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六月の憂鬱

作者: 不破 雷蔵

二作目です。暗いです。

HP上で見易いように文章を区切ったのですが、携帯で見にくかったらゴメンナサイ。

「ねぇ、まるおは死んじゃったらどこに行っちゃうの?」


六月の湿気を含んだ嫌に重たい雨が僕の体を濡らしている。

その目の前にある刺さるようにその色を主張するショッキ

ングピンクのビニールの塊は娘の祐美だ。

娘は今年の春で五つになった。


僕は自分の娘に甘い親だと思う。

このこじんまりとした一軒家の借家に引っ越したのも元を

ただせば、娘の拾ってきた野良猫を飼うことのできる環境

にするためだった。

妻も多くは言わなかった。

駅もわりと近く、彼女の仕事場にも遠くはならず、むしろ

近づくこともあって快諾とまではいかないがそのことで

険悪なムードを作ることはなかった。


そして、まるおとは娘の拾ってきた猫の名前だ。

まるおは一週間ほど前から姿が見えなくなっていた。

拾ってきた当時既に成長して大きく、誰かが餌を与えていた

のか丸々と太っていた。あれから三年近く経つが、今では

違う猫かと思うほど痩せていた。

いつも帰ってくる時間にまるおが帰ってこないことで、僕

はまるおの寿命が尽きかけていることに薄々気づいていた。

ただ今にも泣き出しそうにしている娘を前に猫の死に際の

習性を伝えることはどうしても躊躇ためらわれた。

すぐ帰ってくるよ、などと適当に誤魔化していたせいで、

幼稚園が休みである今日は朝から家の近所を一緒に歩き

回らされた。運動不足の体には好いのかもしれないけれど、

へとへとに疲れてしまった。

少し気の毒だったが、まだまるおの帰りを待つ娘を庭にお

いたまま、僕は庭に出ることのできる軒先のある部屋から

水滴にぼやかされたガラス越しに映るピンク色を横目に

見ながら、台風が近づいているというニュースに聞き入

っていた。

疲れからついウトウトとしてしまい、娘がまるおと呼ぶ声が

消えていたことにも暫く気づかずにいた。

ふと、その違和感に気づいて僕は娘の名前を呼んだ。

返事は返ってこなかった。

じわじわと浮かんでくる不安は親としての動物的感覚で

あるようで、僕は今までにはない機敏な動きをしている

自分に少し驚く。

玄関を開けたまま妻のサンダルで庭先に飛び出していた。


それでも探し回る必要もなく娘は僕がいた部屋の前でうずくま

っていた。僕が寝ころんでいる位置から見えなかっただけ

だった。ただ、うずくまったままじっと軒下を凝視し続ける

娘の態度に僕の呼び声に返事が出来ないでいた理由を

伺い知ることが出来た。


娘の視線の先はまるおだった。


まるおのその姿はいつも見ていた白を基調にして、黒と茶の

ぶちがついた丸々と太った三毛猫とは似ても似つかぬものだった。

というよりは、二日前から続く長雨による泥や軒下の埃

によってただの薄汚れた肉のかたまりでしかない。

それを猫と認識できるものは細くだらり伸びた四本の足

だけだった。


娘はまるおがいなくなってからずっと探していた。明るい

うちに近所を探し、家に帰った後薄暗い庭を懐中電灯一本

でまるおの名を何度も何度も呼んでいた。

その時には覗いただけでは真っ黒なこの物体をまるおだと

は大人の目でも認識できなかっただろうし、なにより娘は

まるおが死んでいるとは考えていなかった。


僕は何を言えば良いのか分からないまま、娘のそばに寄り

添ってやろうと屈み込み、手を添えようとした。それを

するりとすり抜けるように娘は軒下に入り込みまるおの

ところまで這っていった。

そして両手でまるおを囲うように抱きしめそのままのカッコ

で引きずるように這い出して来た。

かわいい小さな掌や膝やピンクの合羽カッパを泥だらけ

にして娘はまるおを抱きしめていた。


その愛らしい顔と不釣合いな持ち物の組み合わせに僕は胸が

