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偽典・演義2  作者: 仏ょも
新章
2/52

2話 プロローグ②

とある日、具体的には楊彪が非情な決断を下した翌日の朝のこと。

執務室に設けられた机を埋め尽くさんばかりの書簡を前にして言葉を交わす主従の姿があった。


「……凄い量だねぇ」


執務室の長にして最近になって長安に入ったばかりの皇帝劉弁その人が呆れた声を挙げれば。


「そうですな」


周囲から彼の腹心と見做されている少年、司馬懿が無表情のままそう呟く。


色々と規格外な師に鍛えられたことで、二人はこの歳にして一般的に優秀と言われる文官と同等の能力を有している。そんな優秀な二人であっても、彼の老人が取った行動とその決断の早さは想像の埒外にあった。


「うーん。一度は王允に阿ったとはいえ、同じ名家。てっきり恩赦を求めて来るかと思ってたんだけど……まさかこっちが処分をし易くするよう連中が犯した悪事の証拠を送ってくるとはねぇ。流石は四世太尉の家。親子揃って抜け目ないなぁ」


「御意。このような真似をされてしまっては、如何に陛下とて彼らを裁くことはできません」


「だよねぇ。はぁ。庇い立てするようなら一緒に処理できたのに……」


「逃した魚の大きさを嘆いても仕方ありません。今回は王允派を殲滅することに注力しましょう」


「まぁ、そうするしかない、か」


これまでであれば、皇帝が即位した際に恩赦を出すのは当たり前のことであった。


そして恩赦を与えられた者は涙を流して感謝し、新たな皇帝に忠誠を誓う。

それが儒の教えに沿った行いであり、今までの通例であったからだ。

しかしながら劉弁には罪人に恩赦を与える心算など毛頭なかった。


劉弁からすれば『何故わざわざ自分に敵対心を持つ存在を野に放たなければならないのか?』と本気で疑問に思っているくらいである。


その根底にあるのは、名家や宦官に対しての不信であり不審であった。


実際、先代劉宏も即位した際には多くの者たちに恩赦を与えていた。

だが、恩赦を与えられた者の中に皇帝に忠義を誓った者がどれだけいただろうか?


忠義を誓うどころか、誰も彼もが劉宏を『宦官の走狗』としてしか見ていなかったではないか。


尤も、恩赦の対象になった者の大半が先々代である桓帝劉志が宦官と共に行った政治的弾圧によって拘束されていた者たちであったことを考えれば、即位する前から宦官の傀儡でしかなかった劉宏に忠義を誓う訳がないのだが。


彼らの心情はともかくとして。


劉弁が恩赦を与えるとすれば、その大半が袁家の関係者や王允の関係者となる。


もし彼らに恩赦を与えたとして、だ。


恩赦を受けた彼らが劉弁に忠義を誓う可能性はどれだけあるだろうか?


答えは、皆無。ゼロである。


元々彼らは捕まった後――それも確たる証拠を突きつけられた後――も”自分に罪など無い!”とわめきたてるような連中である。


こういった連中は自分が悪いことをしたという自覚がない。

むしろ”冤罪を着せられた!”と本気で考えているだろう。


そんな連中を解放したらどうなるか。


現政権に対し恨みを抱いた連中は、感謝をするどころか隙あらば劉弁の足を掬おうとするはずだ。


それこそ史実に於いて董卓によって重用された者たちが一斉に叛旗を翻したように。


反逆されることが目に見えているからこそ、劉弁は恩赦を与えようとは考えていないのである。


なんなら、いっぱしの儒者面をして恩赦を与えるよう促してくる俗物を炙り出し、そいつ本人だけでなく周囲にいる連中も獄に繋いでやろうとさえ考えていたくらいだ。


しかし、その計画は楊彪の行動によって頓挫することになってしまった。


「……これ以上は釣れないよね?」


「でしょうな。すでに名家の間では楊彪殿が王允派の恩赦を望まず、逆に彼らが犯した罪の証拠を提出したことが広まっているでしょう。派閥の領袖である楊彪が袁家関係者の恩赦を求めず、その上で王允派の切り捨てを行ったことが知れ渡れば、もう彼の派閥に属している者が恩赦を訴えてくることはありません」


今の長安において、楊彪の意に反して行動できる人間は多くない。


その中の最大派閥――今は弘農派と呼ばれる派閥――に属する者たちは、王允や袁家に所縁のある人物に恩赦を与えて欲しいとは思っていないので、恩赦の陳情をするはずがない。


