距離を取った。
年頃になってからは、他人の男を奪ってとっかえひっかえしてるとか、同級生をいじめたとか、適当な噂を自分で流した。
泣き虫な私は、本当に上手くいくか不安で、アシュレイがやっぱり恋しくて、相変わらず宝石をたくさん増やした。彼がコレットと一緒にいるのを遠目に見かけては、ベッドをキラキラの大洪水にした。
――ああ……まぶしかった。彼の家は、魔力さえ高ければ、身分を問わず配偶者を受け入れているはずだけど。コレットなら、誰にも文句の付けようがない相手よね……。
私も、彼の相手は、優しい彼女が良いと思う。
泣く時は、必ず自分の部屋にして、部屋には誰も入れないようにした。私はいつしか、宝石に埋もれるようにして眠った。
一度目の人生では、海底から採取したと偽って、私の宝石を国民に少しずつ分け与えていた。今回は、それもしなかった。その分、魔力が足りなくて不便な思いもさせただろう。
でも、それも、あと少しで終わる。私がいなくなったあと、部屋いっぱいの宝石は、みんなで自由に使ってほしい。国を守る力にもなるはずだ。
泣く時は、必ず自分の部屋で。それを徹底しているが、いつ、どこから私の秘密が漏れるかわからない。かなり小型の使い魔で密偵される可能性もある。暴君に目をつけられると厄介だ。そろそろ、私は退場するべきだろう――。
そう考えて、私は、王太子の飲み物に睡眠薬を入れた。こんな私を婚約者にさせられるなんて、エイベル第二王子も可哀想だ。相変わらず、この希少な力だけは王族に厚遇されていた。
でも、さすがに自分たちの命が狙われているとくれば、諦めがついたのだろう。ヴェアドーリみたいに私の自由を奪って搾取を続けないあたり、やはり人道的な人たちだ。
◇◇◇
そうして、この牢屋の中に至る。
――最高ね! まだ、あの悲惨な争いが起きていない! ざまあみろ、ヴェアドーリ! あなたの好きにはさせないわ!
これで、完全に彼から逃げ切れる。
思わず、笑いだしてしまいそう。
ついに処刑の時間になり、迎えが来た。
この処刑人は、わざわざお迎えまでしてくれるのか、兵士と一緒にアシュレイまで牢を訪れる。
彼は、怒りに震える声で言った。
「あなたは、本当に愚かで、自分勝手な人だ」
彼は、潔癖なほど誠実なのだろう。
その処刑人は、悪役令嬢を許さない。
それでいい。彼に悲しまれるのは、ひどく辛い。
連れて来られた処刑場は、塔の上だった。いまこの一時だけ、私は魔法で手足の自由を完全に奪われ立たされている。口が動くだけ優しいものだ。ヴェアドーリの所では、舌を噛み切って死ぬことも叶わなかった。
遠巻きに、私の処刑を見守る王族たち。中にはコレットもいたけれど、彼女は気分が悪そうにして、国王に一声かけると私の後ろの扉から出て行った。
そして、私の目の前には、愛しい人。アシュレイがいる。
彼の青い瞳は、先程までの怒りを鎮めて、静かに私を見つめていた。神聖なる、処刑人の顔だ。
「セレナ・カナトリア。最期になにか、言い残すことは?」
好きです、と言いかけた口を慌てて閉じる。悪役令嬢は、最期にそんな、まっすぐな告白はしない。解釈違いだ。ここは、思いっきり嫌味ったらしくしないと。
「どうぞ、コレット様とお幸せに。処刑人さん?」
彼の眉が、ぴくりと動いた。びっくりするくらい、怖い顔をされた。
彼が目を閉じて、自分を落ち着けて、剣を抜く。そこには〈裁きの炎〉がともる。
急に、本当にこれで良かったのかと、怖気づいてしまった。
あの悲惨な争いは、やっぱり夢で、こんなことをしなくてもよかったのではないか? 他に方法があったのではないか? ――でも、もう遅い。私は、一人で、悪役として走ってきてしまった。
このまま、舞台袖どころか、この世から退場するのだ。
アシュレイが、剣を振るうと、目の前を炎が覆い尽くした。
◇◇◇
〈裁きの炎〉は、過剰なまでに大きく燃え上がり、その悪役令嬢を飲み込んだ。アシュレイ自身も炎に飲まれ、見えなくなるほどだった。
もしも自分が飲み込まれたら――気がつかないうちに、自分も罪を犯していたら、この炎に消されてしまう。そういう恐怖があって、国王たちは壁に背がつくまで後ろに下がった。
長く燃え続けた炎が収まったころ、そこには、処刑人が一人立っているだけで――
その目の前に、悪役令嬢の姿はなかった。
◇◇◇
「やっと、つかまえた」
ちょうどその頃。アシュレイが、塔の階段を駆け降りながらつぶやく。
彼の腕の中で、私は、わけがわからなくて固まっていた。
――なに、これ。私は消えるはずじゃ……!? なんで、アシュレイに、お姫様抱っこされてるの!?
