第一話 うさぎ追いし、穴に落ちて
童話・『不思議の国のアリス』―。19世紀に書かれ、現代に至るまで多くの人に親しまれてきた有名な物語。これから語る物語も少女・アリスが個性あふれる登場人物と出会い、奇妙な冒険を繰り広げるあの『不思議の国のアリス』のはずだったのだが…。もし、誰かがこの物語を変えようとしているとしたら。アリスの冒険は『不思議の国のアリス』ではなくなってしまうのだろうか。物語の中で起こる異変や困難に立ち向かうのは誰か。それは、この物語を読み進めていくことで、明らかになっていくのだろう。
* * *
今日は春になってから一番暖かい日なのではないだろうかと、アリスは感じていた。昼下がりの太陽が照りつき、森の中に陽の光が降り注いでいる。春を感じさせる暖かい風が優しく吹いて、葉っぱの影をゆらめかせる。暖かい風の匂いの中に、どこか遠い地で咲く花のにおいが混じっているような気がした。
アリスにとって、春の暖かい陽気は活動を鈍らせてしまうようだ。今まさに森の木陰で本を読んでいる姉のように、難しい文章を読んだり、ましてや裁縫をしたりなど、細かい作業はとんと苦手であり、むしろ普段もやる気すら起きないので家事もほぼ姉に任せきりである。そんな自分をアリスは怠惰だ、などと責めたりはしない。しっかり者の姉と対照的に、アリスは怠け癖な一面もあるが、いざというときは人の想像の上をいくような行動で周りを驚かせると思っていた。
そんな自分が、今やることいったらよく晴れた青空に流れる雲を目で追うことくらいか。今日はなんて平和な日なのだろうと、木の太い枝にまたがりながら感じていた。
「ふああ、眠いなあ…。寝ちゃおうかな。」
こうも暖かいとさすがに眠気がさしてくる。アリスは半分目を閉じようとした。
「あんた、そんなところで寝たら普通に風邪ひくでしょ。それに木から落ちるわよ。」
猿じゃあるまいし、とでも姉は付け加えたがっていそうだ。
「何よ、人を猿みたいに。よく言ってくれるわね。降りればいいんでしょ、降りれば!」
そういってアリスは地面から5メートルくらいの高さにある枝から躊躇なくドスン、と飛び降りた。
「あんた、一応『アリス』でしょ。好奇心も冒険心も旺盛なのはわかるけど、そのふぬけた顔とおしとやかさのかけらもない仕草、なんとかならないの」
水色のワンピースを着て、背中に大きなリボンのついた白いエプロンをかけている、女の子らしい「アリス」を姉は想像しているのであろう。服装はたしかにその通りなのだが、おしとやかさという点では姉の想像とは違う。「私は私」が一応持論のアリスは、そんな姉の嫌味など気にも留めていなかった。それに、女の子らしさでいえば、頭についた大きなリボンがそれを表しているのではないか?
「姉ちゃんはいつも一言多いんだよー。見た目だけでもこんなにかわいいじゃない。」
「本当にかわいい子は自分で自分のことかわいい、とか言いません。」
「チェッ」
姉といつものごとく言い合いをしていた矢先、アリスの視界になにやら白いとんがったものが目に入った。見慣れないものだったので、なんだろう、と目を凝らして見ると、それはすぐにウサギの耳だということがわかった。ウサギの耳を頭につけた金髪の少年が、懐中時計を持ちながらなにやら神妙な顔つきで歩いている。
なぜ神妙な顔をしているのかということよりも、アリスの目に留まったのは、その少年の頭から生えているウサギの耳であった。
「なに…あれ…」
気が付くとすでにアリスの足は動いており、少年の後をつけていた。すかさず姉が、
「ちょっと、アリス!!どこ行くの、戻りなさい!」
と声をかけるが、アリスの耳には届かない。アリスには、二つの白い2本のふわふわしたものしか目に入っていなかった。左手にとった金色の懐中時計を見ながら眉を寄せていた少年は、数歩歩いたのち背後から忍び寄る狂気に気付き、恐る恐る振り返ると、目を自分に対してぎらつかせている、白いエプロンの女の子と目が合うではないか。
「(何だあいつ…!こっちを怖い目で見てる……!!)」
その瞬間、白いエプロンをつけた女の子は少年めがけて全速力で走りだし。それを見た少年は持っていた懐中時計をすぐさま黒いズボンの左のポケットに入れ、全速力で走った。
「う~~~~さ~~~み~~~み~~~~~~」
「ギャアアアアアアアアアアア!!!!!なんだアイツ!!!!!!殺される!!!!」
殺気にも似た狂気が後ろからものすごい圧力で来るのを感じながら、少年は全ての神経を集中させて前に前に行くことだけを考えて足を動かした。
アリスも全速力で少年を追いかけていくが、思ったより少年の足は速く、差は少しずつ開いていく。
「(このままでは追いつけないわ…)」
そう思った瞬間、数メートル前を走っていた少年がこつぜんとアリスの目の前から消えた。まるで瞬間移動でもしたかのようだ。アリスは一瞬立ち止まり、様子を確認しようと数歩先を歩いてみると、目の前に人が一人分が入れるくらいの穴を見つけた。
「こんなところに穴があったなんて…うさみみはここに逃げたのね。」
穴の中は真っ暗で、底が見えない。ここに入ったら最後、もう二度と自分がいた場所には帰れないかもしれない。姉にももう、会えないかもしれない。そんな不安な気持ちが、アリスの心の中によぎった。でも。
「ここで怖気づいてたら、『アリス』じゃないわよ。わたしは、『不思議の国のアリス』の主人公なんだから!」
アリスは意を決して、穴の中に飛び込んだ。
どんどん、どんどん、深い闇の中に落ちていく。
ぜったいに、あのうさみみを捕まえてやる。そして、あのうさみみをモフモフしてやるの。