思念
ある日、みんなは僕のことを忘れてしまったようだ。たしか、昨日は終電ぎりぎりまで仕事をして、帰りの電車に乗るために待っていて…。うまく思い出せないが、しかし今この状況、これまで築いてきた関係も、積み重ねてきた思い出も、みんなの心からぽっかりと無くなってしまったようだ。喋りかけても相手にされない。みんなが僕に触れられないように僕もみんなに触れられない。鏡には自分の姿が映っていると思ったけど、誰も僕のことが見えていないみたいだ。
最初のうちは良かった。いつもと違う都会の街並みを呑気に見て回った。しかし、次第に匂いが分からなくなってしまった。次に音が聞こえなくなっていった。仕舞いには全ての景色が見えなくなっていった。
五感の全てを失ってしまった僕は何者なのだろう。自分が人なのか、そうでないのかも分からない。何も感じられない暗闇の中でどれだけの時間を過ごしたかも分からないけれど、僕は一人孤独を感じていた。何も分からないのに、感情なんてあるものか、と思ったりしていると、頭の中に残っていた僕の人間であった証拠さえもどんどんと薄れていってしまった。
やめてくれ、やめてくれ、それさえも無くなってしまったら、僕は本当に自分が何者であるのか、何者であったのかを考えることも、思い出すこともできなくなってしまう。もう僕から僕を盗っていかないでくれ!
僕は叫んだ。しかし僕はもう僕であることを忘れてしまったようだ。もう僕が誰なのかも分からなくなった。僕は、僕は、ぼくは、bokuha…。
そこには全ての人間が残していった全てが存在していた。そこには自分を識別する言葉なんかなくて、全てが一つになっていた。その大きな塊はこれからも大きくなりつづける。それは一種の母のようなものかもしれない。この世の誰一人も欠けることの無いそれは見えることはなくても、確かに存在する。