痛くなった。その気持ちは、悲しみに歪む娘の心を思ってで

はあったのだけれど、そのとき見た娘の表情は僕の想像とは

かけ離れたものだった。

娘はまるおを生きていたときと同じような愛おしさに満ちた

笑顔で見つめ、頬を近づけるように強く抱きしめようとしたのだ。


「とおさん、まるおかえってきたよ」


そう言って弾むように笑ったのだ。

まるおを顔に近づけるたびに娘の頬は泥で真っ黒になっていく。

僕は言葉を失い、暫く考えることも時間の経過さえも無くして

しまっていた。

それがどうにか収まったのは、妻の車が車庫に入る音を聴い

てからだった。

随分と図ったように嫌なタイミングだったけれど、この時の

僕はこれからどうするのかという考えはまったく浮かばず、

この場の雰囲気を変えてくれる存在としての妻の登場に

すべてを依存していた。


「あなた!なにやっているの…」


この雨の中、サイズの合わないサンダルを履き傘も差さず

立ち尽くす僕に妻は予想道理の言葉と険しい表情を覗かせた。

僕はどういって良いか分からず、救いを求めるようにじっと

妻のほうを見ていた。

妻の視線が僕から外され娘に向いたのが分かった。


「あ、かあさんおかえり。まるおかえってきたよ」


その声は母に甘える娘のものであった様に思う。

でもそこに返された妻の返事は母としての包容力に満ちた

言葉でなど決してなく、恐怖に彩られた悲鳴でしかなかった。

ある意味でそれは正当な行動かもしれない、人としては。


僕は何とか動かなくなった頭を回転させることに集中した。

僕のすべきことは少なくとも妻のように半狂乱になること

ではない。手に余る存在をどうにかしなくてはならなかった。

それはどうにかなる範囲のものに限ってだけれど。

二人のやり取りを見る間もなく僕は素早く車庫の裏へ回り、

ごみの日に捨てる予定だったダンボールを探した。

適当な、もちろん何が適当かもはっきりとは分からないが

ダンボールを見つけ、折りたたまれた状態から箱に戻し

ながら庭の方に戻ろうとした。庭先へ曲がるところで娘が

走り寄ってきた。もちろん、腕にはまるおが抱えられたまま。

後からふらふらと後をついて妻がやってきた。

動揺に動きをとられ、弱弱しく歩いているが険しい表情は

今にも増してきている。娘は妻の掴もうとする手を避ける

ように泥の塊になったまるおを抱き締め嫌嫌をする。


「そんなもの捨ててきなさい!どこでもいいから!

 じゃないとお母さん家へ入れてあげないから!」


と妻は叫んでいる。

一言一言を発するたびに妻はヒステリックになってゆく。

現状を考えれば、無理もないことなのかもしれない。

とりあえず妻を落ち着かせるのは娘から離すことだと夫婦生活

からの経験が教えてくれる。

娘の背に手を添えて、ダンボールと娘の前に差し出す。

僕は娘と目を合わせてた。意固地になった気持ちを少しでも

なだめようという気持ちで微笑んでみた。

暫くはまるおを抱きしめたては硬く閉じられていたが、

しぶしぶという感じで娘は持ってきたダンボールにまるお

をいれた。

まるおを抱くことに何の嫌悪も見せず、悲しい感情さえ

出さなかったが、どうやら死んだことを認識できてない

わけではないらしい。

そのことがこの歪んだ状況の中で僕の気持ちを少しだけ落ち着

かせてくれた。


行こう、とだけ言って僕は先に車に向かった。

少ししてダンボールを抱えた娘がしぶしぶという足取りで僕の

後を付いてきた。

娘が助手席に座り、車を走らせても僕は妻のほうを振り向か

なかった。ただ、妻がいまどうしているのかは分かる。

きっと傘も差さず立ち尽くしていることだろう。

ついさっきまでの僕と同じように。

そこにどういう言葉を残していけばいいのかは、考えることさえ

出来なかった。



雨は依然として止まず、さらに強さを増している。

何かが抜け落ちたような車内にワイパーの規則的な音だけが

響いている。

娘が突然口を開いた。


「なぜ死んだら母さんは気持ち悪いっていうの?

