第一話 彼女と巡査
青い空にカモメが鳴いて、風が親戚のおじちゃんのように頭をくしゃくしゃにする。自分は今日初めてこの都会に足を踏み入れました。下宿先として部屋を貸してくれる叔父を待つために喫茶に入ります。外の席に案内されおじさんがくるのを待ちます。待っている間珈琲を飲みながらこの見慣れない風景を眺めていました。けれど自分の目は一点から動かなくなりました。そこにいる女はまるで発光しているかのように眩しく、でもダイアの輝きのように目を離すことができませんでした。星を捕まえた鮮やかな瞼に一筋の無駄もなくきゅっと引き締まった輪郭、夜の闇を溶かしたような黒髪。あまりに俊烈な美しさ。
「私に見惚れてしまっているの?」
白い帽子に美しい黒髪が巻かれてその奥から吸い込まれそうなほど魅了される切長な目がこちらに向けられていました。女はパラソルの下、緑色のクリームソーダをスプーンでかき混ぜながら狐のようにはにかみました。自分は何も言えなくなりました。喉からは言葉が出たいと口を叩くのに唇が密でくっついているように離れないのです。自分は何も言葉を発さないまま目を見開き女を見つめました。女から見れば恐怖でした。女は困ったように微笑み自分から視線を外しました。自分はこんな綺麗な女を見たことがありませんでした。地元に帰れば頬が餅のように膨らみ、猫じゃらしのような眉毛を切りっぱなしの前髪で隠そうともしない女しかいませんでした。その女も愛くるしいもので自分は女というものはこのくらいの方が人間らしく好ましいものだと考えておりました。けれど目の前にいる女は絵画から飛び出ししてきたような、触れたら手がすり抜けて行くような現実味のない姿をしていました。女は誰かを待っている様子で自分から目を逸らしたまま喫茶店の中を眺めていました。自分はそんな彼女を眺めていました。
「待たせたな」
女とは正反対な塗装が剥がれたような皮膚に無駄ばかりの輪郭。叔父は自分の目の前にどさりと座りました。叔父の野生味のあるガサツな顔が自分の視線を女から切りました。叔父は葉巻を切り自分はポケットからライターを取り出し、火をつけました。叔父は当然のように煙を吐き出し横柄な態度で店員を呼び止めます。
「俺は今日お前に鍵と地図を渡しに来ただけだ。だがお前の素性も知っておきたい」
叔父は自分の目の前に鍵と雑に書かれた地図を置きました。
「素性というと」
「お前学校は何年で卒業するつもりだ」
「僕が行くのは学校ではなく予備校の講師として働きます」
「ほう、講師か。はて科目はなんだ」
「英語です」
「ほおー、お前いつの間にそんな賢くなったんだ」
叔父はまだ自分が5歳児にも見えているかのように自分の頭を撫で回しました。自分はただされるがままでした。自分の家庭では叔父のように頭を撫でてくる人間などいませんでした。
「帰りは何時になる予定だ」
「午後の4時で帰れる時と9時になる場合があると聞いています」
「お前、よもや酒や博打、あるいは怪しげな結社に関わってるようなことはあるまいね?」
「僕がそんな人間に見えますか」
「どうだかなぁ?」
叔父は自分を舐めるように見ます。しかしその眼光に冷酷さはなく、むしろ子供の拙い嘘を優しく見守るような居心地の悪い慈愛が滲んでいました。叔父は締まりのない笑みを浮かべたまま言います。
「よもや帝都の華やかさに目を奪われ仕事を怠って怪しげな女と浮名を流すような真似はあるまいな」
自分は女に見惚れていたのを思い出し明らかに視線を外してしまいました。その行動は自分で自分の浅ましさを叔父に伝えているのと同意でした。そのことに気づいたのはもう視線を外した後でこのまま叔父に視線を戻すかこのまま光の当たった床を見続けるのかわからなくなってしまいました。視線の中に叔父の古木の枝のような手が伸びてきて机をトントンと叩きます。
「まぁいい。お前と善を並べたり生活を合わせたりするつもりはない。好きな時に出かけ、好きな時に帰って来い」
叔父は自分の頬をペチペチと叩くと大きな音を立てて椅子を引きます。自分は叔父の雑な愛情に慣れず呆然と叔父を見つめました。叔父は机の上の伝票を持って
「まだここにいるか?」
と問いかけてきます。自分は叔父がいなくなって見えるようになった彼女をチラリと確認し、
「もう少しだけいるつもりです」
と口を横に引いただけの微笑みを向けました。叔父はそうかと笑い、伝票と一緒に札を何枚か置きます。
「今日のところはこれで払え。腹が減ったら何か頼みな」
自分が感謝を述べるのも待たず叔父はズカズカと帰っていきます。自分は相も変わらず目の前の女から目が離せず、すっかりぬるくなった珈琲をすすります。女の方も相変わらず一人で喫茶店の中を眺めていました。ひょっとすると店の中に目当ての男でもいるのではと女の目線の先に目をやります。店の中にはウエイトレスと客で溢れかえっており女が何を見ているのか見当もつきません。そりゃあ当然こんな綺麗な女を男が放っておくわけがないと自分は気づき顔を落とします。
「さっきいらした叔父様はどなた?」
