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 あれは何時の事だったか?


 庭先に不審な気配を感じた瞬間、隣の猫が隠れていそうな場所へ右手の園芸用スコップを投げつけてやった事がある。


 うん、手ごたえはあったよ。確かにあったと思うが、ネコも然るもの。まだ懲りないようだ。

 

 仮に、だ。


 もし相手がケダモノじゃないなら……例えば、隣の爺ぃなら……ここは一丁トコトン探して、懲らしめたろか?






 腹立ち紛れに胸ポケットの老眼鏡を掛け、辺りを見回してみる。


 家の正面、所々アスファルトが剥げた路の向い側は雑草が生い茂る原っぱだ。その隣は荒れた畑、その横には破れが目立つビニールハウス。ちょっと身を隠す場所なら幾らでもあるが、隠れ続けるには向かない。


 何しろお隣の家は50m以上、道路の先にあるのだ。こちらの隙をついて爺ぃがトンズラできる距離じゃない。


 或る意味、ポツンと一軒家。まぁ、我ながら良くこんな、でれ~田舎に住みてぇと思ったもんじゃが……


 今更、虚しいだけのぼやきを、基弘は口にした。誰に文句を言う筋合いも無い。ここへの移住を決めたのは彼自身だ。






 2009年、いやいや平成21年と言った方が、基弘にはピンとくる。


 長年勤めた地元の酒造会社を定年退職、会社の独身者用借り上げ社宅から出なければならなくなった。


 で、新たな住処を岡山市内で探した訳だが、その頃、彼の預金通帳には退職金を除いても一千万円程の残高があった。


 酒は飲めない。ギャンブルは嫌い。女遊びなんて柄じゃない。ただ真面目にコツコツ働く事だけが基弘の取り柄である。


 おかげでなけなしの退職金を取り崩さずとも、二月に一度の年金と合わせ、ソコソコ暮らせる程度の老後資金を貯められている。


 退職時には課長待遇だった。


 課長職につけた訳では無く、あくまでヒラの課待。就職当初は営業志望だったのに、入社三年目から経理に移され、退職のその日まで数字をいじってばかりいた。


 同期で唯一の友と言える三枝という男が、出世にマイナスの離婚を浮気絡みで三度も繰り返しておきながら、部待の営業次長まで行ったのと対照的だ。


 基弘の人生において、基本的に女っ気は極めて乏しく、家族を作る意欲が薄い上、その機会にも恵まれていない。


 焦らなくとも、いずれ、なんとかなる。


 そう思い込み、変化に乏しい日常を繰り返す内に何時の間にか時が過ぎ去って、気が付くとすっかり老いぼれていた。


 正に光陰矢の如し。青年老いやすく、とは良く言ったもんだが……


 ぶっちゃけ、俺ぁ人生をしくじった。


 その自覚があるから、退職後は隠棲するつもりだった。この際、惜しみなく貯金をつぎ込み、人の干渉が少ない場所へ引きこもって、じっくり趣味を追求してみたい。


 気分は樽のディオゲネス。


 やりたい事なんてまだ何一つ思いつかないが、退職後は腐るほど時間が有って、有り余る。焦らなくても、いずれ、趣味なんて見つかるだろう。


 そんな気持ちで市内の不動産屋を巡り、格安一軒家の売れ残りを紹介されて、悪くないと思った。辺鄙な分、誰の干渉も無く、自由気ままに過ごせる筈。


 でも、その予想に反し、最低限のリフォームの後、移り住んでみれば近隣の絆が意外と強い土地柄だった。


 50メートル以上の距離をものともせず、町内会の催しだの、回覧板の当番だの、誰ぞ首を突っ込んでくる。


 ご近所トラブルなんか真っ平だから、当り障りの無い距離感を保ち、付き合いは妻に任せていたけれど、その妻の死後、基弘自身が対処せざるを得なくなり……






 え~、その後はどうだっけ?


 不確かな記憶を辿り、矛盾しがちな前後の辻褄を合わせるべく呻吟していると、又、垣根の方から何か動く音がする。


 戻ってきたのか?


 あぁ、もう、人やら、猫やら、どいつもこいつもひょんなげな……この庭は、お前らのトイレじゃねぇぞ。


 鬱陶しさに天を仰ぐと、皇帝ダリアの花弁が目に入る。


 妻の声で「気にし過ぎよ、あなた」とたしなめられた気がした。


 性分なんじゃけ~、しゃんなかろ。


 花弁の中の面影へ自嘲気味に語り掛け、苛立ちは一先ず棚上げにした。いつも通りホースを仕舞い、縁側から家の中へと戻る。






 狭く、彼方此方に埃が積もっている居間にはテレビとテーブル、それに妻の仏壇があるだけだ。


 庭いじりの後、基弘は決まって仏壇へ手を合わす。


 写真の妻はダリアに浮んだ面影と同じ、穏やかな優しい笑顔で夫を迎えた。


 一人暮らしだと時間の間隔が自ずとおろそかになる。写真を見つめていると、亡くなったのが昨日のように思えてくる。


 死の間際、妻は苦しんだ。


 がんが肺に移転し、闘病が続く間、かぼそい息遣いで堪える横顔が基弘の胸に焼き付いている。


 握った手の指先から、力が失せていく瞬間の、あの真っ黒い絶望感だけは何時まで経っても一向に薄れてくれない。


 あれから、どれくらい経ったのか?


 生きてくれと願い、もう駄目だと思ってからは、楽に逝ってくれと願い……己の心が軋み、壊れていく実感を、幾度、基弘は噛みしめただろうか?

 

 もう一度、お前と会えたら、やり直せるなら、俺ぁ、もう何にもいらねぇよ。


読んで頂き、ありがとうございます。

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