破(アルウィス)
「アルウィス様の方こそ、それでもかまいませんか?」
初めてしっかりと言葉を交わしたその日。
確固たる意志を宿した真っすぐな視線に、俺の心は一瞬で射抜かれた。
碧色の瞳に吸い込まれそうになる錯覚を覚えながらも、必死で考える。
クローディアは、一体どこへ行ったのか。
俺たちが周到に準備してきた計画をどうするつもりなのか。
そしてその企みに、この子を巻き込んでいいのかどうか。
冷静に考えれば、俺たちがやろうとしていることにこの子を巻き込んでいいはずがなかった。
婚約は、人生を左右するものだ。ここでこの子がクローディアの代わりに俺の婚約者になってしまったら、この子の人生がとんでもない方向に向かってしまうことはわかっていた。
でも。
俺はあの瞳を、もうほかの誰かに渡す気にはなれなかった。
いつかあの瞳に自分自身が映ることを期待してしまったら、婚約の継続を受け入れるのは当たり前のことのように思えた。
*****
「ちょっとアル! アルウィス!!」
先触れもなく現れた彼女を見て、俺は思わず我が目を疑った。
「お前……」
目の前にいるのは、半年ほど前に忽然と姿を消した、元婚約者。
「生きて、いたのか……? 今までどこで――」
「そんなことよりラーラは!? ラーラはどこ!?」
血相を変えて叫び続けるクローディアの後ろから、クローディアよりは少し背が高く、俺と同じように銀色の髪をした男が顔を出した。
「ディア、落ち着いて。ちゃんと説明しないと」
男の言葉に、クローディアは急に冷静になって「そうね……」とつぶやき、真顔で深呼吸し始める。
「すみません、突然来てしまって。俺はクローディアの従兄弟のカロン・ラザフォードと言います。ララノアの従兄弟でもありますが」
「ああ……」
ラザフォードの名前は知っていた。
イングール魔法公国の伯爵家だが、クローディアとラーラの親戚でもある。クローディアの話の中に何度も登場する名前だった。
「あなたとディアの目論見のことは、俺も知っています。というか、ディアの相手は、俺なんです」
「あなたが?」
「はい。それに、ディアが突然いなくなったのも俺のせいです。その説明はこれからしますが、その前に」
カロン・ラザフォードは平然とした様子ながらも、どこか焦っているように見えた。
「ラーラがいないんです。どこに行ったか、知りませんか?」
*****
三大公爵家でもあるイヴォール家の長男として生まれた俺は、常識はずれの高い魔力を持ち、幼い頃から何の苦もなく思うがままに魔法が使えた。
同時に、ほんの軽い気持ちで始めた剣術が思った以上に体に馴染み、剣の鍛錬にものめり込んだ。
そうして魔法と剣術の両方に魅せられた俺は、そのままこの2つを生業として生きていきたいと思うようになる。
だが、そんなことは父であるイヴォール公爵が許すはずはなかった。
「お前は将来、この家を継ぐのだ。それ以外の選択肢はない」
実は、俺の母親は俺を産んですぐ、流行り病で亡くなっている。
その母親が今際の際に言ったらしい。「この子を跡継ぎとして立派に育ててほしい」と。
母を愛していた父は、その遺言を至上命題として生きることになった。
母の死後まもなく、周囲の勧めもあって父は再婚し、俺には弟と妹が生まれた。2人ともイヴォール家に相応しい高い魔力を持ち、魔法の才にも秀でている。特に弟のルーファスは、魔法はもちろんのこと、何をやらせてもよくできた。
「兄さんは、この家を継ぎたくないの?」
思うように生きられない俺の苛立ちをいち早く察し、真っ先に俺を案じてくれたのもルーファスだった。
「せっかく、魔法も使えて剣術も得意なんだからさ。魔法騎士とかになれればいいのにね」
「そんなこと、俺の立場でできるわけないだろう?」
「なんで? 兄さんは好きなことをすればいいよ。この家は俺が継ぐからさ」
それは、願ってもない申し出だった。
ルーファスの有能さは、学園に入学する前からその片鱗を覗かせている。賢く、理解が早く、頭も切れるし人の想いにも敏い。
弟が当主になった方が、この家のためにも、お互いのためにも意義があるように思えた。
「いいのか? お前はそれで」
「全然いいよ。むしろほら、俺って頭いいじゃん? 俺の方が向いてると思うんだよね」
生意気な口調で笑う弟が頼もしくて、その想いがありがたくて、俺自身が覚悟を決めるのは容易いことだった。
それから何度も、父に掛け合った。
しかし、父は首を縦に振らなかった。
ルーファスたちの母である継母も俺たちの気持ちを汲んでくれて、一緒に父を説得してくれようとしたが父の意志が変わることはなかった。
