星は、北へ
Tmさま主催の『星企画』参加作品、星をイメージした全年齢対象作品です。詳しくは特設サイト(http://naroutm.web.fc2.com/)もしくはTmさまの活動報告(http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/87699/blogkey/506138/)をどうぞ!
そしてこの作品は、アジアの架空の国チャイサートを舞台にしたシリーズの一作になります。単品でお楽しみいただけるように書きましたし、シリーズの楽しみも含めました。よろしくお願いします。
まっすぐに差し込む月の光は、硬質でありながら脆く儚い。幾筋もの光が林の中を浮かび上がらせても、その奥の闇は深く大きなまま、静かにわだかまる。
幾重にも重なる虫の声を一つずつ聞き分けながら、トゥリダは下生えを長靴で踏み分けてゆっくりと歩いていた。
腰にくくりつけた竹籠には、今夜の収穫が入っている。闇の中で発光する植物は、夜の方が見つけやすかった。
光も、音も、闇の中では際立つ。
林の上の空に雲が出てきたのか、差し込む光が薄くなり視界が悪くなってきた。しかし、すでに目は闇に慣れている。彼は危なげなく、ブナの間を進む。
山の中腹であるこの辺りは、夏とはいえ夜になるとずいぶん冷え込んでいた。白の合わせの服に袖なしの外衣という服装のトゥリダは、外衣を着て来て良かったと思いながら、今後の生活に思いを馳せた。
次の夏には妻の実家のある村に移り住むことになっているのだが、そこはここよりさらに高地だ。ここでこれだけ涼しいのだから、移動する際には十分な準備が必要だろう。
瀬音が耳に届き始めた。
上流に少し行ったところに、延縄(幹縄から伸びた幾本もの枝縄に針をつけてあるもの)をしかけてある。確認してから帰ろうと、トゥリダは瀬音の方へと足を進めた。夕方に仕掛けておいて夜中に一度様子を見に行き、朝に引き上げるのが習慣で、家族の分の魚はこれで十分獲れた。
歩きながら、我が家を思い浮かべる。
川にはみ出すように建てられた高床の家。
ぽつりと灯る暖かな明かり。
妻は先に寝ると言っていたが、そう言いながらも起きているかもしれない。
ふと気づくと、暗いはずの林の一角が、ぼんやりと明るい。ブナの木々が立ち並ぶ向こう側だ。その光は、トゥリダが今夜摘んだ薬草よりも大きな光だった。
彼は静かにそちらへと近寄り、ブナのざらりとした幹に身体を隠すようにして、そっと向こう側を覗き込んだ。
藪の中に、白い光があった。その光はゆらりと揺らめき――振り向いた。
「……これは」
驚いて目を見張る。
それは、真っ白な肌に金色の髪をした、全身に光をまとった子どもだったのだ。
子どもはトゥリダを振り向き、きょとんと見上げている。
額から他より強い光を発しており、身体のあちらこちらもきらきらと瞬いている。まるで星屑をまぶしたようだ。
瞳は大きく、そして春の空のような薄い青。
明らかに、異国の顔立ちをしていた。
裸の尻を苔の生えた地面にぺたんとつけ、ふっくりした足を投げ出して座っている様子は一歳になるならずなのだが、表情だけは何故か、もう少し上の年齢に見えた。
そう、例えば、生まれる前のことを尋ねても答えてくれそうな……。
トゥリダはためらいつつも、子どものそばにそっと片膝をついた。
「お前、どうやってここに? 誰かに連れてこられたのか……?」
子どもは不思議そうに、彼を眺めている。
山の冷気の中、裸ん坊で座りこんでいる子どもは、しかしとても元気そうに見えた。まとった光が、さざ波のように温かさを伝えてくる。
トゥリダは辺りを見回した。しばらく耳を澄ませてみたが、人の気配は全く感じられない。
親が連れに来る可能性はあるだろうか? そもそも、こんなに小さな子どもを裸で土の上に放り出し、虫に刺されるままにしておくと言うのは……。
「とにかく、うちに来い。怖くないからな」
トゥリダは微笑んで見せると、子どもの脇に手を入れ、抱き上げようとした。
すると、肌に触れる感触の代わりに、まるでヤギの毛に触れるようなすべすべした柔らかい感触があり、子どもはトゥリダの両手の上にふわりと浮いた。
重さなどないのに、トゥリダはあわてた。力を入れすぎないようにと気を配り、両腕を器のようにする。
――人ならざる者か……。
トゥリダは一瞬、後悔した。
もしかしたら、この子に近寄ってはいけなかったのかもしれない。この先の川に招き入れられ、気づかないうちに溺れ死ぬとか……と、こっそりと自分の手の甲をつねった。
しかし痛みははっきりと感じるし、辺りを見回しても何の変哲もない夜の林の中だ。