 まるおのこといつもかわいがってたのに…」


これが随分と子供らしい間の抜けた質問であることは理解

できたが、同時に妻の態度が理解できないでいる娘の口調

に僕の不安は広がっている。

心がざわざわとして取り乱しそうになる自分の気持ちを

なんとか落ち着かせて僕は答えた。


「動物の体は腐敗すると、腐敗ってのは腐ること、強烈な

 臭いがする。ママはそれが嫌なんだよ。まるおのこと

 嫌いになったわけじゃないよ」


「でも、まるおはまるおでしょ!くさってもくさくても

 ほら、まるおだよ」


その通りだった。

私たちは死というものが訪れた物体を明らかに違うものと見て

しまう。腐り異臭を放てばそれは汚物でしかない。

それが避けるべきものであると自然に認識してしまう。

娘にはそれがない。


「人も動物も死んだら体は腐ってしまうんだよ。

 きちんと埋めてあげないとかあさんみたいに嫌ってしまう場合

 があるんだ。天国にも行けなくなる。まるおが嫌われたり天国

 へ行けなくなるのは祐美だって嫌だろ。

 だからずっと臭くなっていくまるおを家に置いておくことは

 出来ないんだよ」


僕がそう言うと、娘はただ黙って俯いてしまった。

僕もそれ以上何もいうことが出来ず、かわいそうだけど仕方が

無いことなんだよ、と言ってそっと娘の頭を撫でた。

娘はこちらを向いて無理やりにこっと笑った。それは苦笑に

近いもので僕の胸はまたぎゅっと痛んだ。


話はそこで終わった。

閉じられた空間である車中ではダンボールから臭う腐敗臭

が鼻をついた。


仕方が無いこと、それは都合のいい言葉なのかもしれない。


いつもそうだ、娘との会話に僕はいつも詰まってしまう。

うまく答えることができないのだ。


娘は何か他の子とは変わったところがあった。

それはかたくなな個人の意思と呼ぶにはあまりに度を越して

いて、我侭わがままと突き放すにはどこか理不尽なところがあった。

それでも娘の言うことには何か大人達の安易な無知を刺激して

しまうことがあった。ただ、それは言葉に留まらない。

行動においても、今日のことのように人から見て奇行と捉えられる

ような態度をとることが頻繁にあるのだ。

それについて娘は自分なりの考えや意思を持っていて、それを止め

させることさえ、毎度骨の折れる作業だった。


妻との間にもそれは起こりよく口喧嘩になるのだけれど、

それも娘のほうが妙に理屈が通っていたりするので妻の激情は

余計激しいものになった。


そのなんというか一般的な常識、それ自体至極怪しいもの

なのだけれど、そういった世の中でとくに疑いも無く受け入れ

られている常識を持たない娘に妻は危機感を感じていた。

当然といえば当然かもしれないが危機感はある種の疑念を生み、

娘の持つそれが人間的な欠陥であると思い込んでしまった妻は、

娘に教育と言う形でありとあらゆるものを押し付けようとしていた

時期がある。

いつだってそういう問題を夫婦間で話し合うのは難しいもので、

僕は娘が嫌だと言い出すまでは極力口を挟むのを避けていた。

娘の前で夫婦でもめている姿を見せるのが単に嫌だったのもあった。

どちらにしろ結局は娘がわりを食うことになることを僕は気づいて

いるべきだったのだ。

それが到底思い通りにはならないことであっても。


本当に注意しなければならなかったのは、娘が僕達の元から

離れているときのほうだった。


そして問題がおきた。

塾の講師に頬を打たれ鼓膜が破れたのだ。

話を聞けば授業中にふらふらと歩き出し、窓の方を向いて誰かに

気づいてもらうようにおーい、と手を振って叫びだしたのだそうだ。

講師はそれを止めさせようと娘を取り押さえようとしたのに一向に

娘は叫ぶのをやめようとしないので口を塞いだらその手をがぶりと

噛んだ。

それに腹をたて講師は突発的に平手で娘を打った。

その手が耳にまで届いて鼓膜を破くことになった。