必死に思い出す。炎に包まれて、ぎゅっと目を閉じたら、誰かに抱き上げられた。驚いて目を開けると――私を抱えているアシュレイと、そのそばにもう一人、剣を持ったアシュレイがいたのだ。
どういうことだか、さっぱりわからない。
相変わらずぽかんとしている私に、彼は言う。
「処刑場に残ってる方は、俺に変身したコレット様です。彼女は、あなたを消えたことにする計画に、二つ返事で協力してくれました」
体調不良でその場を離れたと思っていた彼女は、扉の向こうで待機していたのだろう。そして〈裁きの炎〉の中で彼と入れ替わった。本物のアシュレイが私を連れ出せば、悪役令嬢の処刑が完了したように見える。
私は、そこで生じた疑問を尋ねる。
「ねえ、あなたの炎って、どんな罪人でも消すことができるんじゃないの?」
「できますよ。罪人であればね」
「私、悪役令嬢よ。王太子殿下の同意なしに睡眠薬を飲ませたわ。不敬罪とか反逆罪とか、何かその辺りよ」
「この力は神の授け物です。この国の法律じゃなくて、神の尺度で執行されます。あなたは罪人ではないと判断されました」
人払いされた塔の下で、彼は私にお揃いのローブをかぶせると、隠しておいた馬にまたがって私を前に乗せる。「それよりも!」と、ちょっと語気を強めながら。
「セレナ。どうしてあなたは、俺を頼ってくれなかったんですか? 助けてと、ひとこと言ってくれればよかったのに、俺を遠ざけて悪役ごっこなんか始めて……! なにか、ものすごい作戦でもあるのかと思って誰にも言わず見守っていたら、処刑されることになっているし……!」
「え……!? もしかして、あなたも一度目の記憶があるの!?」
「むしろ、どうしてあなたにあるんですか?〈執念の執行者〉は、俺の能力ですよ」
走る馬上で、その単語を聞く。たしか、彼の家系の、処刑人としての初代がその異名で呼ばれていたはずだ。
「あなたの、能力?」
「ええ。罪人を処刑するためならば、命を落としても一度だけ時間を巻き戻すことができる――初代だけが有していた能力を、どうやら俺も持っていました。子どもの頃までさかのぼったのは、きっと、準備が必要だから」
戦場で彼が命を落として、時間が巻き戻った。直前に、私が強く“忘れない”と念じたことが記憶の保持に繋がったのだろうか。
「いやっ、だから、それよりも!」
彼はまた、語気を強めた。私の後ろで、珍しく頬でもふくらませているんじゃないだろうか。
「セレナ。どうして頼ってくれなかったのかと聞いているんです。本っ当に愚かで自分勝手な人だ。おかげであなたを一人ぼっちにした挙げ句、こんな滅茶苦茶な策を取ることになった」
「だ……だって、どうするのが一番いいかなんて、わからなかったから……!」
「一緒に考えればいいでしょう、まったく……!」
「そんなに怒らなくても……」
「怒りますよ。あなたがみんなから嫌われて、悪役令嬢として断罪されるなんて――俺には、到底、許せません」
彼は、私が悪役令嬢であることを、許さない。
大きなため息をついて「失礼、取り乱しました」なんて言ってから、アシュレイはいつもの――そして、懐かしい、優しい声で続けた。
