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海 短編集  作者: 魚羅太郎
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駅 3

棚に戻して、新しく他の数冊の本を手に取って先程の席にまた座ろうとした。私は目を疑った。自分の座っていた席の隣には昨日の女性らしき人が座っていたのだから。私は声をかけようか迷った。しかし、特に話したわけでもない、たまたま駅で見かけただけの人に話しかけるなんて私には難しい。それに、今回もただの人違いである可能性もある。静かに自分の席に戻り、私はゆっくりと彼女の方へ顔を向けた。やはり、昨日の女性だ。それに、幼馴染みにも似ている。彼女の顔が動いた。女性らしい顔立ちにはどこか男勝りな活発的な感じを伺えさせる。やはり、優弥なのだろうか。うっすらと瞼が上がった。私は驚いてすぐに本を開いた。適当なページに広がる活字たちは私の目から飛び込んでくるが全くの意味をなしていない。

「もう、読み終わった?」

不意に聞かれたその言葉に私は再び驚いた。やはり優弥なのだ。この女性は。昔からそうだった。本に飽きた彼女が眠りから覚めたとき、決まって私に読み終わったのかと訪ねてきたのだ。私はまた彼女を見た。今度はしっかりと目があってしまった。

「優弥なのか?」

欠伸をしながら彼女は頷いた。

「で、読み終わったの?」

「あぁ…。」

歯切れ悪く私が言葉を返すと、優弥は席を立って歩いていってしまった。私があんぐりと口を開けて茫然としていると彼女が戻ってきた。

「何してるの。行くよ。」

私は急いで本を返して彼女について行った。優弥とは一言も交わすこともなく、駅の近くにあるこじんまりとした喫茶店に入っていった。彼女はアイスティーを頼んだ。私はメニューを一通り眺めて結局アイスコーヒーを注文した。私たちは無言だった。優弥は窓の外を走る車やその雑音を生み出している風景を眺めていた。机の上に艶やかな液体の入ったグラスが並べられた。彼女はストローを差し、ガムシロップを入れて回し始めた。

「久しぶりだな。優弥。」

私は恐る恐る口にした。数年ぶりに会った彼女が随分と変化していたのだからそれも無理はないだろう。どんなことから話すべきか分からなかったが、気まずい雰囲気も全て無言が作り出しているに違いないのだ。

「そうだね。」

彼女はそう言い放った。完全に私は気分が下がっていた。昨日の記憶が鮮明に思い出されているのだ。そうだ。昨日のこの時間くらいにチェーンのカフェで同じように相手をされていたのだから。私の目の前に座っていた女、元カノにカフェの中でフラれたのだ。お互いに時間が合わず、久しぶりのデートをしたのだ。それで、その店に寄って一息つこうとした。確かその後に「あなたってつまらないのよね。だから別れて。」と素っ気なく言われたのだ。駄目だ。今日も自分の心を抉ることしかできていない。折角、本で気分をマイナスからゼロよりのマイナスに戻してきたのに。私はもはや生きている意味を見いだせていない。恋愛だけではない。人生において何もやる気が起きないのだ。納得できるまでやり遂げる力など私にはないのだから。しょうがないのだ。今、私の目の前に座っている彼女、優弥だって私のことなどどうだっていいと思っているんだ。たまたま、久しぶりに会っただけの幼馴染に挨拶だけでもというような事なのだろう。最後の会話になるんだろうな。今日を折り返し地点に、私たちは幼馴染としての関係を断ち切ることになるのだろう。

「ちょ、ちょっと。」

優弥は驚いた声をして私の方を見ていた。視界がぼやけている。あぁ。泣いているんだ。情けない。私は俯いた。そもそも誰かとどうこうしようという考えが私には合っていなかったんだ。彼女は席を立って何処かに行ってしまった。そうだ。そうやって人は簡単に置いていくことができるんだ。原因は確かに私にあるのかもしれない。しかし、振り返って戻ってきてくれる人なんて誰もいないのだ。机の上に置いてあるおしぼりで顔を拭った。

「大丈夫?」

顔を上げると優弥が戻ってきていた。店長と思わしき老齢のおじいさんが慌てた様子でガトーショコラを乗せた皿を持ってきた。

「大丈夫かい。ほら。甘い物でも食べて落ち着きなさい。」

目の前に持ってこられたガトーショコラを私は黙って見ていた。

「あれ、チョコとか苦手だったっけ?」

優弥がそう聞いてきたが返事をする余裕もなく私は黙ったままにいた。二人の気など知らず、私はこのガトーショコラを手づかみで食べ始めた。甘さの中に少しの苦みがある。三口ほどで食べ終わった。

「申し訳なかった。」

おじいさんはフォークを握って慌てて戻ってきていた。私は黒く汚れた右手をおしぼりで拭いた。少し甘さを感じる変な感触を手に残し、私はおじいさんに感謝の意を示した。陽が沈むまで、私は彼女と共に喫茶店に屯した。彼女は私の不満をずっと聞いてくれた。さぞ、退屈でつまらなかっただろうに。私たちは電車に乗って駅で降りた。私の最寄り駅だ。優弥もここが最寄り駅のようだ。月が空に浮かんでいた。今日は満月のようだ。丸い。

「月が綺麗だね。」

私は彼女にそう言った。今日の感謝と話していた間に彼女に抱いていた淡い気持ちを抑えきれなくなってしまったのだ。彼女はこちらに視線を移して、また空の方を見た。

「でもね、どれだけ努力しても月は太陽にはなれないのよ。」

彼女は私にそう言った。

「私らしくないって思ったでしょ。こんな姿。」

確かに、私の知っている彼女は男勝りな性格にぴったりな髪形に恰好をしていたのだから。

「私も付き合ってた人がいたのよ。」

彼女は空を眺めながら私に言った。

「女の子みたいな可愛い子が好きなんだって。」

彼女は風になびく長くなった髪を触って言った。

「大学の頃に出会った彼なの。」

流れてくる雲に月は隠れることなく浮かんでいた。

「もう全然、会ってないのに今でも彼の好みに合わせているのよ。」

語尾をわざとらしく強調しながら彼女は言った。

「また会えるかもしれないって思ってるのよ。それでも私と付き合いたいの?」

月は未だ私たちを照らしていた。

「月は太陽になれないが、太陽もまた月にはなれないよ。」

私は風を感じながら言った。

「らしくない君もまた君なんだ。」

過去の彼女を思い出しながら私は言った。

「君は君しかいなくて、らしさなんてものは無いようなものさ。」

私は彼女にキスをした。

「私は今日、醜態をさらした。でも、それは紛れもない私自身なんだ。」

彼女は黙って聞いている。

「君はそんな私にも心を開いてくれたんじゃないのか?」

彼女はまだ黙っている。

「私もどんな君でも愛すことができるよ。」

彼女は笑っていた。

「もう少し早く言ってくれれば、こんな回り道を通らなかったのに。」

「その回り道も人生だよ。」

手をつなぎながら私たちは話した。

「本当にいいのね。」

「あぁ。むしろこんな私でいいのか不安になっているよ。」

ショックは、まだ心に残っている。でも、私はそのまま残すことに決めた。どれだけ辛いことだろうが、彼女の変わってしまった外見に負けぬ昔からの元気さは私を支えてくれると感じたのだから。

よく見ると、月は少し欠けているようだ。明日が満月なのだろう。

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