子どもは光の中、不思議そうな表情をしてトゥリダを見上げている。
「……とにかく、行くか」
彼は覚悟を決め、頼りないその光を抱えるようにして歩き出した。もしも彼の様子を見ている者がいたら、森の中を人魂が移動しているように見えただろう。
林を抜けたところは、土手の上だった。
瀬音と、林の中とは濃さの違う闇が、彼を包み込む。川面を涼しい風が渡ってきて、岸辺の草を揺らした。
見ると、腕の中の子どもは、熱心に空を見上げている。視線をきろきろと動かして、まるで何かを探しているようだ。
つられてトゥリダも見上げたが、空は薄い雲に覆われており、かろうじて月がおぼろに光っているのみ。
川向う、やや下流の方に、高床の粗末な家が見えている。軒先にはやはり、吊し灯籠が一つ灯されたままになっている。
彼はやや急ぎ足で、家を目指して歩き出した。土手を降り、川にかかった木造の橋を渡り始める。
きし、きし、と音を立てながら橋の中央まで来た時、すうっと光が射した。雲が切れたのだ。
腕の中の光が、大きく揺らめいた。子どもが、光の球の中でわずかに身体を伸ばした。
風が吹く。
雲が動く。
上弦の月と、いくつかの星が、顔を出した。
子どもは何かを探すように、夜空を見渡している。
さらに雲が流れていき――
北に、ひときわ輝く星が姿を現した。
とたん、子どもはパッと笑顔になり、ふ、とトゥリダの頭上に浮いた。
声もなく驚くトゥリダの目の前で、子どもは宙でくるりと身体を丸めた。光の球は発光する虫のように小さくなって、すいっ、と夜空にのぼった。
すぐにその光は、星と区別がつかなくなり――いや、さらに北へと流星のように細い尾を引いて流れて行った。まるで後を追うように、さらに流星が一つ二つ、空を滑った。
一体何が起こったのかわからないまま、トゥリダはしばらくそこに立ち尽くしていた。
やがて夢から覚めたような気分になり、軽く頭を振った。
「……帰るか」
橋を渡り切り、土手の上を歩いて行くと、家の手前で灯りがゆっくりと揺れていた。
さっきの子どもを思い出してはっと顔を上げると、軒から外した布張りの灯籠を手にした妻が、土手を登って来るところだった。
「遅かったのね……。先生に頼まれた薬草は見つかったの?」
いつもは結い上げている長い髪を、夜は下ろしている彼女は、頭から布をかぶって胸元で抑えている。利発な瞳が灯りにきらめいた。
「ああ、うん、明日煎じて師匠に持っていくよ」
どこかぼんやりとうなずく夫の顔を、妻は覗き込んだ。
「そう。……どうしたの? ぼんやりして」
「いや、今な……」
トゥリダは橋の方を指さして、今の不思議な出来事を語り聞かせた。
妻は面白そうに話に聞き入り、そして何かを思い出す表情をした。
「ずっと北の、異国の物語にね。赤ちゃんのことを、腕や脚が金銀でできていて、身体に月や星を持っている……っていう風に語るお話があるんですって。その子、その北の国の子どもなのかしら」
そして、ふふ、と笑った。
「そう言えばあなたを見送った時に、今夜は流れ星が多いな、と思ったの。きっと北の国に向かう途中で、うっかり山の中に落っこっちゃったのね」
「落っこちた?」
トゥリダが聞き返すと、妻はくすぐったそうに笑い、
「誰かのお腹の中に宿りに行く途中だったのよ、きっと。なんて……想像よ想像。もう、なかなか戻らないから心配したわ。あなたはすぐに迷子になるんだから」
と照れ隠しのようにトゥリダの腕を軽く叩く。
「そうか……さっきの子は、迷子か」
腑に落ちた気分で、トゥリダはつぶやいた。
空の見えない木々の下に落ちてしまい、途方に暮れていたのかもしれない。それならば、いいことをした、ということなのだろう。
彼は妻と目を合わせて微笑むと、灯籠を受け取って妻の肩を抱いた。
「星は、北へ向かった。君の故郷よりも、寒い所に行くんだろう。無事に母親の腹にたどり着けるといいな」
家の方から、小さな泣き声が聞こえた。
「あ、ツィージンが起きた」
「……うちの娘も、さっきの子どものようにして俺たちのところにたどり着いたのかな」
「そうかもね」
二人は連れ立って土手を降り、高床の家の階段を上った。二つの影と、一つの灯りが、家の中に滑り込む。
木戸がゴトン、と閉まる音がして、景色は闇に沈んだ。
あたりには再び瀬音と虫の声が満ち、夜空には星が、まるで命あるもののように瞬いていた。
【終】
「腕が金(銀)、脚が銀(金)で、身体に天体を持つ子は、スラヴの口承文芸の常套表現形式であり、ウクライナ、ベラルーシの口承文芸にもあらわれ、古層の神話表象に起源するものと思われる」(栗原成郎『ロシア民俗夜話』(丸善ライブラリー)より)