顔を上げると女が先ほどまで叔父がいた席に手をかけ立っていました。自分は息を呑みます。思わず女に手を伸ばします。途中で視線の中の自分の手に気づき慌てて手を引きました。近くで見る彼女はより美しくこんな人間が存在するのかと思ってしまうほどです。女は首を傾げて微笑みます。
「自分の下宿先の叔父です」
自分は女を見つめたままただ口が自動で動くように答えました。
「ここよろしくて?」
彼女は自分が頷くまで動かず待っていました。自分がようやく頷くと女は丁寧に椅子を引き座ります。絵の具を混ぜた筆洗のように濁ったクリームソーダを彼女は一口飲みます。
「今日帝都にいらしたの?」
あぁ、彼女はこうやって自分のような男を虜にしてきたのだと感じます。それがわかっていながらも自分は彼女に惹かれることをやめませんでした。
「えぇ。そちらはいつから」
「私は帝の生まれでしてよ。お暇でしたらこの帝都を案内して差し上げましょうか?」
彼女は勇気を出すでもなくかつての友人と話すかのように自分に問いかけてきます。自分はこんな綺麗な女と歩いたものなら世の男から反感を買うのではないかと考えつつもこの機会を逃すまいと考えました。
「よろしいのですか」
自分は手に力が入るのを感じながらなるべく動揺を隠しながらどうにか声を整えて彼女と向き合いました。最初から答えをわかっている教師が生徒の拙い言い訳を眺めるような、そんな絶対的余裕が彼女の瞳の中に写っていました。
「もう準備はよろしくて?」
彼女はクリームソーダを半分以上残しカバンに手を伸ばします。自分はお上からの急な召集に追われる罪人のように急いで珈琲を飲み干します。彼女のクリームソーダはただ混ざり合い、もう手をつけられないのだろうと悟ったようでした。
「随分と残されたのですね」
自分は口籠もりながらもお金を出して頼んだものを残す贅沢さに若干の罪悪感を覚えていました。
「いいの。私はもうこの場所に用はなくてよ」
帝都の乾いた風が触れたものをたちまち脆い硝子細工のように変えてしまうような冷たさを秘めたまま彼女の頬を撫でます。彼女がそのまま崩れ落ちてしまうのではないかと現実味のない思想が自分から出てきてしまうほどです。
彼女はわがままな女でした。自分に選択肢を与えながらも結局は全て彼女のいう通りになるのです。されど体にまとわりつく梅雨の湿気のように彼女の魅力が自分を離さないのです。彼女は女記者でした。彼女は知り合いが多く、行くところ行くところで私を孤独にします。彼女はその後に眉毛を下げ、少し気まずげに潤を帯びて自分を見つめます。普段の傲然とした構えをすっかり崩しごめんねとでも言いたげに結ばれた唇に自分はただ胸をつかれるばかりでした。
「おや、そちらの殿方はもしや特別なお方でいらっしゃるのです?」
自分より5つばかり年上のように見える、巡査の制服の肩幅からからもそれとわかる逞しき男が彼女の後ろを覆いました。彼女が男を見るその姿には男のお陰で光が少しばかりも当たっておらず、まるで白昼に堂々と咲き誇る大輪の向日葵の頭から容赦なく真っ黒な夜の帳を被せるかのようでした。
「あら、高城さん。そのように見えますなら・・・」
彼女は言いかけて自分を横目で見ます。ふっと悪戯のように不敵なな笑みを浮かべて男の陰から抜け出し自分のところへステップを踏むように歩いてきます。彼女は急に自分の腕を掴むとぐいと体を寄せます。自分は彼女の冷徹な器に入れられた淹れたての紅茶のような、一度ひやりとさせてから胸の奥をじわじわと焦がすような体温に頭痛がするほど動けなくなりました。
「そうでありましたか、お嬢さんにもついに」
高城さんと呼ばれた男は嬉しそうでも悲しそうでもなくただ愛想の良い笑顔をこちらに向けてきます。自分は帝都の人間と接したことがありませんので高城の笑顔に若干の恐怖を感じていました。彼女が名前で呼ぶような関係ならば自分に良い印象は持たないでしょう。
「いえ、自分は決してそのような関係ではございません」
自分は急いで彼女から離れました。彼女と良い関係を築きたいという思いよりも帝都の巡査に目をつけられたくないという我ながら反吐が出るような卑小な保身の念、自分の浅ましさが今この瞬間に彼女と自分の間に見えない断絶を引き、二人の距離を遠ざけて行くのを自分はただ狼狽えるばかりでどうしても止めることができませんでした。そんな自分を彼女はいかなる表情で見つめていたのか自分は知る由もありません。
「釣れないわねぇ」
彼女はパッと離れました。自分は彼女のただの冗談を本気にしたつまらない男になりました。彼女に罪悪感を感じながらも自分は巡査から目が離せませんでした。威嚇のつもりなのか敵意がないことの証明だったのか巡査から目を離したら信用を得られないような感覚があったのです。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。僕はお嬢さんに恋心を抱いたことはございません」
巡査は自分に近づきました。男の自分ですら見上げてしまうほどの身長です。巡査は自分の腰を引き寄せじっと自分を見つめます。体温がふわりと伝わる距離にいると獰猛なる狼に怯える哀れな兎が如く足がすくみます。




