蟹の螯 2
爽やかな風に目を覚ました。いつも感じる海の風とは違うどこか懐かしい風。森、山、思いだした。ここは小さな頃によく遊びに来ていた大笠緑地だ。小さい頃、よく山に行ってくるなんて言ってここに遊びに来てたんだっけな。そんな山でもなんでもないのに。でも、こんな所になんで居るんだろか?全く思い出せない。
「ねぇ。」
声が聞こえた。少女の声だ。どこか懐かしさを感じるその声。振り返ると麦わら帽子を被った少女と思われる人が立っていた。俯いていて顔が見えないが2人しかいないこの場所で「ねぇ」は私に向けられたものに違いない。
「あの…どうしましたか?」
どうだろうか。しっかりと言葉になっていただろうか。私は自分のコミュニケーションの乏しさに少し恥ずかしく思った。それは目の前の少女がただ黙ってそこに突っ立っているからだろう。私は恥ずかしさの余り、目をギュッと瞑ってしまった。木々を抜ける風の中で少女の声がまた聞こえた気がした。
ジメジメとした暑さの中で目を覚ました。先ほどまでのあれは夢だったようだ。窓を開けるといつものように海風が入ってきた。それでもまだ暑い。私は扇風機のスイッチを押した。暫く何もせずに涼んでいると、枕もとの時計がけたたましく音を鳴らした。急いでその音を止めた。今日はおじさんの友人の所に行くんだった。それにしてもアラームよりも早く起きるなんて珍しいなと思いながら支度を整えた。
元々、口数の少ないおじさんではあったが私と二人きりになると本当に喋らない。最初はこの人も私を疎ましく思っているのかと考えていたがそうではないようだ。そういう人らしい。私がコミュニケーション能力が乏しいように。車に乗っておじさんの友人との待ち合わせ場所に向かっている時も全く喋らなかった。海沿いの道を素早く走っている車からは人の顔がぼやけて見えるが、面と向かって話すときもそうやってぼやけてくれれば私も多少は話せるようになるかもしれない。そんなことを思っていると、車はゆっくりと止まった。
「ここだ。」
おじさんの低い声が聞こえた。本日二度目の声である。一度目は朝の「いくぞ」である。もっと喋った方が良いのかなと車を降りると、そこはとある珈琲店であった。「CLOSE」と書かれた札がドアに掛かっているにも関わらず、おじさんがズカズカと店の中に入っていったから後を付いて私も入った。すると店の中で机を拭いている白髪の混じった所謂ダンディとでも言うのだろうか、そんな渋い男の人がエプロンをしながら笑顔でこちらに振り返った。
「おう!久しぶりだな!がんちゃん!」
「あぁ。」
がんちゃん?私は考えた。おじさんの名前は岩井宗広。岩をがんって呼んでいるのか。一人で納得していると視界に手が差し出された。
「初めましてじゃないんだが、覚えてないよな?改めて、近江孝です。」
見た目よりも溌剌とした近江孝さんの手を恐る恐る握りながら私も自己紹介をした。
「あ、えと、篠原、です。」
「篠原くんね!」
がっしりと掴まれたことに緊張してしまっていたが、この近江という名前にどこか聞き覚えがある。どこで聞いたんだろうか。
「じゃあ、さっそく明日からお願いね!」
「え?」
「ん?もしかしてがんちゃんから聞いてない?」
「な、何をでしょうか?」
「この店の手伝いをするっていう…。」
すると何かを察したように近江さんはおじさんの方へ振り返った。
「がんちゃん!口下手が過ぎるよ!え?なんの説明もしてない感じなの!?」
「あぁ。」
おじさんが口下手なのは本当らしい。嫌われているわけじゃなくてよかったと思いつつ、近江さんからしっかりと説明を受けたが、果たして人と話すことが苦手な私に接客業はできるのだろうか。帰り道の車の中で私は不安で震えていた。




