ある図書館館長の旅行記
古びた小説。真実かどうかも分からない伝記、神話。子供でも読める絵本。知識の髄とも言える辞典。
語りかけてくる言葉は静かで、音もなくそれでいて穏やかで、優しさだけで、淡白で余分の無いそれに一生埋もれて生きていくことが、私の幸せだ。
埃と湿気を含んだ重たい空気が満ちる部屋には数えきれない本たちが眠っている。
書き手は遥か向こうからこれを生み出して、人に伝えようとした。人の意思が知識の中に息づいている。
それが感じ取れるこの場所が好きだ。
空間図書。この場所の名前は寂れて人の記憶の中から消えて久しい。
求める人だけに開かれる知識の扉、なんていうと大概大げさだろうか。けれど、幾分伝説じみた定義がこの場所の真実だ。今日も、数少ない訪問者が訪れる。
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おや?と思ったのは通いなれた道に見慣れない外観の建物を見つけたからだ。思わず立ち止まる。
なんてことのない風景ではあった。けれどもどうしても見落とせない違和感があったのだ。地味な木目の扉に古びた円形の取っ手。美しい蔦と花が這う外壁。群青に近い、夕闇が近づく頃合いに見る空の色と似た屋根。それはどこにでもあるようで、何よりも住み慣れたこの街には似合わない景色だった。
ほんの好奇心。手持ちぶさたということもあった。せっかくの休みに外へ繰り出しても目的が果たせなかったから。それだけのこと。その扉を開いた理由は。
古びた外観を裏切らない、鈍い扉の開閉音がギイと鳴る。一歩踏み入れたそこは生温かい空気が漏れだして、日の光が一切射さない薄暗さの中にぼんやりとランプの光が揺らめいていた。
不規則な感覚で揺らめく明かりに不自然を感じて、「上」を見上げた。
「・・・・っ」
はっきりとした視界を得られない薄明かりの中にずらりと威圧的に並ぶ影。
圧倒される高さの、本。本。本。そこは四方すべてが書物で埋め尽くされていた。
引き寄せられるように近づけば、見知らぬ言語の背表紙もあれば、自分が知る言語で書かれたタイトルも並んでいた。ふとその一冊を手に取る。ここがどこなのか、何なのか。そんなことも頭から抜けてしまっていたのだ。それはその書物があんまりに自分の興味の的に突き刺さるものであったからでもある。
だが不注意だった。
「お目に適うものがありましたか?」
「っっ・・!」
気配。ここまで近づかれるまで全く気がつかなかった。不覚!
後ろへと大きく飛びのき、腰にさした剣を横凪ぎに掃う。手ごたえが、ない。
「何者だ!」
体にしみついた構えをとり、真正面から声の主に向き合った。
向き合った、はず。なのに、
黒い影、と思った。敵意のないそれに幾分警戒を緩めると、その姿がよく見える。
女はうっすらと笑んで言う。「ようこそいらっしゃいました。空間図書館へ」
確かに、声の位置からして射程内だった。この感覚は幾度も繰り返し繰り返し体が覚えた生き残る術なのに。
黒に近い髪。白い肌。ランプの光を映して揺れる瞳を緩めて、その女は目の前に立っていた。