でもあるとき、継母がこんなことを言い出した。
「学園にいる間に、もしも婚約者が決まらなければどうなるのかしら?」
「え? ああ、学園への入学は自分に合う婚約者を探すためという側面もありますし、ほとんどの縁談は学園の在学中に決まってしまいますからね。卒業したあとでちょうど良い相手を探すのは難しいでしょうね」
「そういう人が、果たして当主として相応しいのか、ということにはならないのかしらね」
継母は何を考えているのか、妙に意味ありげな顔をしている。
「まあ、そう考える人もいるでしょうね」
「あなたのお父様はどうだと思う?」
「……どういう意味ですか?」
「だからね、学園を卒業する時期になっても婚約者が決まっていなかったとしたら、あなたに跡を継がせることを考え直す可能性があるんじゃないかしら」
「……そもそも、卒業までに婚約者が決まらないなんてことあり得ないでしょう? あの父がそんな状況許すと思いますか? 俺が何もしなくても、適当な相手を見つけてきて婚約者に据えてしまいますよ」
「じゃあ、あれはどう? 巷で話題の、断罪劇とでもいうのかしら。わざと相手に嫌われるようなことをして、婚約を破棄してもらうの。そんな醜聞まみれの人は、当主には相応しくないと思うのだけど」
「それは、俺にわざと醜聞にまみれるようなことをやれということですか?」
俺の冷めた目線に、継母はちょっとだけ肩をすくめる。
「あら、いい考えだと思ったのに」
「こちらの都合で相手を利用するようなことは、いくらなんでもできませんよ。だいたい今だって、ひっきりなしに縁談の話が来ているらしいじゃないですか」
「そうなのよねえ。三大公爵家と縁続きになりたい家は、いくらでもありますからね。でもね、もしも万が一卒業する時期になっても婚約者が決まってないとなったら、あの人は躍起になって探し回ると思うのよね。その間に、どさくさに紛れてイングールの魔法学園に編入してしまうことは多分できるわよ」
このぶっ飛んだ発想をする継母は、実はイングール出身である。
イングール魔法公国にも、この国と同じように学園がある。
ただ、この国にはない「魔法学科」と「魔法騎士科」があって、俺は学園を卒業したら「魔法騎士科」に編入したいとずっと思っていた。
そして将来的には、イングールで魔法騎士として生きていきたいと思っていた。
「卒業するときに婚約者がいたらさすがに難しいけれど、もしもいなかったら、私がどうにかしてあなたを魔法学園に編入させてあげるわよ」
「……どうして、そこまで」
「私はね、自分の産んだ子どもを当主にしたいだなんてせこいことを考えているわけじゃないの。あなたのことはこの家に来たときからずっと見てきたし、ルーファスやセラフィナと同じように育ててきたつもりです。親というのはね、子どものやりたいことを後押しすべきであって、自分の都合で子どもの生き方を捻じ曲げてはいけないのよ」
意気揚々と語る継母は、誇らしげに微笑んだ。
俺だって、この人の愛情の深さはそれなりに理解している。
だからそれほど捻くれずに、ここまで生きてこられたのだ。
「でも、そんなことして大丈夫なんですか?」
「そうねえ。それで旦那様の不興を買ってこの家を追い出されるようなことになったら、私もイングールに戻って魔導具の研究でもしようかしら」
ゆるりと笑う継母を見ながら、でもこの妙案を実行するのはさすがに無理があるように思えた。
学園に入学してまもなく、俺はクローディア・ブレイズと知り合った。
この国の学園にも、一応「魔法」の授業がある。
その授業の中で、俺たちは共に魔力が高く魔法が得意なこと、そしてお互いの境遇に共通点があることに気づく。
「私もね、小さい頃に母親が他界してるの。おかげで出来の悪い継母と妹がいて、ひどい目に遭ってるけどね」
「家を出たいと思ったりしないのか?」
「思うわよ。というか、出るつもりなの」
クローディアは茶目っ気たっぷりに笑いながら、声を潜める。
「学園を卒業したら、イングールに行くつもりなの。向こうの学園の『魔法学科』に編入して、ゆくゆくは魔導具の開発をしたいのよ」
「そんなこと、できるのか? ブレイズ侯爵は何て……」
「お父様が許してくれるわけないじゃない。言ってないわよ、こんなこと。あの人は自分たちにとって都合のいい家に私を嫁がせることしか考えてないの。あの家の家計は、継母と妹のおかげで火の車なんだから。でもね、学園にいる間どうにかして縁談を回避できたら、卒業と同時にイングールに脱出しようと思ってるのよね。婚約者がいるのにイングールに逃げたら相手に迷惑がかかってしまうけど、相手がいなければ何とか逃げ切ることができるんじゃないかって。イングールに行ったあとのことは伯父が面倒を見てくれるって言うし」
