3話
興平二年(西暦一九三年)一月中旬。
新帝の即位に伴う恩赦もなければ、新年を迎えた際にも恩赦は与えられず。
それどころか長安にて威を振るっていた王允やその一派が粛清されるという異常事態を受けて、諸侯は――冬ということもあり――長安の動きに注視せざるを得ない状況にあった。
しかし、何事にも例外は存在するもので……年間を通して温暖な気候に恵まれている大陸南部を拠点としているが故に北部の諸侯が動けない冬でも動きやすく、かつ長安政権と密接に繋がっているため中央の情勢を探ることに労力を割く必要がないその陣営にとって、諸侯が動けない今冬こそ躍動の機会であった。
躍動する意思があるかどうかは別として、だが。
「父上! 今こそ好機です! 諸侯が動けないうちに江夏の劉琦を攻め落とし、その勢いをかって秣陵の劉繇の首を獲りましょう!」
「……」
「戦船の数も足りていますし、兵の練度も劣るものではありません! なにより今なら劉琦に味方する者はおりませんぞ!」
「そんなことはお主に言われずとも分かっておるわ」
我が物顔で、明らかに誰かに入れ知恵されたであろう戦略っぽいことを語る息子の孫策にあきれ顔を向けそうになるも、すぐに”これも教育か”と思い直した孫堅は真摯な態度で応じることにした。
「攻め易きときに攻める。これはいい。しかし今は駄目だ」
「何故ですか!」
「冬だからだ」
「は?」
「いいか策。確かにこの季節であれば諸侯は動けん。内心では劉琦を利用しようとしている袁術とて大規模な支援はおこなえんし、劉琦を防波堤として見立てている劉繇も援軍を出すことはできないだろう」
「はい! ですから……」
「連中が動かぬのには理由がある。それは考えたか?」
「え? 冬だから、ですよね?」
「そうだ。ではなぜ冬は動かんのだ?」
「それは……兵糧の確保や輸送が難しいから、ではありませんか?」
「違う。袁術が本拠地としている豫州は荊州よりは寒かろうが、兗州や徐州よりは暖かい。豫州の生産力と多数の文官を抱える袁家の力が嚙み合えば、先年の反董卓連合で消費した兵糧の補充もそう難しいことではなかろう。劉繇が治める揚州に至っては荊州よりも暖かい。兵糧に至っては言わずもがな、だ。しかし、連中は動かん。それは何故だ?」
「……」
考えが足りない。というよりは経験が足りないのだろう。血気に逸る息子を諭すよう孫堅は努めて柔らかい声色で戦理を説く。
「冬は寒い。その寒さは用意に人を殺す。家に居れば死なぬ者も、外に出れば死んでしまう。船もそうだ。船が沈めば兵が死ぬ。冬でなければ死なぬ者も、冬では容易く死んでしまう。徒に兵を殺す将を民はどう思うだろうな」
「それは……」
「策よ。名将とは、ただ勝つだけでは足りんのだ。兵を効率よく殺す将とならねばならぬ。敵であろうが、味方であろうが、それは変わらぬ。故に、だ。天の理に反して動き、徒に兵を損ねるは愚の骨頂と知れ」
「はい……」
もちろん孫堅には劉表の子である劉琦を生かすという選択肢はない。
その気持ちは、長安の情勢が落ち着き、政権との意思疎通がしっかりできるようになったこと――正確には劉弁が劉琦に恩赦を与えるつもりがないと判明したこと――によって、より強くなっている。
ただし劉弁は孫堅に対して『一刻も早く逆賊劉琦を討て』という詔を出していない。
それは彼が冬に戦をすることの危うさを正しく理解しているからである。
(現場を知らぬ皇帝やその周囲の文官どもが『早く逆賊を滅ぼせ!』と言ってくるのならまだしも、一番戦に乗り気なのが我が子とは。教育を間違えたか? ……うん、間違えたな)
家長にして尊敬する父が内心でなんとも虚しい自問自答をしているとは露知らず。
真っ向から諭された形となった孫策は神妙な面持ちを浮かべたまま頭を垂れた。
これにて今回の騒ぎは一件落着……とはならなかった。
「しかし殿。若のいうことも一理ありますぞ」
「む?」
勢いを削がれた孫策が肩を落とす中、それまで大人しく親子の会話を聞いていた孫家の腹心・黄蓋が孫策に味方するような発言をしたからだ。
普段から自分の意を汲んだ発言をする黄蓋が珍しく反論してきたことを意外に思った孫堅。そんな彼の表情を見て“話を続けてもいい”と判断した黄蓋は、持論を展開する。
「冬に動かぬ理由としてはわかります。兵とて家に帰れば家族が待つ身。言い換えれば彼らも我らが護るべき民であります故」
「そうだな」
まさしくその通りである。
彼らは将の都合で浪費していい存在ではないのだ。
「また、我らは前任である劉表一派を駆逐したばかり。殿の武力は理解していましょうが、政に関してはまだ手を付けたばかり。そのため人心は未だ落ち着いておりませぬ」
「うむ」
荊州を平定するにあたって、劉表に従っていた者たちの大半は戦死した。
残った者は、降伏するか、野に下った。
この中で降伏した者は問題ない。
何故なら降伏した者は己が命と権益を護るため一心不乱に働いているからだ。
現状、孫堅に背くことは漢に背く行為である。
そのことを理解しているが故に、彼らが裏切ることはないのである。
尤もそれは『長安政権が盤石であること』と『長安政権と孫堅の間に亀裂がないこと』が前提となるが、今のところ両者の間が決裂する要因はないので、問題視する必要はないだろう。
