1 氾濫の予兆
フラーガの船着き場、夕暮れ時
「危なかった……ホワイトヘッドがぶつかってきたときはもう駄目かと思った。本当に危機一髪だった」
フラーガの船着き場に着くや、シェイラがキリッとした顔で呟いた。
その様子を見た船頭が「ぶほっ」と噴き出したので、俺も釣られて笑ってしまう。
純朴な彼女の目には謎の怪魚ホワイトヘッドが見えていたのかもしれない。
初めての舟旅は大冒険だったようだ。
シェイラがムッと頬を膨らませ「何がおかしいんだよっ」と抗議の声を上げた。
さすがに本当の事を言うと泣きそうだ。
「いやね、俺はフラーガの町は久しぶりでな。数年前のことを思い出したら懐かしくて、ついな」
俺の苦しい言い訳にシェイラは「へえー、エステバンは来たことあるのか」と納得顔だ。
少しチョロすぎて心配になる。
「いや、面白いお姫様だね、楽しかったよ。今日はもう暗いから船宿に泊まるといいぜ。雑魚寝だけど男女別だしな」
「ありがとう、また機会があったら頼むよ」
船頭は荷下ろしがあるため舟に残るようだ。
俺たちは彼に別れを告げて船宿に向かった。
船頭が紹介してくれた船宿とは船頭や船員が食事をしたり宿泊する施設だ。
大きいところになると自ら舟を持ち水運業を営んでいることもあり、その場合は商取引場としても機能している。
宿と言うよりは総合商業施設に近いかもしれない。
基本的に船宿は客を泊める宿ではないが、こうして到着が夜になった場合などは泊めてくれることもある。
今回は船頭の口利きと言うことで何の問題もなく泊まることができた。
船着き場は舟乗りを相手に娯楽を提供したりするので賭場や娼館などもあるが、さすがに女連れで娼館に入る訳にはいかないし、今から町で宿屋を探すのも難しい。
俺の嫌いな雑魚寝とは言え、この時間から泊めてくれる宿は他に無いのだ。感謝すべきだろう。
船宿は本当に『眠るスペースが借りられるだけ』であり、夜具も何もない。
俺はシェイラに自分の防寒用マントを貸し、騒がしい相部屋でさっさと寝ることにした。
防犯のため、枕は自分の荷物だ。
シェイラには気の毒だが、旅暮らしとはこんなものである。
俺は少し彼女のことが気になったが、雑魚寝の女部屋に入っていくわけにはいかない。
……まあ、野宿よりはマシさ。
どこでも眠れるのは冒険者に必須の技能である。
また、そうでなければやっていけない。
俺はシェイラのことは頭の片隅に追いやった。慣れるしかないのだ。
どうでもいいが、さっきから窓から見える蜥蜴人と書かれた娼館の看板が気になって仕方ない。
蜥蜴人はメディオ川水系に広く分布しており、フラーガの町でも見かける亜人だ。
温厚な性格で、人の町で暮らすものも多い。
水辺を好み、泳ぎも巧みな彼らは船着き場で良く働いている姿を見かける。
先ほどの看板は彼ら向きの娼館なのだろう。
……森人の女はすごかったなあ……他の亜人も凄いのかな?
