腐界の王
すべてを腐らせるその赤子は、
母の身体を腐り落として生まれ、
抱き上げた父の腕を、
腐り落とした。
街を腐らせ、
土地を腐らせ、
触れるもの全てを砂と塵に還して、
赤子だけがすくすくと育った。
もはや何者も、
その土地に生きることかなわず、
やがて人々はその場所を、
全てが腐り朽ちる世界、
『腐界』と呼ぶようになった。
月日が経ち、
赤子は立派な青年になった。
乾いた砂だけが続く荒野に、
青年は独り、在った。
青年は、
全てを腐らせる代償のように、
輝くばかりの美しい姿と、
飢えも老いも知らぬ身体と、
永遠の命を、
持っていた。
いつしか人は、
青年を、
『腐界の王』
と呼んだ。
世界の王や勇者たちが、
「魔物討つべし」と声を上げ、
『腐界の王』に挑む。
しかし、
王の剣は青年を傷つけることあたわず、
勇者の槍は青年を貫くことあたわず、
刀は錆び朽ち、
弓矢は腐り果てて、
誰一人『腐界の王』を滅ぼすことはできなかった。
青年は、
人々が向ける激しい敵意に、
ただ、
俯いていた。
月日は流れる。
幾百の昼と幾百の夜の終わりの、その翌日。
一人目は神父。
神の愛は魔物にも届くと、
あえて『腐界』に身を投じた。
そして知る。
『腐界の王』は魔物ではなく、
言葉さえ誰からも教えられなかった、
哀れな一人の青年であるということ。
神父は青年に、
言葉を教え、
語らうことを教え、
人の温もりを教えた。
青年は神父を慕い、
言葉を覚え、
心を学んだ。
幸せな時が過ぎ、
穏やかな日々の中で、
ある日、
青年は、
大好きな神父に、
そっと、
手を触れる。
「こんなはずではなかった!」
命の朽ちゆく中、
「ただ、あなたに触れたいと……」
とめどなく溢れる青年の涙に、
神父は己の過ちを知る。
永遠を生きるこの青年に、
決して人に触れることかなわぬ、
この青年に、
言葉など教えるべきではなかった。
心など教えるべきではなかった。
青年は言葉を知ることで、
孤独が孤独であることを知り、
心を知ることで、
悲しみが悲しみであることを、
知ってしまった。
残された青年が背負うであろう、
これからの永遠は、
青年を、
絶望へと導くのではあるまいか。
最後の力を振り絞り、
泣きじゃくる青年の身体を、
力強く抱きしめて、
神父は神に祈る。
「願わくば、
神よ、
この哀れな青年に、
共に生きる者をお与えください」
祈りの言葉の終わりと共に、
神父の姿は塵となり、
崩れ落ちた。
言葉にならぬ悲しみを叫び、
そして、
青年は知る。
神父が教えてくれたこと。
人の言葉。
共に在る温もり。
人を愛するということ。
人を、愛してはいけないということ。
月日は流れる。
幾千の昼と幾千の夜の終わりの、その翌日。
二人目は旅人。
世界の不思議を見て回ろうと、
物見気分で『腐界』に踏み込んだ。
そして知る。
『腐界の王』は魔物ではなく、
己の力に、
孤独に怯える、
哀れな一人の青年であるということ。
旅人は青年に、
今までの旅で見た異国の話をした。
『腐界』から逃れるすべもない青年は、
美しい異国の情景に目を輝かせる。
素直に驚き、無邪気に喜ぶ青年の様子は、
旅人の心を温かく満たした。
今まで誰も、
旅人の話を聞く者などいなかった。
旅人もまた、孤独だったのだ。
旅人は旅立ち、
世界を巡り、
そして再び『腐界』を訪ねた。
あてもない旅をしてきた旅人に、
いつしか目的が生まれていた。
青年に世界の姿を伝えよう。
青年の喜ぶ姿が、
旅人の旅の苦難を支えていた。
帰る場所のない旅人の、
『腐界』は家となった。
そして、
待つ者のない旅人にとって、
家で待つ青年は、
家族だった。
青年は不安になる。
旅人は優しく、
語り合う時は楽しく、
心は温かく満ち足りていた。
まるで、
神父と過ごしたときのように。
人を愛してはいけない。
愛すれば、触れたくなる。
しかしもう青年は、
旅人を愛し始めていた。
世界を巡り、
また『腐界』へと戻ってきた旅人に、
青年は背を向ける。
すべての言葉を拒み、
耳をふさぐ青年の姿に、
旅人は戸惑うばかりだった。
青年は旅人に背を向けたまま、言い放つ。
「ここから今すぐ立ち去れ!