その日は塾からの電話を聞き妻が病院まで連れて行くことになった。

塾長は平謝りだったが、当の講師は自分のしたことへの動揺と興奮

で責任逃れに従事した。

「どうしてもわからない子にはお仕置きも必要です、

 それに普段の行動から見ても、お子さんはどこか

 おかしいんじゃないんですか?」

と無様な言い訳をヒステリックに喚いた。

第一印象で何か自分の賢さを鼻にかけたような嫌な雰囲気があった。

もちろん、それはただの僕の思い込みかもしれないが。

その頃の僕は仕事の大きな山場に差し掛かっていて土日出勤や

夜遅くまでの残業が続き、僕が見る娘はいつも寝息を立てている

ときしかなかった。そのことでも胸を痛める日々が続き、さらに

妻の教育ママぶりにも少し嫌気が指していた頃だった。


要するに、僕はある限界に来ていたのだと思う。


僕はその講師の前に捻り寄った。

強がる講師の目に何をされるのかという恐れが浮かんだことが、

僕に愚かな行いに勢いをつけてしまった。


「おい、おまえ!分からないやつにはお仕置きが必要なんだろ!」


自分でも頭に血が上っていくのが分かった。娘に対する侮辱的な

発言が引き金になった。

震える手を力一杯握り締め、僕は講師の鼻骨を折った。

講師は仰け反った姿で二、三歩後づさり尻餅をついた。

鼻血が大量に出た。その場が凍りついた。

僕は震えていた。殴った腕だけ妙に熱くそれ以外は力が入らず

自分が尻餅をつきそうになるのを必死に堪えていた。

そんな僕の動揺を見抜けず、講師は血の吹き出す鼻を押さえ

凍りついたように怯えた目で僕から目を離せないでいる。

でも僕の中の怒りはそれだけでは収まりがつかず、


「はっきりといってやる。娘を殴るな!」


と叫んでいた。

そのときは自分のしたこととその状況に狼狽し、

訳がわからなくなっていた。

自分に危害を加えた対象として、ただおびえた様子で

妻にしがみついていた娘は歓喜して、とおさんつよーい、などと

場違いな叫び声をあげた。

僕たちがその場を離れるまで誰も講師には駆け寄ろうとはしなかった。

誰もが、もちろん僕もが予期せぬ最悪なことが起こり、

誰も何も考えることが出来なかった。

結局、行動したのは自分の見たいテレビの時間を気にして帰ろう

と言った娘だった。

僕と妻は娘の手に引かれるがまま、塾を後にした。

その後家に帰るまでのことはよく覚えていなかった。

その夜は娘の頬の腫れや熱に注意しながら、寝かしつけたあと、

妻と話をした。


「だからあんな塾やめておけばよかったんだ」


「しょうがないじゃない、あの塾は名門の私立に行く進学率が

 高い塾なんだもの…」

「その結果がこれだろ!」


まだ少しだけ僕の中に怒気が残っていたのか、声が大きくなった。

珍しく僕が感情的になっているのを見て妻は動揺していた。

彼女は力なく答えた。


「私はあの子の将来を潰したくないのよ。ただそれだけなのに…」


少し小さくなったように見える妻には申し訳なかったが、考え方を

改めさせる機会だと思い僕はため息をひとつ吐き、彼女に言った。


「気持ちは分かる、でもよく聞くんだ。

 いいかい僕も君も人が羨むような才能なんか何一つ持っちゃいない。

 君の期待は強すぎる。あの子は強制を嫌がる。

 あの講師だって無理やり席につかせようとして娘が手に噛み付いた

 んじゃないか。このままあの子に嫌がることをやらせ続けたら、

 君も娘からあの講師のような扱いを受けることになってしまう

 んじゃないのか?」


何かを言い返したそうな目をこちらに向けた。ただうまく言葉が

見つからないのか妻の口元はヒクヒクと震えている。


「あの子いつも急に席を立って歩き回ってしまうそうなの。

 先生が言うようにどこかおかしんじゃ…」


僕は妻をはたいていた。

振り返ってみても、彼女と付き合って初めてのことだった。

僕はすぐに謝った。妻ははたいた頬に手を添えて俯いたままだ。

僕はどうしていいかわからず、その場を離れた。

