オーバーラップ
「もう二度と会わないかもしれないのに、なんでそんなに平然としていられるの?」
女の子に声をかけられた。
ふと記憶が蘇る。卒業式のときの記憶だ。
僕はクリーニングから帰ってきたばかりの折り目のしっかりついた制服を着ていた。
紺色のブレザーの袖さきは相変わらずほころびていたが、気付いたら付いていたズボンのしみはちゃんと落ちていたし、いつもはだらしなく結んでいるストライプ柄のネクタイも、今日に限ってはきっちりと締めていた。
春日が鋭く差し込んでいる昇降口から校庭にかけての犬走りは、式典を終えて出てきた卒業生によってごった返している。
在校生も多い。あちこちからデジカメのフラッシュが上がり、トーンの高い笑い声が聞こえ、そこかしこに涙を流している女の子も見えた。
遠くのほうでは、高井が何人かの輪の中に立ち、今は誰もいないはずの校舎へ向かって、「お前ら勝ったと思うなよぉ」と意味のわからないことを叫んでいるのも見えた。
みんながみんな最後の高校生活日を狂ったように充足させようとしていた。
僕に声を掛かけた女の子は誰だったろうか、思い出せない。
「平然としているように見える?」
僕がそう言うと、彼女は当然といった表情でうなずいた。
そうだ、僕に話しかけたのは僕の所属していたサッカー部のマネージャーだ。
「『気軽に涙が流せるやつは、本当の別れを知らないやつだ』」
僕がどこかで読んだ小説のフレーズを引用して言うと、マネージャーは
「なにわけわかんないこと言ってんのさ、ほら佐々木先生のとこにあいさつ行くよ!」
と耳も貸さずに僕の腕をつかんで強引に職員室に引っ張っていった。
幾度となく僕のことを怒鳴り散らし、最後の大会で僕らが敗退したときですら個人の責任の言及した顧問も、さすがに卒業式ともなると気持悪いほどやさしくなるらしい。僕とマネージャーの2人を前に10分ほどの思い出話をした。
「お前の突然何を思ったかのオ−バーラップには何度も驚かされたよ。でも不思議と点につながるんだよな」
僕は、そのオーバーラップをしたおかげで何度おまえに怒鳴られたと思ってんだよ、と思った。
が、声には出さなかった。
僕は2人いる守備的ミッドフィルダーのうちの1人だった。
中学まではフォワードをやっていたが、高校になってからはこの顧問にボランチへコンバートされた。
それでも攻撃が好きな僕は、守備的なポジションにも関わらず、よく前線まで攻め上がった。もちろんその攻め上がりのせいでとられた点も数え切れないと思う。
顧問にそう言われても僕は苦笑いをするほかなかった。マネージャーは僕の肩をたたいて笑っていた。
思い出話もたけなわになると、僕らは3年間のお礼を言い、職員室を出た。
「確かに、日比野の攻撃参加にはアタシも何度か焦ったもん」
「ヤンジャムも点につながってたって言ってたろ?全部計算だったんだよ」
僕らは顧問のことを外見がジャムおじさんに似ていたことと、その理不尽であらあらしい性格から、ヤンキーなジャムおじさんということでヤンジャムと呼んでいた。
「そんなの最初で最後の優しさに決まってるじゃん。日比野のあのプレースタイルはただの自己中だね。なんかディフェンスのうっぷんをオーバーラップで晴らしているだけに見えたよ」
たしかにそうだ。
それを確信的にやっていた。ただ、誰かにそれを気付かれていたというのはちょっと驚きだった。
「そういうことは現役のときに言ってよ」
僕は笑いながら言った。
マネージャーは元気な性格の女の子だった。
底抜けの明るさという言葉が彼女には似合った。髪は肩の下くらいまででうっすらと茶色く、軽いウェーブのかかったパーマをかけていた。
顔はものすごくかわいいというわけではないのだが、みんなに好かれる顔立ちをしていた。とても気が利き、マネージャーとしては文句なかった。
険悪だったチームキャプテンとゲームキャプテンの仲をとりもったのも彼女だったし、前半10分で交代させられ、顧問に殴りかかろうとしたエースストライカーをぎりぎりのところでおさえたのも彼女の叫び声だった。
僕も彼女には好感をもっていた。彼女が2年から3年の春くらいまで付き合っていたのが、1コ上の先輩の控えディフェンダーだったというのも彼女に好感をもった理由だった。