立ち去らねば、
お前を一握りの塵に変えてやるぞ!」
長い沈黙が過ぎ、旅人は歩き出す。
そして、
怯えるように身を縮める青年の背に、
そっと、
手を触れた。
「私の命で証を立てよう。
私たちの絆を疑うなら。
お前を失ってしまえば、
私の命などないも同じだから」
驚き振り返る青年の目に映る、
崩れゆく旅人の姿。
それは青年が、
もっとも怖れていた光景だった。
「……こんな、はずではなかった」
命の朽ちゆく中、
「あなたが、大切だった」
旅人は己の過ちを知る。
疑ったのは自分のほうだ。
故なき罰に怯える青年の苦悩を想わず、
拒まれたと傷付き、
絆を疑ってしまったのは、
自分のほうだというのに。
最後の力を振り絞り、
泣き崩れる青年の身体を、
やさしく抱きしめて、
旅人は空に祈る。
「誰か、
どうかこの罪なき青年に、
共に生きる者を、
共に生きることをあきらめない者を、
与えてください」
祈りの言葉の終わりと共に、
旅人の姿は塵となり、
風に散った。
言葉にならぬ絶望を叫び、
そして、
青年は知る。
旅人が教えてくれたこと。
遠い異国の歌。
風に回る風車の音。
人に愛されるということ。
人に、愛されてはいけないということ。
月日は流れる。
幾億の昼と幾億の夜の終わりの、その翌日。
三人目は若い娘。
戦によって故郷を焼かれ、
さまよい『腐界』にたどり着いた。
そして知る。
『腐界の王』は魔物ではなく、
もはや何者も失わぬように、
固く心を閉ざしてしまった、
哀れな一人の青年であるということ。
光を宿さぬ虚ろな瞳で、
彫像のように動かぬ青年に、
娘は辛抱強く話しかけ続けた。
この地よりはるか北にある、
娘の故郷の話。
短い春に咲く小さな花。
さらに短い夏の夜空に輝く星。
豊かとはいえぬ土地の、
実りを喜ぶ秋の祭り。
長く厳しい冬の間の、
暖炉にはぜる薪の匂い。
かつて娘の手の中にあり、
今は失ってしまったもの。
娘が語る光景の幾つかが、
旅人が語ってくれた風景と重なり、
青年の目から涙が溢れた。
青年は娘に言う。
「どうかここから立ち去ってください。
ここにあるのは、
焼けるような日差しと、
乾いた砂と、
決して解けぬ呪いだけ。
あなたに必要なものは、
何もないのです」
真剣なまなざしを向ける青年に、
娘はやわらかく微笑んだ。
「私はかつて『賢き女たち』と呼ばれた人々の、
最後の生き残り。
帰る家はすでになく、
愛しい人たちは皆、
手を触れられぬところへ行った。
故郷を追われて、
ようやくここに辿り着いた私に立ち去れだなんて、
少しひどいのではなくて?」
「そ、そんなつもりでは」
あたふたと困った顔をする青年の姿に、
娘はくすくすと笑う。
「あなたはここには何もないと言うけれど、
世界には無いほうがいいものがたくさんあるのよ」
娘は青年から視線を外して、
独り言のようにつぶやいた。
「ここには、
悪意も、
憎しみも、
嘘も、
裏切りもない。
きっと地獄はこの世にあって、
ここは地獄ではないの」
そして娘は青年に向きなおり、
こう言った。
「私たち、
きっとうまくやっていけるわ。
だって、
私たちはよく似ているもの」
それから娘は、
青年のそばで暮らし始めた。
朝起きて「おはよう」と言い、
夜寝る前に「おやすみ」と言い、
おはようとおやすみの間には、
歌の練習をしたり、
踊りの型の確認をしたり、
青年を中心に等間隔に花を植えて、
朽ちるまでの時間と距離の関係を調べたり、
様々なものを『腐界』の外から持ち込んでは、
青年に渡したりした。
渡したものはすべて朽ちてしまったが、
娘は特に気にする風もなく、
一人で納得した顔をしてうなずいていた。
青年は娘の意図を計りかねて困惑していた。
娘は神父のように青年を導くことも、
旅人のようにともに笑いあうこともしない。
触れあえるほどに近づくことはなく、
遠く去ってしまうわけでもない。
たとえ昼に姿が見えなくても、
夜には必ずおやすみを言いに戻った。
青年の目には、
娘は一人で充分に生きているように見えた。
ならばどうして、
彼女は『腐界』に留まるのだろう?