その日はそこで終わって口も聞かず、僕はリビングのソファの上で

じっと横になっていた。

手首に痛みを感じる。柄にも無いことをしたせいで、

体が付いてこなかったのだ。

僕は妻にしたことと、講師を殴ったことに対しての不安と罪悪感で

朝まで眠れなかった。講師が裁判でも起こせば、自分は会社を首に

なるのかと想像する。そのことに驚くほど心配を感じなかったけれど、

家族のことと近所の体裁を考えると後から後から嫌なイメージばかり

が溢れてきた。田舎へと戻ることまで考え出した。

僕が眠りという場に逃げ込めたのは夜が明けるのを感じ始めた頃の

ことだった。

いつもどおりの時間に起きると絶望的な体の疲労と寝不足

が襲ってきた。

娘が起きる前に妻が、昨日は私のほうこそごめんなさいと僕に

謝ってきた。僕も再び謝り、二人で決めたルールにのっとって

娘の前では言い争いをすることはなかった。


その日の仕事は上の空で、嫌な空想が思い浮かぶたびに頭を抱えて

叫んでしまいたくなった。

その日の昼には妻から電話があった。

内容は昨日のことだった。塾長から電話があったのだ。

塾のほうは自分たちの問題がおおやけになることを恐れたのか、

僕のしたことに対することは何一つ言わず、娘さんの病院での治療費

を全額出させてもらうことと、妻に今後は娘さんの気持ちも考えて塾

を辞められたほうがよろしいのでは、とだけ聞いてきた。

それはつまり僕のしたことは無かった事にしてやるから、自分たちの

ことも大事にはしないでくれということなのだろう。そしてこれ以上

塾には関わらないでくれと。

僕の気持ちは最初から決まっていたし、妻は時として感情的には

なっても決して自己完結破滅型の人間ではなく、たっぷりと皮肉

をこめた様な口調でそのほうがよろしですねと言っておいたわ、

と言った。


結局娘はその塾をやめたが、僕と妻の何度かの口論を経て今度は

ピアノ塾に行くことになった。

そのピアノ塾は個人経営の塾で音大卒の女性が一人でやっている

ため、随分とアットホームな雰囲気があった。

色々と考えた結果、そこなら問題もおこらないだろうと僕は

少し胸を撫で下ろした。

その後はそのピアノ塾では娘もわりと楽しそうだ。

しかしながら奇行はしばしば続いているようだ。

そして今日もこうして娘の行うそれをどう処理するか僕は悩んでいる。

この梅雨空のように重苦しく悩みが降り続いている。

そうこうしている間にまたこんなことがおきてしまった…。




目的の場所に近づいてきている。

僕の目指したのは車で30分ほど行くと見えてくる割と大きな河川の

側道だった。僕達家族が生活する町は、海が割りと近い。

川に沿って南下すると次第に町並みは消え、河口付近の雑草の茂った

河川敷が次第に広がってくる。

側道から河川敷に降りるための小道がある場所を見つけ、車を頭から

道先に差し込んだ。


大雨で河川敷には誰もおらず都合が良かった。

大分川嵩が増してきているが、河川敷までには及んでいない。

地面は受け入れられない雨水でぬかるんでいる。

ダンボール箱は娘にはまだ大きく、前方があまり見えないらしく

心もとない足取りでちょこちょこと歩いていく。

僕が立ち止まると、つられて娘も立ち止まった。

僕は娘の方を見て言った。


「ここにまるおの墓を掘るから、暫くそこにいて」


娘はダンボール箱を地面に置き、何か鼻歌を歌いながら、

じっとまるおを覗いている。

僕は極力草が長く生えていて側道側から見えないようになっている

場所を探し、そこを掘り始めた。

掘るための道具を何も持ってきていないのは失敗だった。地面の土

は粘土質で雨によって緩んではいたが、雑草の根がしぶとく、

そこは自分の居場所だと言わんばかりに立ち退きを阻んでいた。

作業は思いのほかはかどらなかった。


「ねえ、おはかもうできた?」


じっとしていることに我慢できなくなったのか、娘はダンボールの中の

