1話 プロローグ
先帝劉宏の死去に始まり、宦官による大将軍暗殺。軍部による宮中乱入。皇子の逃亡。反董卓連合の発足。遷都。羌・胡の襲来。そして司徒による売国活動の発覚とその粛清。
これら諸々のことが、僅か二~三年という短い期間に引き起こされるなど誰が想像できたであろうか。
これまで権力の絶頂に在った者が次の日には罪人として捕らえられるという、非日常的なことが日常化する中で役人たちは誰に味方すれば良いのか、または誰に従えば良いのかと必死に考えを巡らせていた。
そんな彼らの多くが頼ったのが、現役の司空にして四世太尉の家として知られる弘農楊家が当主、楊彪であった。
楊彪は成り上がり者の王允と違ってむやみやたらと敵を作ったり、その敵を借り物の武力で粛清したり弾圧したりしなかった。
また、明らかに臣下としての一線を越えていた王允の企みに乗らず、それどころか証拠付きで報告をしたことで新帝から一定の信を得ているという情報もある。
加えて彼が率いる一派がいなければ新帝の政が成り立たないことは明白であった。
それらの事情も相まって、今や楊彪の家は名家たちにとっての駆け込み寺のような様相を呈していたのだが……。
興平元年(西暦一九二年)一〇月中旬。
司隷京兆尹・長安
「この期に及んであのように騒ぐとは何事か。末期を穢しおってからに」
この日も自宅に押し寄せていた客人の波を捌いていた楊彪は、王允が健在のころは彼に阿り権力が齎す甘い蜜に溺れていたくせに、いざ自分の番となると先を競って助けを求めてきた連中のことを思い返し、心底蔑むような口調で独り言ちた。
端的に言って楊彪は彼らを助ける心算などなかった。
無論名家にとっての至上命題は家を遺すことである。そのため彼らが生き残りをかけて足掻くのは、足掻いた先に楊彪を頼るのは決して間違った行為ではないとは思っている。
しかし、しかしだ。
「時期が悪すぎるわ」
通常であれば、新帝の即位に伴って恩赦が施されていたかもしれない。
だが、先だって弘農にて行われた朝議に於いて恩赦を施すという詔は発せられなかった。
何故か。王允が犯した行いが、赦される一線を越えていたからだ。
結局、売国の徒となった王允とその一族は有無を言わさず極刑となったし、王允に近しかった者たちもまた適時捕縛するよう命令が出ている。
要するに新帝が政を行う前に不要なモノを排除しようとしているのである。
このような状況で彼らを庇うような真似をしたらどうなることか。
「待ってましたと言わんばかりに儂らも捕縛されるじゃろうな」
新帝にとって自身に力があるだけでなく袁家とも繋がりがある楊彪は不穏分子でしかない。
それを理解しているからこそ、楊彪は動かない。
配下の中には『今こそ派閥を拡大させる好機ではないか!』などと騒いでいる者もいると聞くが、そんな甘言に乗るほど楊彪は若くはないのである。
「それに、だ。足掻くにしても足掻きかたというものがあるじゃろうが」
武官であれば“潔さ”とでも言うのだろうか。
武運拙く敗れたのであれば、あとは大人しく首を刎ねられるのを待つべきだろう。
理想を言えば処刑が執行される前に部下や主君の身を案じる器量があれば尚良し、だ。
そうした潔さが、それを育てた親や家族、ひいては家の名を高めるのだ。
翻って自分に縋りつく連中はどうだ。
『家は遺したい、でも自分は死にたくない。金は払いたくない、嫁や子供なら差し出してもいい』
「醜悪」
この一言に尽きる。
確かに儒の教えでは家長が大事とされている。その一面だけを切り取って考えれば、家長を生かすために子や嫁を斬り捨てるのも間違っていないかもしれない。
しかし楊彪からすればそれは、間違いである。
「己が選択を誤ったのであれば、己の命で賄うのが筋であろうが」
結果に対して責任を持つのは、決断を下した者である。
家長が大事だからこそ『家長の命で以て罪を償う』という手法に一定の価値が生まれるのだ。
それらを厭い、己が決断の責任を他人に擦り付けるような人間が信用できるはずがない。
「信用できない者を助ける理由がどこにある?」
そもそも今頃になって助命を嘆願してくる連中など、時流の読めない愚か者だ。
「どうせ“皇帝は子供だから”と舐めたのじゃろう? “何を言われて王允が庇う”と信じておったのじゃろう? 阿呆どもめが」
皇帝本人が子供だからなんだというのだ。
その周囲にいる人間まで子供だとでも思っているのか?
