利己的遺伝子の論理
○○の論理シリーズです。
結論。
遺伝子は利己的である。
さて、すでに「文化遺伝子の論理」なんて書いているので、暇があったら読んでもらえれば。
今回は、遺伝子の利己性について語ります。
「文化遺伝子の論理」では前提として織り込んでしまっていますが、遺伝子は己を未来に伝え遺す機能を持つものですから、自明的に利己的です。己と他は明確に区別され、己が最優先。己ファーストです。
遺伝子が意思を持っているわけがないだろう、と言う人もいます。
遺伝子はもちろん「利己的に振る舞おう」なんて考えはしません。
今に生き残っているだけです。
私は宇宙の始まりから今と未来を見ようとしています。
今存在する遺伝子が膨大な過去の上に立つ生き残った遺伝子であることは現実であり、その性質を知ることが、これから先の膨大な未来の上に生き残る条件であると考えています。
その性質が遺伝子の原理である利己性と考えるものです。
利己的に振る舞うことが善であるか悪であるか、なんて倫理的判断はありません。
利己的行動が他にとって利となるか損となるかも二次的なものであり、己にとって利であることが利己的遺伝子の選択になります。
しかし、共通の今を生きる他が二次的に損となる因果が明白である場合、利己的行動が他によって阻害されます。それが他にとっての利己的行動です。
このため、利己的であるためには、他を無視できません。
これは「囚人のジレンマ」を例にすればわかりやすい。
仮に非利己的に振る舞うならジレンマはありません。自己犠牲一択です。
でも、利己的である前提では囚人のジレンマに正解が出せません。
ここで登場するのが「繰り返しの囚人のジレンマ」という命題です。
相手の出方がわからず一発勝負のジレンマと異なり、同じ選択肢であっても2回目3回目と繰り返して選択するジレンマです。
同じ時間軸上にいる存在は、1回の対峙で終わることは少なく、同じような選択を何度も繰り返すことが多いものです。そして繰り返すということは、それまでの結果を踏まえた選択が出来るようになるということです。
例えば、相手が信頼している状況で裏切れば大きな利得が得られます。相手は大きな損が出ます。この1回だけを見れば、利己的選択として裏切りは正解だったと言えますが、現実には次があります。
裏切られて損を出した相手が、次も信頼してくれるでしょうか。同じ裏切りの選択をした時、今度は高確率で相手も裏切ります。大きな利益を出した選択が、次には大きな損を出します。
さらに次はどうでしょうか。
この実験は世界中で検証されています。
そして容易に想像できるのは、1回の最大利得よりも相手に損をさせない継続する小さな利得が有利であるということです。詳しくは「繰り返しの囚人のジレンマ」でググってください。
で、何が言いたいかというと、利己的にふるまうならば、他に損をさせない、己と他の利益の和が最大となる関係性を築くことが利己的振る舞いとして最適である、ということです。
このジレンマで非利己主義として振舞うならばどうでしょう。
常に裏切られることを恐れず友好の姿勢を示し、周辺からも信頼を得られ、互いに信頼を繰り返す関係が築けることでしょう。
でも、裏切る選択をした相手がいた時にどうなるか。非利己主義は裏切る相手に対しても友好を示します。なぜなら非利己主義は自らの損失を顧みませんし、現実に相手はそれによって利益を得ます。それを見てオカシイと考えるのであれば、それは見返りを期待しての信頼であり、非利己主義とは偽善であったと言えるでしょう。
そして、他は非利己主義を裏切ることが最大利得と気づきます。
そこからは非利己主義は滅亡へ一直線です。
だから、今残っている遺伝子は利己的だと説明できます。
この利己性は遺伝子が未来に遺し伝えるために必要な性質です。
そして、私の言う文化遺伝子も同じことだと考えます。
ここで、利己的であるから利他的行動ができないとか、利己的であるがゆえに排他的であるなどという誤解をしてほしくない。
利己的であることは行動原理となりますが、その行動が他の利益になるかどうかは問題となりません。結果として己の利となれば、他が利益を得たとしても損をしたとしても関係がありません。第三者から見て利他行為であるかどうかは関係がありません。
例えば「人助けをする」という行為は、単純に利他行為であるようですが、繰り返しのジレンマの例のように、その行為で己の利が失われない、もしくはほとんど失われないのであれば、次のターンでは己の利になる確率が上がるわけで、典型的な利己的行為と言えます。
では、なぜ利己的な人間が「人助けをしないのか」という単純な疑問にぶつかります。
それは、利己的であるがゆえに、次のターンに期待が出来なければ僅かでも己の利が減るような行為は避けるからです。
社会の変化を見て、昔は利己主義は批判され非利己主義こそが日本だったと思う人もいるようですが、これは誤りであると私は考えています。
人間はそんなに変われません。
昔は世界が狭く、ご近所や村のルールに沿わない行動は命取りであり、お互いに助け合わなければ死ぬほど不安定な世界でした。そんな中で他を尊重しない利己的行動を続けるならば、弾き出されてしまいます。助け合うのは自分の為だったと解釈するべきです。
今の世界は違います。ご近所という考え自体が希薄であり、隣の家の名前すら知らないような人間関係の中では、繰り返しのジレンマの繰り返し自体が期待できない状況にあります。また、助け合わなくても生きられる程度の安定した社会でもあります。
つまり、「人助けをする」という行為から得られる損益の分岐点が大きく変わったためと説明できます。
実際に小さなコミュニティに参加するのであれば、メンバーの不利益を避けますし、困っている人を助けるでしょう。それは参加者である己の利になるはずです。
その上で、世界を見渡してほしいと考えます。小さなコミュニティだけの問題ではなく、どんな小さな行動であっても、世界と無関係ではないことを知ることで、世界というコミュニティの一員である人間として「人助けをする」という選択が、己の利益になることを知ってほしい。
SDGsなんかはその典型です。多くの国と共有した文化遺伝子です。
未来のため、とは、貧困国を助けることではありません。自分自身の未来のためであると理解するべきです。
もちろん、世界の為に自分を削るべきではありません。自分が幸福になることは、人類の一部が幸福になることであり、人類全体にとっての利益です。
自分を守った上でできることをする。無理をして助けようとして自分が壊れるようなことがあっては本末転倒です。それが利己的遺伝子の強さです。
宇宙の始まりからの膨大な時間の上に存在する今
宇宙の変化の一部として生まれた人間
これまでの物質、遺伝子のふるまいを理解することで、未来をどう考えるか。
なんてことを考えるピースの1つの論理の欠片になると考えています。