まるおを抱えてこちらに歩いてこようとした。

降りしきる雨がまるおの体についた泥を流したようで真っ黒だった姿に

生きていたときの名残のように僅かに白さが見えてきていた。

娘はまるおの顔を上向きにして両手を腹に巻きつけるように抱きしめて

いるので、まるおの手足は重力に任せてだらりと垂れ下がっている。


突然、腐敗したまるおの右前足はずるりと腐り落ちた。

彼女はその前足を掴み何の躊躇も無くまた僕のほうへ向かってくる姿は

いくら娘とはいえ、なんとも不気味だった。

その首筋から寒気を感じるような光景を前に、愛おしさと恐ろしさの

中で僕は妙な恍惚感に襲われた。その感情は罪悪感を湧き起こさせる

類のものだった。


そして僕はどうにかそれを追い払うように地面を掘る作業を急いだ。


「ねぇ、まるおは死んじゃったらどこに行っちゃうの?」


僕は先ほどのことに動揺して何も答えることが出来なかった。

僕は何かが恐ろしいものが通り過ぎるようにじっと動かないでいた。

そのうち娘は名残惜しそうにゆっくりと落とさないように穴の中に

まるおを置いた。

立ち尽くし、まるおがいる穴をじっと見つめる僕の横に娘は寄り添う

ように立ち、片手で僕の服の端を掴み僕と同じようにまるおを見つめた。


雨は強くなるばかりだった。



娘がまだ持っていたまるおの右前足も埋めた。僕は右足から覗く

骨の一部を抜き出しておいた。とても小さな前足の指の骨だった。

僕はそれをポケットに入れ家に帰った。

家に帰るのも少し気が惹けていたけれど、なにより雨に濡れた娘が

風邪を引くことを恐れてすぐに家の中に入った。

家の中に入ると、灯りもつけずキッチンにあるテーブルの上に

付していた妻はさっきはごめんね、と娘に泣きついた。

娘は母親が優しいことだけに喜んで、何事もなかったように笑っていた。


妻にはまるおを埋めておいたことだけ告げた。


娘と風呂に入り、その後はいつもどうりの生活が待っていた。

娘が寝たのを確認して僕は寝室を出てキッチンへ戻った。

妻は固まったようにテーブルに座り、肘を突いた状態で両手を組んで

おでこに当て重そうに頭を支えている。

何かに祈っているようにも見えた。

僕が妻の肩に手を添えると彼女は両手を僕の体に巻きつけ、

おなかの辺りに顔を押し付けるようにしてまた泣き始めた。

何か言いたいことを押さえ込むような泣き方だった。

僕は彼女の巻き付いた手の片方を取り、強く握り締めた。




次の日、僕は仕事の合間を縫って雑貨屋へ行き、小さな小瓶と

カラフルなビーズ、観賞用の庭園のジオラマを造る時の砂や

珊瑚の欠片を買って帰った。

そして小瓶に砂や珊瑚、ビーズを入れ最後に持って帰った

まるおの骨を入れた。見た目にはどこかへ行ったお土産の

ようにも見える。

妻が風呂に入っている間に娘にそれを見せた。


「わぁお、きれーい!これなーに?」


「まるおのほねだよ」


「まるおが死んだらどこに行ってしまうのって聞いたよね?」


うん、と肯いてはいるが、心は小瓶に向いていてこちらには目もくれない。


「父さんが思うにはね、きっと祐美の思い出の中に行ってしまうんだ。

 もう触れることは出来ないけど、無くなったりはしないんだ。

 祐美と父さんや母さんがまるおのことを話すとそこにまるおは

 存在する。まるおとこんなことした、あんなことした、と話す

 度にまるおは祐美の前に現れるよ、きっと。だって今まで本当に

 祐美のそばにいたんだから。どこにも行ってはいないよ」


いつのまにか娘は僕のほうを向いていた。

なんでこんなことを言ったのかと思う。

それでも娘は自分の頭の中でも覗いているように目だけを上に向けて

じっと考えている。

僕が話したことをどうにか自分で分かろうとしているのかもしれなかった。

でも、どう考えてもこの歳の子に分かるはずもないのだ。


「まるおは亡くなっちゃったけど、忘れるなってことだよ。

 できるかい?」


「できるよ!ぜったいわすれないよ!」