ある日、
娘は強い日差しの下、
目を閉じ、
座っていた。
その腕には、
清涼な香りのする墨で、
複雑な文様が描かれている。
太陽が中天に差し掛かるころ、
娘はゆっくりと立ち上がり、
呼吸を整え、
そして、
静かに歌い始めた。
「白い砂と陽の光を集めて、
きれいな糸を紡ぎましょう。
永遠にほどけることのない、
丈夫な糸ができるでしょう」
不思議な旋律に乗せて、
娘は美しい声で歌う。
歌に合わせて踊るように手を振ると、
太陽の光を受けて輝く砂が、
娘の指先を追うように舞い上がり、
寄り集まって細い糸となった。
「宵の空と月の光で糸を織り上げ、
きれいな布をこしらえましょう。
永遠に朽ちることのない、
見事な布ができるでしょう」
娘が紡いだ糸を宵の空に差し出すと、
風がふわりと糸をさらって、
空高く舞い上げた。
月の光に照らされた糸は、
くるくると踊る娘の動きに合わせるように、
自然と織り上げられて一枚の布となった。
「夜気と星明りで布を染め上げ、
きれいな手袋、仕立てましょう。
永遠に褪せることのない、
素敵な手袋になるでしょう」
布はふわふわと宙を漂って、
夜気をまとい、
淡い星の光を吸いこんで、
美しい青に染まった。
娘が両の手を空に掲げると、
布は自ずから二つに分かれ、
手に絡まって、
その姿を手袋へと変じた。
娘はほうっと長い息を吐くと、
祈るように手を組み、
つぶやくように歌を紡いだ。
「素敵な手袋、身に着けて、
あなたに会いに行きましょう。
凍えて震えるあなたの胸に、
どうか、永遠なる温もりを」
まっすぐに、
青年に向かって歩く娘に、
「それ以上、
近づかないでください」
青年は固く、
尖った声を投げた。
娘は歩みを止め、
表情を変えずに、
「なぜ?」
問いかける。
「何をいまさら。
僕に近づけば、
待っているのは滅びだけ。
この呪わしい身体は、
世界のすべてから、
拒まれているのだから」
青年の言葉に、
微笑んで、
娘は再び歩き出す。
「うぬぼれないで。
あなたがどれだけ世界を拒んだって、
世界はあなたを拒みはしないのよ。
どれほど孤独を望んだって、
私はあなたを諦めないし、
光も、砂も、風も、
あなたを放っておいてはくれないのよ」
そして娘は、
淡く青く光る手袋をつけた右手で、
青年の胸に、
そっと、
手を触れた。
「ほら、
またひとつ、
あなたに、
近づいた」
わずかに震える声と共に、
触れても朽ちぬ手のひらから、
温もりが伝わる。
娘の手を取り、
両の膝を地面について、
青年は泣いた。
大きな声で、泣いた。
娘が教えてくれたこと。
北の地に咲く小さな花の名前。
暖炉の前で語られる昔話。
人を愛することを、
人から愛されるということを、
諦めないということ。
諦めなくていいということ。
幸せになるための方法は、
必ずどこかにあるということ。
青年の目から溢れる涙が、
乾いた砂を潤し、
『腐界』は瞬く間に、
緑豊かな森へと姿を変えた。
清浄な水を湛えた泉が湧き、
鳥や虫や獣たちが集い、
森はたくさんの命を育んだ。
森の中心には大樹が茂り、
青年と娘は、
そのふもとで暮らした。
そして青年は、
飢えも老いも知らぬ身体と、
永遠の命を、
失った。