「そんなこと、可能なのか?」
「そうなのよね。どう思う?」
明らかに俺を試すような目をしながら、首を傾げるクローディア。
「あなたなら、うまいこと縁談を回避する方法が何か思いつかないかなと思って。だから話したのよ」
「じゃなきゃ、言わないわよ」なんて、確信犯めいて微笑む。
「そんなこと、急に言われたって」
「あら、学園でも3本の指に入るほどの成績なんでしょう?」
「それとはこれとは……」
と言いかけて、以前継母と話したことを唐突に思い出す。
「ちょっと待て。じゃあ、例えば学園にいる間に婚約が決まっても、卒業の時点で婚約が破談になっていたらどうだ?」
「え? まあ、そうね。悪くはないと思うけど、でもそんなこと簡単には……」
お互いの望みのために偽装婚約を思いついたのは、俺の方だった。
俺は自分の夢のために、イングールの魔法騎士科へ進みたい。
クローディアは不本意な縁談を回避して、イングールの魔法学科へ進みたい。
イングールの魔法学園への編入は、王国の学園を卒業することが条件になっていた。
偽装婚約をしてしまえば新たな縁談を阻止することができるし、そのまま無事に学園生活を過ごして、卒業と同時に婚約を解消すればいい。
そうすれば、俺は継母の提案通りイングールに行けるだろうし、クローディアもイングールに行って伯父の庇護のもと魔法学科に編入できる。
それが、俺たちの密やかな計画だった。
イヴォール公爵家・ブレイズ侯爵家それぞれに異なった思惑があったにせよ、俺たちの婚約はすんなりと決まった。
ただ、婚約の話を提案したとき、クローディアはこう言った。
「私ね、実は将来を約束した人がいるの。それが誰なのか今はまだ言えないし、その人には私たちの計画のことをちゃんと話しておきたいんだけど。いい?」
その人との将来のために、クローディアがイングールに行こうとしているということは容易に推察できた。
クローディアは俺にとって親しく話せる数少ない友人だったし、「イングールに行きたい」という同じ志を持つ「同志」でもある。
俺はすぐさま快諾した。
それから、俺たちは婚約者として、客観的にも仲睦まじく見えるよう振る舞った。
人目があるところではできるだけ親密そうに接したし、わざわざお互いを愛称で呼ぶようにした(誰もいないときには「クローディア」「アルウィス」に戻っていたが)。
婚約が決まったことで、父は俺が跡を継ぐ気になったと思ったらしい。
それからは、あれこれ細かいことは言わなくなった。
継母は俺があっさり婚約を決めたことに驚いていたけど、
「何か考えがあるんでしょう?」
と言って、静観してくれた。
とにかく、学園での数年間を無事に終えることを目標に、俺たちは偽りの婚約者をずっと演じてきたのだ。
ところが、である。
あと1年足らずで卒業というときになって、突然クローディアがいなくなった。姿を消した。
俺は混乱し、何が起こったのかを突き止めようとした。
だがクローディアからは何の連絡もなく、右往左往している間にブレイズ侯爵からラーラを身代わりにして婚約を継続してほしいとの話があった。
もちろん、はじめは断るつもりだった。
俺たちの婚約は、卒業後の「解消」が前提だったから。
俺とクローディアは最初から、そのつもりでこの計画を進めている。
でも、ラーラはそれを知らない。俺が卒業するとき婚約を解消するとなったら、いくらこちらの有責だったとしてもラーラは「公爵家との婚約が破談になった疵物令嬢」になってしまう。
婚約の継続は当然断るつもりでラーラに会って、俺は躊躇してしまった。
髪の色や目の色はクローディアと同じでも、彼女には感じたことのない熱情に支配される。
そして、ラーラを手放したくという自分の欲に、抗えなかった。
それからは、クローディアのときよりも親密に、丁寧に、大切に接するようになった。
クローディアとは学園の中でだけ親密にしていたから、学園の外で会うことはほとんどなかった。でもラーラとは、片時も離れていたくなかった。だから頻繁に声をかけ、とにかく同じ時間を共有しようとした。
そうしてラーラと過ごすうち、当然の帰結として俺の中には看過できない迷いが生じる。
ラーラと、このままずっと一緒にいたい。
でも、イングールに行くことも諦めきれない。
ラーラを手放したくないし、できれば少しでも好きになってほしい。
でも、好きになってもらって、いいのか?