問題なのは、野に下った者たちだ。
彼らは今、荊州の各地に散って反孫堅の気運を高めようとしている。
この状況で無理に出兵をしようものなら、連中はこれ幸いと騒ぎ立てるだろう。
元々劉表に仕えていた者たちは、名家の者や地元でそれなりの立場であった者が多い。
彼らが地元に帰り、郷や邑に住む民へ声をかけた場合、民がその言葉を鵜呑みにしないとは限らない。
その上、冬に徴兵が行われるとなれば、民が抱く反感は一気に膨れ上がるだろう。
結果、孫堅を恨む者たちに扇動された民が敵となる可能性が極めて高いのである。
その多寡を問わず、後ろに敵を抱えた軍は弱い。
江夏に攻め寄せてきた孫堅の攻撃を耐えつつ、後方をかき乱す。
その混乱を鎮める為に孫堅が撤退したそのとき、全軍を挙げて襲い掛かり孫堅の首を獲る。
これが劉琦に残る数少ない起死回生の策であった。
当然、孫堅は劉琦たちの狙いを理解している。
孫子に曰く『勝つべからざるは己に在るも、勝つべきは敵にあり』
大事なのはまずは己が負けない状況を作ることであり、次いで敵が隙を作るのを待つ。敵が隙を見せたらそれを突いて、勝つべくして勝つ。
これこそが兵法の基本であり極意なのだ。
それに鑑みれば、今孫堅が兵を出すことは、劉琦側に勝つ隙を見せることに他ならない。
徒に『敵の狙いが見えているのだから、後方に信用できる将兵を配置した上で攻め続ければ勝てる』などとというのは、戦の後の政を無視した妄言でしかない。
先ほど孫策が訴えていたのがそれだ。そう思ったからからこそ即座に否定したのだが……。
「逆に考えましょう。反乱を起こされてもいい、と」
「なに?」
「現状。荊州の各地へ散った者どもを根こそぎ討伐することはできませぬ」
「うむ」
あくまで表面上の話ではあるが、孫堅に降伏せずに野に下った者たちは帰農しただけであって、孫堅に背いたわけではない。むしろ農家として国力の向上や民の慰撫に尽くそうとしている立場である。
そんな者たちを『過去に劉表に仕えていたから』という理由で処罰することは……まぁ不可能ではないがやるべきではない。
しかし、このままにしておけば、時間が経過するとともに反孫堅の気風が高まるだろう。
「敵が劉琦だけならなんとでもなりもうす。しかしながら、袁術や劉繇。特に袁術の支援が入ればその限りではございませぬ」
「そうだな」
孫策からすれば最初から弱腰なのは武官としてはどうかと思わないでもないが、生粋の武官だからこそ黄蓋は、豊富な人員を抱える袁家が本格的に支援に回った場合、どのような手段を用いてくるか予想ができないのだ。
予想ができない敵は警戒すべし。
これもまた兵法の基本である。そうであるが故に黄蓋は袁家を恐れることを恥じるつもりはないし、孫堅もまた黄蓋を責める心算はない。
「予想ができないならば、予想できることからさせるべきではありませぬか?」
「なるほどな」
袁家の動きは予想できない。しかし劉琦の動きは予想できる。
「敢えて後方に乱を起こさせ、それを鎮圧する、か」
「御意」
この場合、本来は総大将であるはずの孫堅が囮となり、残った方が本隊となる。一歩間違えれば孫堅の命が危ぶまれる策だが、そこは影武者を立てるなり、即座に退けるような位置で待機するなり、いくらでも応用が利くので問題はないだろう。
時期も悪くない。
諸侯が動けない今、荊州内部で蜂起した連中を助けることができる者はいないからだ。
劉琦が踏み込んできたら? 誘い込んで叩けばいい。
長江の守りを捨てた小僧など鎧袖一触で滅ぼすことができる。
つまり敵は、劉表の配下に扇動されただけの民兵崩れにして烏合の衆。
それらは後ろで騒がれるから厄介なのであって、正面で捉えることができればただの雑魚へと成り下がる。
また、雑魚を討伐する際に圧倒的な武威を見せつければ、蜂起に参加はしなかったものの内心では孫家の統治に反感を抱いている民も考えを改めざるを得ないだろう。
(一手で不穏分子の炙り出しと支配力の強化をすることができる。ついでに兵の訓練と息子を筆頭とした主戦派の願いを叶えることもできる、か。あぁ、長安へ忠義を示すという意味合いを持たせることもできるな)
勝率、費用対効果、共に問題なし。
将帥としても州牧としても異論なし。
「……悪くない」
「では?」
「うむ。黄蓋の献策を採用する。策」
「はい!」
「諸将に劉琦討伐の支度をさせよ。その際に先ほどお主が言った口実を言い広めることを忘れるな」
「戦船の数も足りていますし、兵の練度も劣るものではない。なにより今なら劉琦に味方する者はいない、ですね?」
「そうだ。俺が言えばどうしても不自然さが表に出るだろうが、お前なら問題あるまい」
「殿は演技が下手ですからなぁ」
「やかましいわ」
「わかりました! せいぜい騒いでご覧に入れましょう!」
「……うむ。任せたぞ」
「はい!」
(腰が軽すぎる。年齢のことを考えれば仕方のないことかもしれんが……)
腹心を小突きつつ後継者の在り方を心配する男、孫堅。
戦、政、そして子育てと、彼の頭を悩ませるものは一向に減る気配を見せていなかった。
閲覧ありがとうございました。