誰がために
僕が暮らしているのは、ごく普通の世界。どちらかというと幸せな家庭だ。どこにでもある。
彼女もいる。一応。一応なんて言ったら彼女に怒られるな。
見た目にもそこそこ可愛いし、性格だっていい。
そんな彼女――芙亜との会話。
「ねえ、かずゆき?」
彼女……芙亜が俺に語りかける。かずゆきというのは俺の名前だ。
場所は彼女の部屋。もちろん、家にふたりっきりというわけではない。不純異性交遊ではない。
芙亜の母親の監視の元――監視というのは大げさだが、俺は礼儀も正しく真面目な少年として見てくれているので――、部屋でお菓子を食べたり、ゲームをしたりと、いたって純粋なひと時を過ごしているだけ。
「かずゆきって小説とか書いているよね?」
これは周知の事実。趣味がこうじて投稿サイトなどに幾つもの短編、そして幾つかの連載なんかをしている。文章修業。いつか作家になれる日を夢見たりしながら。
「小説ってね、生きてるんだよ?」
話が見えない。ここはひとまず続きを促す。
「遺伝子って知ってるよね?」
それは、知ってる。生物の授業で習ったことだ。それ以外にも、一時期興味を持って調べたことがある。何冊かの本を読んだ。しかし、小説が生きていることと、遺伝子と何の関係が?
「利己的な遺伝子っていう考え方があってね」
ああ……、なんとなくだけど……。
遺伝子っていうのは、遺伝情報……つまり、生物としての形態を伝える役割だけじゃなくって……
自ら意思を持っているかのように、自己の遺伝子を護ること、そして自己の遺伝子のコピーを増やそうと目論んでいるということ。
そんな理論だ。
利己的と利他的。利己的というのは自分に都合のいいように振る舞うこと。利他的というのは他社の利益のために行動すること。
一見して……皆、利己的でありながら利他的な側面を持つと思われがちであるが……。
例えばミツバチを例にとってみると……、
働きバチは、利他的な行動を取っている。自らを犠牲にして仲間を護る。
自らは、子孫を残すことは無い。なぜなら、子孫を残せるのは限られたオスバチと女王バチのみであるからだ。
しかし、利己的遺伝子という考え方ではこのような解釈を取っている。
仮に働きバチが自らの子孫を残すことができたとしよう。その場合、遺伝子的つながりは50%となる。半分はその伴侶の遺伝子だ。
が、ミツバチの雄は単為生殖であるため、働きバチの妹(あるいは姉)との遺伝的同一性は75%。
自らの子が50%の同一性しかもたないのにもかかわらず、妹の遺伝子手とは75%も同一なのである。
ということは、働きバチは自分の遺伝子を少しでも残したい場合は、子供ではなく妹を育てるほうが効率が良い……ということになる。
難しい話を持ってきてしまったが、単にそういう学説があるということ。
誰も、自分が一番というふうに考えがちだが――もちろん、利他的な振る舞いを日頃から行っている人物、生物は居よう、だが突き詰めて考えると――生物というのは遺伝子の乗り物であって、本能的には……究極的には自らの命より、遺伝子の存続を優先している……らしい。
「結局……生物なんて、遺伝子にいいように利用されているだけなのよね。人間も含めて……」
芙亜の言いたいことはわかる。だけど……それは悲しすぎる考え方だ。
本能の部分では、確かに遺伝子至上主義なのかもしれない。
それでも人間は愛という概念を生み出し、慈しみという考えを持った。偽りの博愛でもいい。自己より他者を優先するという犠牲愛は少なからず存在するのだ。
ここで僕はちょっといじわるな質問をする。不謹慎と取られかねない。だけど、芙亜との議論はあくまでも学術的だから、このくらいの会話はいつものことで、芙亜も特に嫌な顔はしない。
僕のなげかけた質問、それは……、『芙亜は自分の遺伝子を残したいって思う?』
それに対して芙亜は、
「結局……そういうことなんでしょうね。本能としては。ただ、理性がそれを邪魔している。高校生の身分で子育てなんてできない。道徳的にも、金銭的にも。お父さんとお母さんを悲しませたくないし」
ならそれでいいんじゃないかな。結局のところ、極限状態で……言い方を変えると生きていくのがやっとのような世界で暮らすのであれば、子孫を残すことは至上命題だ。
本能の赴くまま……子作りに励んだって責められることではない。
人間という種の存続――それが、人間という種ではなく、単に自分の遺伝子の存続と置き換えてもいいが――をはかるのが人間と入して生まれたことの意味、役割なんだろう。普段は芙亜の言うとおり、理性や社会情勢がそれを抑制しているが。
で、話が逸れているけど……?
