文字が見える
平和な一週間が経ってしまった。またあの憂鬱な時間の始まりだ。
あの後エディとの会話を楽しんで気分が晴れたのに家に帰ったら兄が殿下のフォローをしてきた。素直になれないだけとか本当は私を大切にしたいとか、散々聞いた戯言である。
「仮に心の中でそう思っていても態度に出さなければ同じ」
と兄を黙らせる私の言葉も毎度の台詞だ。
そう、態度に出さなければ思っていないのと一緒である。私は兄やエディと違い甘くない。
「入れ」
ノックをすれば一週間前と同じ声色の返事。ほら、どうせ彼は何も変わらない。
「時間をかけるな」(ああ、何を言っているんだ私は)
…………。
………………。
……………………え?
扉を開ければ文句が出てくるのはいつも通り。しかし一週間前は……というか、十年間彼の頭の上に文字が見えたことはない。何度か瞬きしてみるが消えない。
この世界に魔法はある。あるけれど、こんな魔法は聞いたことがない。
扉は閉めたもののそのままソファーに移る気にはなれなかった。
「殿下?」
「何だ?」(また殿下と呼ばれてしまった……。エディのことは名前で、しかもあだ名で呼んでいるのに、私のことだけ……彼女に名前で呼ばれたいし私も彼女を名で呼びたい)
長い。じゃなくて。何これ?
(メリッサ、今日も可愛い。いつまでもここにいたい)
は? 思わず目頭を押さえる。覚えていないが私は昨夜夜更かしをしただろうか。疲れているのだ、きっとそうに違いない。
「何だ、どうしたいきなり。失礼だぞ」(どうしたのだろう。心配だ。彼女に何かあったら困る)
……ちょっと処理できない。キャパオーバーだ。
「…………すみません、殿下。本日は少々体調が悪いようで……その、休んでもよろしいでしょうか」
「体調管理ができていないなど愚の骨頂だな。まあいい、私も仕事がある。さっさと出ていけ」(私の一日の楽しみが……。しかし彼女の健康が第一だ。大事がないといいが……)
頭がくらくらする。うっとうしそうに手を払う殿下を見ても何とも思わない。
何だあれは。殿下の頭の上に次々と文字が浮かび上がっていた。その中身もいまいちよく分からない。
部屋から出て、まず自分の頭を揉んでみる。次に額に手を当てて熱を測ってみたがなさそうだ。扉を開ける前は健康そのものだったはず。
「おい、大丈夫か?」
その時、ガチャリと後ろの扉が開いて出てきたのは前回もいた兄だった。私を見て心配そうに眉を下げている。
そうだ、あの場には兄もいた。いろいろ衝撃的すぎて頭が真っ白になっていた。
「朝は元気だったよな? 何かあったか? まあ確かに今日のテオもダメだったが……」
兄の口からあの変な文字のことは出ない。ということは、あれが見えたのは私だけ?
……いつも通りの時間に寝たと思っていたが私はどうやら昨日徹夜をしていたらしい。これは早急に家に帰って休もう。
「おーい? 本当に大丈夫か?」
私の顔の前で手を振る兄に何とか返事をした。
「ダメ」
「おわあ! 早く帰れ! 馬車をすぐ用意するから! ああ、疲れているならベンチで休んでろ。ちょっと待っててな!」
近くのイス、とたった今出てきた部屋を見つめたがさすがに殿下の元へ戻るのは良くないと思ってくれたらしく一番近くのベンチまで案内してくれた。座らせるなり猛スピードで走って行った兄を見送る。兄の頭の上には何も出ていなかった。
* * *
あれからたっぷり休んだ。その間に王城が騒ぎになっていることを期待したが普段通りである。
医者に診てもらったら「疲労」とのことだった。エディに会ってストレス解消できていたと思っていたのが間違いで、いつの間にか限界点を突破していたのか。
それなら今日のお茶会は行かなくてもいいかもしれないと思っていたのに私は王城にいる。
「無理しなくていい、と言いたいがテオが心配してて仕事にも身が入らなくて……顔だけでも見せてやってくれないか?」
と兄に懇願された。
だったらこちらに来るのが礼儀というものではないか、と反論したいが相手は一応王太子。滅多に王城から出ることはできない。
「あいつも見舞いに行きたかったんだ」
とも言われたが手紙すら来ないとは何事か。エディからは来た。
とにかく、先週の出来事は気のせい。そうに違いない。そうでなくては困る。自分に言い聞かせながら扉をノックした。
「……入れ」
いつもよりは元気のない声。いつもこうだとありがたい。
「ふん、来たか。普段気を付けていないからああなったのだ、愚鈍な奴め」(体調は大丈夫だったのだろうか。愛しい彼女に何かあったら私は生きていけない)
正直文字の内容が衝撃的すぎていつもの暴言も耳から耳へ抜けていく。文字は動いているため後ろの兄が殿下をものすごい目で凝視しているところもばっちり見えている。三回連続で兄がいてくれるのは私のためだろう。しかし頭が痛い。
「何だ一体。早く座れ」(もしかしてまだ体調が悪いのか? またお開きか? 彼女の体調を思うとそうしたほうがいいに違いないがまた今日もこれだけしか会えないのか……)
兄が拳を掲げた。気持ちはよく分かるし普段ならやれ、と心の中で応援しているところだが今は勘弁願いたい気持ちのほうが大きい。これ以上の混乱は避けたい。
「……お兄様。少しだけ、殿下と二人きりにしてもらえる?」
「へ?」
両手に拳を作り今まさに殿下にぐりぐり攻撃をしようとスタンバイしていた兄が止まる。兄がしたところは見たことがないが、もしかしてやり慣れている?
「い、いいのか?」
「ええ。少しだけでいいわ」
「そうか……部屋の外にいるから何かあったら呼んでくれ」
何か言いたそうだったものの、殿下をちらりと見てから部屋を出て行ってくれた。出て行く時に私とすれ違った際
「俺はお前の味方だからな」
と頼もしい言葉をもらった。そうだったっけ? と記憶を呼び起こすことはやめた。
兄がいなくなり二人きりになって、私は殿下の向かいのソファーでなく殿下の隣の席に座った。そして殿下をまっすぐ見つめる。
「い、一体何だ? 不快だやめろ」(うわああああ、一体何だついにあれかもしかしてあれか、絶対いやだどうしたらいいんだ誰か助けてくれ)
心無しか声が震えている。自分に対する防御のつもりなのか腕を組み出した。
「わ、私に文句があるのか」(どどど、どうしたんだ。あああ、私に対する不満はいくらでもあるだろうが面と向かって聞く勇気はまだない。本当に。どうして。こんな言葉でしか言えないんだ。こんなに彼女が愛しいのに)
頭の文字が速い。読み取りづらい。のに、最後の言葉だけははっきり見えた。
(ずっと。ずっと好きなのに。いやだ。婚約解消なんてしたくない。彼女以外とは結婚したくない。彼女が欲しい。彼女を誰にもとられたくない)
この男……まさか、こんな……今までこんな風に思っていたなんて。
はああああ、と重い息を吐き出した。