俺は卒業したら、ラーラをどうすればいい?
胸の内にくすぶる矛盾や葛藤を抱えきれないまま、クローディアから何かしらの連絡があればこの状況を打開できるのではとかすかに期待した。
しかしクローディアから連絡が来ることは一向になく、夏が過ぎて秋になった。
収穫を祝う夜会が近づき、俺はラーラにドレスを贈った。
クローディアにもこれまで何着かドレスを贈ったことはあるが、
「失礼なお願いかもしれないけど、銀色にしてほしいの。彼の髪色が、あなたと同じ銀色なのよ」
それ以外の色はやんわりと拒否されて、特にこだわりのなかった俺は「そんなものなのか」と他人事のように思っていた。
でも、いざラーラにドレスを贈るとなったら、クローディアの気持ちがわかりすぎるほどわかってしまう。
どうしても、ラーラに俺の色を纏ってほしい。
髪色の銀と目の色の藍。
これほどまでに独占欲を露わにしてしまう自分自身に我ながら戸惑ったが、俺の色で全身包まれたラーラを目にした瞬間、不覚にも完全に目を奪われてしまう。
このまま誰の目にも触れさせずに連れ去りたい欲を抑えて夜会に行けば、みんながラーラの華やかさと愛らしさ、匂いたつ可憐さに振り返り、目を細める。
それを誇らしく思いつつもどうしようもなく腹立たしくて、とにかくほかの男の目線を牽制し続けた。
そうして夜会の雰囲気に乗じて、俺はラーラを愛称で呼ぶ権利を得る。
ラーラの碧色の瞳を前にすると、どうしても緊張や葛藤や愛おしさで雁字搦めになる俺はいつも表情が強張ってしまう。
でもこのときばかりは有頂天になって、何度も「ラーラ」と呼んだ。
少しだけ頬を染めるラーラに、俺は満たされていた。
冬が近づくにつれ、これからのことについて本格的に思い悩むようになった。
ラーラとの婚約を継続したまま卒業すれば、イングールに行くことは叶わないだろう。
父はすぐにでも跡を継がせる準備をし始めるだろうし、継母の案だってそもそも「卒業時に婚約者がいなかったら」が前提である。
イングールに行くのなら、ラーラとの婚約を解消するしかない。
そして俺との婚約を解消してしまっても、ラーラならすぐに次の婚約が決まるだろうということは目に見えていた。
でも、そうなってほしくない自分がいる。
答えが見つからず、思い悩む日が増えた。
矛盾と葛藤に、この身が引き裂かれそうな毎日だった。
そして――――
*****
「ラーラがいないというのは、どういうことなんだ?」
クローディアとカロンを応接室に通し、俺は居ても立っても居られない気持ちを抑えてソファに座った。
「私、『すぐ帰るから』ってラーラに手紙を出したの。聞いてない?」
前のめりのクローディアの言葉に、思わず眉を顰める。
「いつだ?」
「先週かな? とっくに届いてるはずよ。こんなことになってるなんて全然思ってなくて、この前伯父様から初めて聞いて急いで帰って来たのよ」
「こんなことって?」
「まさかラーラがうちの養子になって、私の代わりにアルウィスと婚約させられるなんて」
言いながら、クローディアは腹立たしさを我慢できなかったらしい。
「あのクソ親父、ほんと性質悪い」などと毒づいている。
「でもそれは、お前が突然いなくなったからだろう?」
俺のもっともな返しに、クローディアはハッと気まずそうな顔をして「そうよね、ごめんなさい」と小さくつぶやいた。
「元はと言えば、俺のせいなんです」
クローディアの隣に座るカロンが、思い詰めた表情ですっと身を乗り出す。
「実は俺、今年の春にイングールの魔法学園を卒業して、そのまま魔法騎士の見習いをしていたんです。でも魔物との戦いに従軍してすぐ、ひどい怪我をしてしまって……。たまたま父がそれをディアに手紙で知らせてしまって」
「だって、伯父様の手紙には『魔物の毒を受けて大怪我をしたうえ意識が戻らない』って書いてあったのよ。私もう、心配で心配で……。じっとしていられなかったの。とにかく行かなくちゃと思って、あとのことなんか考えられなかったのよ」