俺は今まで亜人は守備範囲外だったが、比較的に人間に似ている森人のお陰で新しい世界に目覚めそうだ。
この世界はまだ見ぬワンダーランドが残っている。
それらを求めて旅をするのも悪くない。
俺はじっと、蜥蜴人の看板を睨み、眠れぬ夜を過ごした。
――――――
翌朝
俺たちは朝のギルドの混雑を避けるため、船着き場の屋台で朝食を済ませることにした。
「凄いな! 人間の食事はしょっぱくて本当に美味しいな! 結婚式のご馳走みたいだ!」
何の変哲もない川魚の串焼きだが、シェイラは「塩がついてて美味しい」と大喜びだ。
たしかに森の中では塩は貴重だろう。森人は意外と厳しい生活をしていそうだ。
ちなみに昨日の食事は舟の上で乾パン齧ってただけだった。
「ま、そのうち甘いものでも食おうな」
「蜂蜜か?」
シェイラの目がキュピンと怪しく光る。やはり甘味にも飢えていた。
森人が華奢なのは食生活のせいではなかろうか。
俺たちは川を眺めながら十分に食休みをとり、ギルドへ向かう。
フラーガの町は水運で賑わいを見せているが規模は小さく、人口は2千~3千人ほどだろうか。
俺にとって久しぶりのフラーガの町だが、迷うこと無く冒険者ギルドは見つかった。
すでにカウンター前は閑散としており、受け付けの職員すらいない。
「頼もう!! 我らは応援にきた冒険パーティー『松ぼっくり』だ!」
俺が声をかけると、奥から「おお、人手か」と頼りない声が聞こえた。
姿を見せたのは弱々しく窶れた無精ひげの中年男だ。風呂に入って無いのか、ボサボサの焦げ茶色の髪が不快なテカリかたをしている。
「俺たちはチャパーロから来た。俺がエステバン、こちらがシェイラ。これが紹介状だ」
俺はペドロから預かった紹介状を職員と思わしき男に手渡す。
「助かるよ、実は氾濫の兆候があって大忙しなんだ。私は支配人のアロンソ。認識票と手帳を貸してくれ」
俺たちからそれらを受けとるとアロンソと名乗る支配人は色々と書類を作り始めた。
……氾濫か、参ったな。
俺は内心で『ペドロのやつ、いい加減なこと言いやがって』と舌打ちした。
何が『大したことない』だ、ゴブリンの氾濫とは一大事なのだ。
ゴブリンの氾濫とは彼らの分封行動、巣分れだとされている。
巣穴が手狭になった時、ゴブリンは新たな巣穴を求め大群で行動するのだ。
狙いは洞穴や遺跡など、新たな棲家を求めて移動し、先住者がいた場合はそれと争い侵略・占領する。
時には人間の村や町もターゲットに成りうる非常に危険な状態だ。
規模は元の巣穴の大きさにもよるが最低でも数十匹、過去には千以上もの大群に蹂躙された町もあったと言われている。
……不味い時に来たかもしれないな。
俺は内心で舌打ちした。
氾濫が人里に向かえば、それはもうゴブリンとの戦争と言っても過言ではない。
「3等と10等のパーティーとは珍しいな。夫婦者かい?」
「違うよっ! エステバンと私は冒険の仲間なんだ!」
アロンソが悪気無く俺たちに尋ねてくるが、シェイラはムキなって抗議していた。
確かに等級の離れた男女2人がパーティーを組んでる時は特別な人間関係の場合が多いだろう。
「まあ、こちらは10等だからな。危険なゴブリン退治は他に回してくれ」
「そうか。エステバンには巣穴の調査やゴブリン討伐をお願いしたいとこだが、10等にさせる仕事じゃないしね。まあ、他の仕事も溜まってるし片付けてくれたら助かるよ」
アロンソは俺たちがゴブリン関係から外れることをアッサリと認めてくれた。
なかなか物わかりの良い男らしい。無理を言わないアロンソの姿勢に、俺は好感を持った。
「よし、先ずは宿で荷物を下ろすか」
「部屋は別だぞ、もう絶対に部屋には入れないからな」
宿と聞いたシェイラが真っ赤になりながらジト目で俺を睨んでくる。
現状、人間の通貨を持たない彼女の生活費は全部俺が負担しているのだが、その辺どう思ってるのか聞いてみたい態度ではある。
「ま、そのうち体で払ってもらうか」
俺は呟くと、荷物を担いで宿に向かう。
聞き咎めたシェイラが抗議をしてきたが、気にしないことにした。
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蜥蜴人
人間のような骨格をしたトカゲの亜人。
水辺を好み、メディオ川水系に広く分布している。
彼らの町はメディオ川上流に存在しているが国はない。
概ね理知的な性格の者が多く、無理なく人間と共存している。
卵胎生だが、人間との交配が可能かは不明。
体が鱗で覆われており、大きな尻尾もあるので優れた戦士を輩出することでも知られている。
ちなみに蜥蜴人は左利き。