蟹の螯
私は重い足を動かして近くの砂浜へ向かって歩いて行った。生きる気力もなくし、この先どうすればいいのか分からなくなっていた。私はここへ越してくる前、学校でいじめにあっていた。精神的、肉体的苦痛を浴びせられ、不登校になった。親はもともと私にそこまでの関心がなく、まともに会話をしたのはどれくらい前なのか思い出せないほどである。しかし、もぬけの殻のように私という肉体だけがそこにあるといった空間だけを占めている存在に嫌気がさしたのだろう。私は母方の親戚の家に引き取られた。そこでもあまり生活に変化はなく、親戚の伯父さんとはあまり会話ができていなかった。唯一の決まりといえば、毎日最低2時間の外出は絶対ということ。私は律儀にその決まりを守っていた。毎日、茫然と何も考えずに歩くだけ。ふと頭を過ることといえば、小さい頃に親しかった友人と無邪気に遊んでいた思い出。そんな思いでを今日も思い出していると、初夏のジッとした海風が私を煽ったのだった。
砂浜で何も考えずに海を眺めていた。波が音を立てながら砂を飲み込んでいく。そこに一匹の小さな蟹が波を受けながら砂浜を歩いていた。私は近寄って、その蟹を指でつついた。
「お前のような小さい生き物はこう邪魔されちゃぐうの音も出まい。」
それでも蟹は進み続ける。何かを目指すように。私の指を力一杯、螯で避けながら。その力は私のそれには敵わないと知りながらも、それでも抵抗を続けていた。生きる気力というものがそこには宿っている。
「まだ抵抗するか。面白くない。」
私は蟹の邪魔をやめた。もっと邪魔をしても良かったかもしれないが、少し気の毒になったのでかわりに蟹を追ってみることにした。
「こんなに小さな体に生まれてきてお前も不憫なやつだ。その脚と小さい螯じゃ、やれることも限られるだろうに。」
蟹は私のことなどかまわずにどんどんと進んでいく。やがて、砂浜から小石が少しづつ目立つようになって、とうとう岩場まで来てしまった。蟹はその中から居心地の良さそうな大きい岩の間に入るとなかなか出てこなかった。蟹は寝床を探していたらしい。私はもうそこから何をしようとも思いつかず、ただ漫然と1日を過ごしていたことに少し後悔しながら、家に戻ることにした。家に戻ってもただやけになるだけだ。明日も今日と同じようにふらふらするだけなのかと、これから先も不安定な生活が続くのかもしれないのかと考えると、とても重い圧が私にのしかかってきた。ただ今の私にはあの蟹のようにその圧をを押し除けることはできない。私は家に戻るとすぐ倒れ込みぺしゃんこになって死んだように眠りについた。うっすらと見えるのは陽がどんどんと暗くなっていく海風が染み付いたジッとした初夏の夕焼けだけ。