実際、カロンの意識が戻るまで数ヵ月を要したらしい。
いきなり現れた姪っ子に、ラザフォード伯爵はかなり驚いたという。しかしクローディアが自分とカロンとの関係を正直に話したことで納得し、そばにいることを許してくれたらしい。
「突然のことだったし、アルウィスに何も言わなかったのは悪かったと思ってる。何ヵ月も連絡もできなくて、ほんとにごめんなさい。でも、あなたならあと数ヵ月、なんとか切り抜けてくれると思ったのよ。まさかラーラを身代わりにするなんて思わなかったし。どうして断ってくれなかったの?」
クローディアの率直な問いに、俺は言葉を返すことができなかった。
一目でラーラに惹かれてしまって、ラーラを手放すなんて考えられなくなって、そのままずるずるとここまで来てしまったなんて、言えなかった。
返答に困ってどんどん顔が強張っていく俺を見て、カロンは何かを察したらしい。
「今は、それよりもラーラのことだよ」
俺がいちばん気になっていた話題に戻るきっかけを与えてくれた。
「あ、そうよね。とにかく、それでうちに帰ったきたんだけど、ラーラがいないっていうのよ。『実家のギリス伯爵家に用事ができたから行ってきます』って出て行ったらしいんだけど、叔母様は『うちには来てない』って言うの。それがもう、何日か前の話らしくて」
確かに何日か前の帰り際、「急に実家に帰らなければならなくなって、数日学園をお休みします」とラーラは言っていた。
帰ってなかったのか?
じゃあ、どこに行ったんだ……?
「ねえ、心当たりとかない?」
「……ない」
自分でもわかるくらい、不機嫌な顔になっていたと思う。
ここ数日ラーラに会えなくて、俺の生活は一気に色を失い、味気ないものになっていた。
これほどまでにラーラが自分の世界の中心になっていたことに驚きつつも、早く会いたいとそればかりを考えていたのに。
どこに行ったかわからないなんて、そんなこと……。
「ギリス伯爵家に行く途中で、事故に遭ったわけじゃないよな」
「それもね、おかしいのよ。そもそもブレイズ家の馬車を使っていないの。もちろんギリス伯爵家の馬車もよ」
「じゃあ、どうやって出て行ったんだ?」
「うちには『ギリス伯爵家の馬車が近くまで迎えに来るから』とか言っていたみたい。でもギリス家では誰も知らないって言うし。そもそも侍女も従者もつけずに出て行くなんて、おかしいと思わない?」
おかしい。
明らかに、おかしい。
「……まさか、自らの意志でいなくなった……?」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも愕然とする。
そんな、まさか。
「そうよね。もしかしてあなたがここで匿ってるのかと思って来てみたけど、そうでないのならあの子が自分の意志でいなくなった可能性も」
「そんな、どうして……」
「そんなの、私だってわからないわよ。まあ、ブレイズ家ではひどい目に遭っていたと思うから、それが嫌になったのかも。でも、それならギリス家に帰ればいいのに帰っていないのよね」
「ギリス家に迷惑がかかると思ったんじゃないのか」
「そうね、そうかもね。ただ、失踪経験者の私が言えるのはね、自分の意志でいなくなったんだとしたら行く当てがあるか、協力者がいるか、そのどちらかよ。小娘が一人でどこかに消えるなんて、本来すごく難しいことなの。誰かの協力がなきゃ、いなくなることもできないしその後の生活の保障だって」
「協力者……?」
ラーラが自らの意志で失踪したとして、それを協力できる人物がいるだろうか。
ラーラと親しく、それなりに事情を知っており、身の回りの面倒を見ることのできる地位と財力がある人物。
赤みの濃い茶色の髪の、ちょっと高飛車だが人懐っこい笑顔が、不意に頭に浮かぶ。
「……ルティエン嬢なら、何か知っているかもしれない」