一歩間違えれば袁家であろうと楊家であろうと潰されていたあの時代を知る楊彪からすれば、皇帝が幼いことを理由に好き勝手するという王允一派の思考が理解できなかった。
「先帝がまだ生きていた頃、全盛期に近い状態に在った名家閥が警戒していたのは誰だ? 皇帝であった劉宏か? それともその子供の劉弁や劉協か? 皇族の中でも長老格であった劉虞か? どれでもない。愚帝の傍に侍る宦官どもと、外戚として権力を得ていた肉屋の小倅ではないか」
それに鑑みて、だ。現在皇帝の傍に侍るのは誰か。
それは名家閥の主流になれなかった者たちを糾合して、独自の文官集団を形成し肉屋の小倅に過ぎなかった何進を大将軍に仕立て上げた男だ。
それは何進亡き後、名家の中でもさらに名の知れた家である荀家出身の荀攸や、圧倒的な武力で以て二〇万を号した反董卓連合を歯牙にもかけずに追い払った董卓を顎で使うような男だ。
それは誰もが董卓と反董卓連合の戦いに目を向けていた最中、董卓さえも想定していなかった遷都を強行し、それを成功させた男だ。
それは反董卓連合が瓦解していくのを横目に、新帝による体制作りを行い、その片手間で王允を誅殺することができる男だ。
「というか、アレは最初からこうするつもりで王允を司徒にしたのだろうな」
王允が司徒になったとき、楊彪は『なぜ王允?が』と疑問に思ったものだが、結局『十常侍と敵対していた(王允は当時権力の絶頂に在った張譲らを糾弾している)ことで名が売れていたうえ、洛陽に伝手がないことから操りやすい人間を選んだんじゃろう』と考え、そこで思考停止してしまっていたのだが、事ここに及べば理解できる。
「君子不近刑人。一廉の者は己から危うきに近づかぬ。逆に言えば、あれに近づく者は使い物にならんということ」
なんのことはない。王允は生き残った者をさらに選別する為に利用されたのである。
あの、誰もが先を見通すことができなかった混乱の極致とも言える状況に於いて、ここまで先を見据えて動いていた男を警戒しないなんてことはありえない。そう、ありえないはずなのだ。
「しかし、実際はどうじゃ?」
恐ろしいことに、長安には未だに彼を『幼い皇帝の腰巾着』と軽視する人間がいるのである。
それこそ自身が形成している派閥に所属している者の中にだって同じことを宣う阿呆がいるのだ。
なんなら劉弁と共に長安へ入らなかったことで『皇帝から見捨てられた』という評判さえあるらしい。
なんと愚かなことか。
「……恐ろしい男よ」
知らなけらば、警戒できない。
知らなければ、逃れられない。
知らなければ、殺せない。
楊彪は、手の届かぬところにいる策士の恐ろしさを誰よりも理解していた。
敵対しようなどとは思わない。それ以前に、敵対しようとしていると疑われることすら避けねばならない。
「李下に冠、瓜田に履。配下の者たちにも徹底させねばならん」
数日後、劉弁の下に大量の書簡が届けられることになる。
そこには王允派と目されていたものの、証拠が不十分で捕縛できなかった者たちが犯していた罪を記した書簡であったり、捕縛に向かったものの、すでに家を捨てて逃げていた者たちが潜伏している場所を記した書簡であったという。
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