「とりあえず、人目につかない場所に家を用意してあるので、そこで休んでください。これからのことは、二人で考えましょう。ああ、それから――あなた、自分の部屋に宝石を溜め込んでいませんか?」
「……あります。いっぱい。ここにも増えそう」
「よかった、なら大丈夫。それ、全部俺にください」
「えっ……いいけど、なんに使うの?」
それから彼は、気高い声で宣言した。
「その膨大な魔力で〈裁きの炎〉を、隣国まで届かせてみせます」
◇◇◇
もう、大騒ぎになった。
炎が国境線を越え、隣国の城まで焼き尽くしたのだ。
でも“死者”は出なくて、ヴェアドーリがこつぜんと姿を消したらしい。やがて暴君のいなくなった隣国は絶対王政を廃止し、民主政になったと周辺諸国に通知された。恐怖政治に支配されていた国民が狂喜乱舞しているという風の便りも耳にする。平和条約も色んな所と結びまくっていた。暴君は過去の人なので、今まで好き勝手された報復はしないでね、ということなのだろう。
勝手に突っ込んできた、バカみたいにデカい炎のことは、この際どうでもいいらしい。
「さすがにあれだけの魔力を一度に使うのは、死ぬかと思いましたね」
と、アシュレイは当時のことを涼しげな顔で語ってみせる。あれは、神が起こした自然現象ということになっている。
森の中の小さな家。私はそこで暮らしていた。いつものように食料を持ってきた彼が、コレットお手製のお菓子をこちらに差し出しながら、明後日の方向を見てもじもじする。
「あの……。どうですか? 公爵令嬢としての生活は、あなたには堅苦しかったりしませんか? いっそのこと、別の人間として生きてみませんか? 全部本当のことを話したら、あなたは第二王子に嫁ぐことになるかもしれないし」
「え?」
「いや。え、じゃなくてですね。……結局、あなたが“処刑”されて良かったと思ってしまう俺は、罪に問われるべきかもしれませんね」
ふぅ~と息を吐き出して、彼は、急に真面目な顔になると、私の前にひざまずいて言った。
「セレナ。もう、あなたに守るべき立場はありません。もしも望んでくれるのなら、俺の妻になっていただけませんか?」
「……!?」
コレットのお菓子だ、わ〜い! くらいに思っていたら、突然求婚をされて、素っ頓狂な声をあげてしまう。
「わたっ、私!? えっ、コレットじゃなくて!?」
「俺がいつ彼女を好きだと言ったんですか。処刑場で勝手にお幸せを願われた時は、危うく怒りそうでした」
「でっ、でも……! この、私の、魅了の力が悪さしてるんじゃなくて? アシュレイの本心なの……!?」
「あなたの魅了、言うほど強くないですよ。あんな悪役ごっこで人が離れていくんだから。あのね、そうじゃなくて……」
彼は、じっと私を見つめて、やわらかく微笑んだ。
「俺は、他の誰かのために泣けるほど、優しいあなたが好きなんです」
彼の手には、いつの間にか指輪が握られていた。
「受け取ってくれますか?」
もう、こんなの、嬉しくて天国にのぼるような気持ちで。
「っ……はい……!」
私は、足元を宝石だらけにしながら、とびきりの笑顔でそう答えた。
こうして、舞台袖に引っ込んだ悪役令嬢は。
幸せな花嫁に衣装替えして、愛する人と、新たな演目を始めるのだった――。