もし彼女がエースストライカーとでも付き合っていたらそんな好意も相殺されていたに違いない。理不尽なようだけど、好感なんてそんなものだ。
マネージャーが付き合っていた先輩は、控えとはいえ能力はレギュラーとあまり差がなかった。と、思う。
顧問は彼をプレスが弱いという理由から結局一度も公式戦では出場させなかった。
彼はただ優しすぎたんだと僕は思う。
プレスの弱さはチームメイト相手の練習中だけで、試合ともなると決して弱いプレスではなかった。
本来激しいプレスをかけなくてはいけなかった僕のプレスのほうがよっぽど弱かった。
彼のパスカットをする読みの鋭さに何度か脅かされたこともあったし、チームメイトを気遣い、穏やかにやっている練習でヤンジャムの機嫌を損ねさえしなければ少なくとも公式戦の何試合かはスタメンでも出られたと思う。
性格も外見もおとなしく、どちらかというと目立たない人だった。
だから彼とマネージャーが別れた原因が、その先輩の浮気だったと聞いたとき、僕らは少なからず驚いた。
相手は彼が進学した先の専門学校の人だったと誰かから聞いた。
「卒業式だっていうのにやけに冷静だよね」
マネージャーは僕に向かって言った。僕らは打ち上げの行われる駅前のカラオケまで歩いて向かっていた。
「そんなことないよ。ほら、むっちゃ悲しんでるじゃん。」僕はわざとうなだれてみせる。
「わかったわかった。」マネージャーはあきれた顔で僕を置いていくように少し歩調を速めた。
「ちょっとちょっと、なにもそんな早足にならなくても。そっちこそそんな悲しんでるように見えないんだけど」
赤信号で止まった彼女に並ぶ。
「なんか別れることに慣れちゃった。」
彼女は地元の県内にある短大へ進学することになっていた。
「日比野も別れたばかりだからそんな無感情なのかもね。」
僕は彩子と別れてからまだ1週間ほどしかたっていなかった。
彼女がどうしてそれを知っていたかはわからなかったが、僕は何も言わずに、信号が青になるのを待って歩き始めた。今度はマネージャーの歩調もゆっくりとしていた。
「日比野はまたより戻ったりしないの?」
僕は高2のときにも一回、彩子と別れていた。
そのときは結局より戻ったが、今回の別れの原因は1年前とは比べられないほどの問題だった。もう決してより戻ることはない。
僕は首を横に振る。そう、とマネージャーは小さくうなずいた。
「アタシ、なんか人と別れるごとに何かを思うことができなくなっちゃったんだよね。なんと
も思わないの。ああ、もうこの人とは二度と会えないかもしれないんだなぁ、悲しいことなんだな。って、そこまでは思うんだけど、そこからどうしたらいいかわからないの。あれっどうやったら悲しめるんだっけ、って」彼女は大げさに首をかしげて笑う。
「もう病気よ。感情不全」
そんな病名聞いたことがなかった。
「なんで2度と会わないかも知れないのに平然としていられるかって聞いたよね?」僕は言う。
マネージャーはうなずいた。
「2度と会わないかもしれないから平然としていられるんだよ」
えっ、と彼女は言った。
僕は前方に見えてきたカラオケ屋に目を止め、やっと着いた。と大きく伸びるしぐさをした。マネージャーはそんな僕を見て微笑んだ。
「日比野、腐ってるよ」
「そうだよ。オレは腐ってるんだよ」
僕も笑顔で言い返す。マネージャーも僕と同じように大きく伸びるように体を反らしていた。
「日比野は東京行くんだよね。サッカー続けるの?」
「わからない。続けるかもしれないし続けないかもしれない。ディフェンスの憂さ晴らしに攻
撃参加していいボランチをやらしてくれるチームがあったら続けるよ」
そんなチームあったら困るよ。彼女は笑いながら言った。
「でも」
彼女は言った。
「アタシ実は日比野のプレイスタイル結構気に入ってたんだよ。続けるんだったら応援しに行くよ」
「東京まで?」
僕がそう言うと彼女はまた笑った。
「『別れを平然とこなすことは、別れを悲しむことよりも、難しいことだ』」
彼女が突然脈絡もなく言い始めた。さっき僕が引用した小説のセリフだと気付く。
「『なぜならそれは、未練のない付き合いをしてきたことの証だからだ』」
幸か不幸か、僕の言っていたようなチームはまだ見つかっていない。