「ミームって知ってる?」
ミーム……。技術や技法、それこそ小説のような物語など人から人へと伝播する情報の別称。
ミームという言葉を使った場合、それ自体を単に情報としてとらえるのではなく、伝わるの過程での単純コピーではなく……、形を変え、文化を横断し……さながら遺伝子のように勢力を拡大、維持していく情報形態のことを表す。
「生物の定義ってわかる?」
それについては、未だ議論が繰り返されている。
・自己複製能力を持ち
・エネルギー変換能力を持ち
・恒常性維持能力があって
・自己と外界との明確な隔離をしている
うんぬん。
長年自己複製能力を持たないウイルスなどが、生物と非生物のはざまで揺れ動いており、線引きは難しい。
「人工知能は……、人間と同じ、あるいはそれを凌駕する知能を得た場合……生物と認定されるのかしら?」
人工知能……、それ自体は生物でもなんでもない。ただのコンピュータプログラムだ。
「ねえ? どう思う?」
芙亜の言いたいことがなんとなくわかってきた。
生物の定義……、生きているということ。
その判断を、境界線を作るのは所詮人間である。
人間は生物である。だから、人間はより自分と近しいもの、共通点の多いものを生物と定義たくなる。その心情はわかる。
かつては、有機物という定義があり、有機物とは、生物由来の炭素化合物を指すと言われていた。
しかし、無機物で構成された生命体の存在する可能性も示唆されており、近年では、有機物というのは生物に必須ではないという考え方も受け入れられつつある。
人間が基準である……という概念を捨て去った時……、生物の定義は拡大する。
地球上生物は地球でしか生息できない。
が、しかし地球外生物(それが居たとしたら)は、地球という環境なしでも生息できる。
コンピュータ生物――ここでいうコンピュータ生物とは、コンピュータウィルスのような低レベルのものを指すのではなくもっと進化を遂げたものである――は、ウイルスのように自分自身では自己複製できないが、コンピュータ上で与えられた限られた資源、あるいは人間の介錯によって、自らを増やして、増大していくだろう。
「遺伝子は利己的なんだって。自らを増やそうと……生存確率を上げようと……必死でもがいている。だけども……複雑になりすぎた生物に格納された遺伝子は絶滅という憂き目にあって……、優れた遺伝子だけが勝ち残る。
ウィルスは宿主の体を利用して……時には宿主の意識を乗っ取って自らを増やそうと努力する……」
わかった。芙亜……。その先は言わないでくれ。
人間が自意識を持ち、自らのために生きているなんていうのは幻想だ。
人間なんて遺伝子のために用意された箱に過ぎない。
だけど、人間を利用しているのは遺伝子だけじゃない。
ミーム……、その中に含まれる物語……つまりは小説も……、人間の意識に働きかけて自らのコピーを増やそうと躍起になっているに違いない。
優れた物語は、オマージュ、パロディ作品を生み、その構成やアイデア、トリックなどは後世に引き継がれ……、形を変えて再発表という機会を得て、そして紙という媒体で……電子化されたこの時代では瞬く間に増殖していく。
メディアミックスを繰り返しながら、物語のコアは拡散していく。
遺伝子が生物の人間の行動をつかさどっているのなら……、利己的な遺伝子が人間を支配しているのなら…………。
物語は人間を支配している。
宿主である人を、その文化を殺さぬように。しかし人間を自らの都合の良い様に改変しながら……。
僕は、芙亜との会話を物語をして綴ってしまった。僕の書く小説なんて広くは読まれない。出版もされない。
だけれど……、投稿先のサイトが存続する限り、電子的なデータとして生き続ける。そして、数少ない読者に影響を与えることだろう。
僕ごときが書いた小説ですら、永遠に近い命を持ち(インターネットアーカイブなど、ネット上のデータを半永久的に残すシステムはもう出来上がっている)、ひっそりと……、次の機会……人間が滅びた後、違う形で増殖する機会をうかがっている。
僕はなんのために物語を書くのだろう。
僕自身のためなのか……、それとも物語の命を紡ぐためなのか…………。
僕はなんのために物語を読むのだろう。
人間としての僕自身のためなのか……、それとも新たな物語を書くための養分を得るためなのか……。