「じゃあ、この小瓶は祐美にあげよう」


娘は幸せそうな顔をしてありがとう、と言った。


「ママは骨を持っているなんて知ったらまたびっくりするから、

 これはママにはないしょだよ」


「うん、ないしょ!」


そう言って楽しそうに笑い、僕と指きりげんまんをした。

娘は小瓶を無くさない様に自分の宝物を入れている小箱のなかに

それをしまい込んだ。



夕方のニュースで、長雨は川の氾濫を呼び、地元のテレビ局が状況を

伝えている。僕はまるおを埋めた河川敷が水没するところを想像した。

娘に見られないようにチャンネルを変えた。

変えたチャンネルはNHKの教育テレビで子供たちがワイワイと

曲にあわせて踊っていた。

その曲を聴きつけて娘がテレビの前に走ってきた。

僕はしばらくテレビにかぶりついて子供たちの真似をして踊る娘の姿を見ていた。

こうしている娘はほかの子供となんら変わりはないように思える。

それでも妻が日々、娘が起こす問題に神経を痛めていることを感じる。

世間体というあまりにくだらないものに私たちは恐れ追い抱いている。

それが自分たちの立場を決めてしまうからだ。

総てを受け入れていくには、私たちはあまりに利己的な生き物だと思う。

自分たちが劣等意識を持つがゆえに子供に完璧を求めてしまうことは

よくあることだ。

それが重荷で子供たちが歪んでゆく。

それならばそれでよいのかもしれない。

なぜなら、私たち夫婦が直面している問題には随分と

かけ離れた世界の話なのだから。

娘の行動や発言が起こす問題は、成長していく過程で娘自身の障害と

成り得るものだ。

私たちはそれを知っている。

実際、私たち自身が大人になっていく上で何度も目にしてきた。

人と違う行動をとる人物を周りがどういう扱いをするのかを。

それをどうこうすることの出来ない自分達に腹を立ててもいる。

将来への不安を抱かせるのも自分達の無力さを痛感させるのも

その原因は娘自身であるということだ。

そう、私達ふたりは娘を恐れているのだ。


自分達を不安にさせる娘を、ただ恐れている。



それから暫くして、会社の出張で2日ほど家を空けることになった。

娘のことも妻のことも気になって出張先からは朝一の飛行機で帰ってきた。

その日は快晴でとても暑い日だった。玄関で靴を脱ぎながら、

ただいまと大きな声で言った。

キッチンに繋がるドアから出てきたのは、いつも走って飛びついてくる

娘でなく妻だった。

足早に歩いてくる妻の顔は強張っていた。


「どうした?」


「あの子が…」


妻はそこで言葉を切ってしまった。

僕は荷物をそのままにして娘のところへ向かおうとした。

妻は僕にぴったりと寄り添い後ろから肩口をしっかりと掴んでいる。

僕はキッチンのドアからそっと覗いてみた。娘の姿は見えないけれど、

なにやら騒がしくキャッキャと叫びながら走り回ってる足音が聞こえた。

そして僕は妻と一緒にキッチンに繋がった部屋にむかった。

そこには以前はよく見ていたまるおを追いかけながら喜んで

いる娘の姿があった。

ただ、以前と違うのは娘の追いかける目線の先にまるおがいない

ということだけだった。

立ち尽くす僕に気づき、娘は追いかけるのを止めてこちらを向いた。


「あ、とおさんおかえり!ねぇみて、まるおかえってきたよ」


そう言って、雨の中軒下でまるおを見つけたときと同じ台詞せりふ

同じ屈託のない笑顔を向け、またすぐにまるおを追いかけ始めた。

妻の僕を掴む力がぎゅっと強くなった。

今にも打ち崩れように両膝が震えだしていた。

僕は力なく窓の外を見た。

開け放たれた窓から吹き込む熱を持った風はいつものような湿気を

含んだべとつきもなくさらっとしていた。



そうか、梅雨が明けるのだ。


梅雨ならば、いつかは明けるのだ。


完読感謝。

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