第五話 シェフとウィンナコーヒー
ある日の木曜、お昼過ぎ。
大学の講義を終えたあたしは、バイト先の喫茶店に向かっていた。バイトをはじめてから一年。あたしがバイトをする事になったのは、ほとんど零君のせいと言っても過言じゃない。
「なんか懐かしいなあ、今日は。あったかいから?」
そんな事を考えながら、あたしは喫茶店に入った。
「あ、こんにちは松下さん」
「こんにちは、零君」
そう言ってあたしは手を振ると、零君はにっこりと微笑んだ。その笑顔を見るたびに、あたしの心は温かくなる。さすがマスターといったところか。
「松下さん、自分ちょっと買い出しに行ってくるので店番頼んでも良いですか?」
そう零君が聞いてきたとき、あたしはいいことを思いついた。
「ああ、あたしも一緒にいっていいかな?料理の材料、在庫が無くなってきて」
「あ、なら自分が買ってきますよ」
ああ、ノリが分かってないなあ、零君は。
「ええ、良いじゃん。もしかして零君、あたしと一緒に行くの嫌い?」
と、ちょっとショックを受けているように言ってみる。
「うぅ、分かりました。一緒に行きましょう。鍵は閉めておきますか」
と、零君は諦めたように言った。
よし、と心の中でもガッツポーズをする。零君は女性の悲しむ顔に弱い。あたしを始め、デザート担当のちーちゃんや、ましてや女性客までも押し込まれてしまうほどだった。良く言うなら、優しい人。悪く言うなら、お人好しだなと心の中であたしはそう思った。
「意外とたくさん買ったね」
「まあ、しばらくは買いに行く必要が無いようにしようと」
「へえ」
買い出しの帰り、零君はスーパーの袋を二つ、あたしは一つ持って喫茶店へ戻っていた。
「そう言えばさ、」
「はい?」
「零君って、何歳なの?」
「え、どうしたんですか?急に」
「そういえば知らないなーって思ってさ、」
「はあ、自分は高校生ですよ」
「へえ、」
「はい」
「....」
「....」
「えええええ!!」
「?」
正直なところ、あたしと同じか、一個下くらいだと思っていた。
でないと、こんな時間にいるわけがないと。あれ?
「じゃ、じゃあ学校は?高校生ならまだ終わってないよね?」
「ああ、やっぱり知らないですよね。自分の通っている学校は成績上位者は自由科という学科に入る事が出来るんですよ。そして自分はその学科に入っています」
「なにそれ、そんな学校あるんだ。始めて知った」
「簡単に言うと、授業を受けなくても良いんです」
「ほんとに自由なんだ」
「ええ。なので、今日とかは午後の授業は受けてません。分からないものでは無かったので」
「零君、頭良いんだ」
「まあ、少々自信はあります」
「凄いなあ、あたしももっと勉強が出来たらな
...」
「松下さんも凄いですよ」
「え..」
「料理、味の調整や彩りの工夫、おまけに一から料理を作り出すことだってできる。自分から見れば、これらの事が出来る松下さんは凄いですよ」
「へ、あ、そ、そうかな..」
「ん、どうしました?」
あたしが言葉に詰まっていると、零君がじっと見つめてきた。あたしは慌てて目をそらす。
「な、なんでもないよ...ありがとう」
「はい、こちらこそ。いつもありがとうございます」
そう言うと、歩いているにも関わらず零君はあたしに向かって頭を下げた。
胸の奥から、温かいものがこみ上げる感覚。そう、うれしかった。
別に今まで褒められたことが無いと言うわけではない。すごいとかうまいとかなら、これまでも何度かあった。
だけど、これは違った。
全体を褒めるのではなく、全体の中でも、一つ一つを褒めてくれた。本当に凄いと思っていなければ、あんなにもすらすらと出てこないだろう。だからこそ、さっきの言葉はとてもうれしかった。
「ふふ、」
「どうしたんですか?急に」
「ううん、なんでもない」
年下の子からなのに褒められてうれしいなんて、あたしは子どもだろうか。
「早く帰って準備しようか、マスターさん?」
「はい、今日も頑張りましょう」
たまにはいいだろう、喜んだって。
それは、初めて零君があたしに淹れてくれたウィンナコーヒーのように。
苦いだけでなく、甘さを加えても。