残るは家族や親族の誰かが王允に擦り寄っていたため割を食うことになった小物くらいだが、そんな連中の陳情を聞き入れてやる必要などない。


「しょうがない、か」


楽しい愉しい釣りの時間は終わり。

これからは垂らしていた釣り糸を引き上げて、これまでに釣った獲物を処理する時間である。


「それほど時間を必要としないのが救いですな。煮ても焼いても食えぬ魚を捌くのに必要なモノは目の前にあります故」


「まぁね。それにしても……凄い量だよねぇ」


「……そうですな」


ついさっきも同じこと口にしたが、その中に含まれている感情はまるで違う。


一度目のそれには楊彪の決断と動きの早さに対する感嘆する気持ちがが多分に含まれていた。

だが、二度目のそれにはそういった感情は一切含まれていない。

あるのは侮蔑と呆れだけだ。


なにせ、現在執務室の机を押しつぶさんとしている書簡の中には、王允に擦り寄っていた連中が犯していた悪事の数々が記されているのだ。


しかもこの書簡は名家を代表する楊彪が纏めたものである。

当然名家の常識である中抜きなどについては相当度が過ぎたもの以外は記載されていない。


よってこの書簡に記載されているのは、楊彪でさえ『それは駄目だろう』と判断した罪を犯した面々である。


もちろん、こうして告発されるのは王允派を始めとして、楊彪が”邪魔”と判断した者たちに限られるが、それでも結構な数である。


これを前にしてはさしもの劉弁も『よくもまぁ僅か数年でこれだけの悪事を積み重ねたものだ』と苦笑いするしかない。


「とりあえずこの書簡に名が載っている連中は確保して。……絶対に逃がさないでね?」


「はっ」


これらが、今も司直の手から逃げ延びている連中を罪人として処理するためにとても役に立つ資料であることは間違いない。


それどころか、現役の司空が提出してきた書簡というだけで、ここに名が記されている者を拘束する法的根拠としては十分な価値がある。


よってこれが既存の名家の数を減らしたいと考えている劉弁にとって、追い風となるモノであることも認めよう。


だがしかし。劉弁は名家を信用していない。


当然名家閥の領袖となった楊彪も信用していない。


というか、袁家と強い繋がりのある楊彪こそ誰よりも仕留めたい存在である。


そんな楊彪が提出してきた書簡を完全に信用するはずがない。


自分に都合の悪い者の名を載せていないのは当然として、楊彪の派閥に所属している連中が犯した罪を擦り付けている可能性だってある。


そのため劉弁は、目の前に積まれた書簡を『名家の連中を罪人として確保するための証拠』として利用するものの、それによって確保された面々を即座に処分するつもりはなかった。


尤も、処分はしなくとも『取り調べ』はするのだが。


「尋問は……李粛と張済に任せようかな。中途半端に長安に詳しい役人にやらせると、背後関係次第で手心を加えそうだし。彼らなら楊彪の関係者相手でも喜んでやってくれるよね?」


「ご英断かと」


元から長安にいた面々の中で最も劉弁が信用しているのが、彼らに『辺境の狗』と蔑まれていた董卓旗下の武官たちだ。


彼らは確かにガサツなところはある。

礼儀や作法に疎いし、不満があれば暴力沙汰を起こすような気の短さもある。

だがひとたび武力行使に及んだ際の成果は多大なものがあるし、名家のことを屁とも思っていない。

何より上官には逆らわない。


対名家用の駒として見れば、これほど理想的な駒もないだろう。


ただし彼らにとっての上官は、現在郿にて先日行われた戦の後始末を監督している董卓であって、劉弁や司馬懿ではない。


故に、捕縛命令や尋問の依頼を断る可能性もあるのだが……現在彼らは上官である董卓その人から直々に余程不条理な命令でない限り司馬懿や劉弁の命令――特に司馬懿の命令――には絶対に従うよう厳命が下っているし、名家の捕縛や尋問は彼らにとってご褒美のようなものなので、喜々としてやってくれるだろうことは想像に難くない。


「親征の前に処理できるところは処理しておかないとね」


「御意」


……党錮の禁のように、宦官の策謀によって獄に繋がれることと、皇帝の意思により有無を言わさず捕えられ、苛烈な尋問を受けること。


どちらが名家にとってより屈辱なのかはわからない。

分かっているのは、一度罪人として確保された彼らが返り咲くことはない、ということだけである。

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