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王太子殿下、その婚約破棄は未審査です

作者: 宇多川マチ
掲載日:2026/07/10

「セシル・ハーグベルト。君とは結婚できない。私は真実の愛を見つけた。よってこの婚約は破棄する。そして侍女メイリーンよ。君こそが、私の真実の愛だ。我が妃となり、この手を取ってはくれないか」


 王宮の大広間で楽団の音が途切れた。魔導灯の下、皆の視線がいっせいに真紅の絨毯の中央へ集まる。王太子エドガー・スターリング殿下が胸を張り、公爵令嬢セシル・ハーグベルト様がその正面に立っていた。


 セシル様は背筋を伸ばしたまま、まだ一言も発していない。たった今、この場で婚約破棄を宣言された側である。


 殿下の少し後ろの壁際に、王宮勤めの侍女メイリーンが立っていた。殿下が真実の愛の相手として選んだ娘だ。だがその顔に浮かぶ表情が喜びなのか恐れなのかは、広間の誰にもわからなかった。


「殿下、その恋愛案件は未審査です」


 私の声は、思ったよりもよく通った。それほど、沈黙が続いていたのだ。


 王太子エドガーが怪訝な表情を浮かべた。私は人垣を割って進み出て、胸の銀章を掲げた。


「王立恋愛倫理審査室、審査官クラリス・エルウッドと申します。ただいまの婚約破棄のご宣言ならびに新たなご婚約の意向、いずれも恋愛倫理審査室への届出がございませんでした。よってこれらの恋愛案件は未審査となります。王立恋愛倫理審査室の規定に基づき、先ほどの殿下のご発言の効力を停止いたします」

「なんだと? 貴様に何の権限があって、王族の婚約に口を挟むというのだ!」

「王族の婚約、求婚、婚約破棄は、宣言の時点で自動的に恋愛倫理審査室の審査対象となります」

「なぜだ。私は真実の愛を見つけたのだぞ」


 殿下は悪びれもせず、胸を張った。本気で美談だと信じている顔だった。


「おめでとうございます。それとこれとは別のお話です」


 私は手帳を開いた。


「殿下は先ほど『真実の愛を見つけた』と仰いました。新たな婚約者として示されたのは、そちらの侍女メイリーンさんですね。ただいまの殿下のお言葉で、彼女は明日から王宮の廊下を普通に歩けなくなりました」

「なんの話をしている?」

「王宮の廊下の話です。殿下に近づけば受け入れたことになり、避ければ無礼になる。メイリーンさんは明日、仕事場へ向かうだけでその二つを選ばされます」


 メイリーンはまだ壁際に立ったままだ。


 彼女は笑顔だった。王太子からの愛の告白に喜んでいるのか? よく見ると、彼女は口の端だけを上げて、目はどこも見ていなかった。侍女は王族の前で困惑の表情を浮かべてはいけないという鉄則がある。足元がふらふらと揺れていた。私が思うに、彼女の足は半歩下がりたがっているのに下がれない。下がれば無礼になるし、進めば頷いたことになるからだ。


 前にも後ろにも行けない彼女は棒立ちのまま、その笑顔だけをただ守っていた。


「恋愛倫理審査官とやら」


 殿下の尖った声が、沈黙を破る。


「恋愛に許可がいる、とでも言いたいのか?」

「要りません」


 私は即答した。ここだけは一度も迷ったことがない。


「恋愛に許可は必要ありません。ですが王族が王宮勤めの侍女に、公開の場で心を決めるよう迫るのであれば、それは別です。断っても職と住まいと実家が潰されないか、その確認が必要になります」

「彼女は喜んでいるぞ」


 背後で笑顔のままのメイリーンを一瞥し、王太子が言った。


「それは殿下がお決めになることではありません」

「彼女の実家には、すでに王家から使いを出した。弟の奉公先も私が手配しよう。彼女が困ることなど何もない」

「そのお約束は、彼女が殿下の申し出をお断りしても残りますか?」

「なぜ断る前提で話すんだ」

「その前提がないことを、恋愛倫理審査室では『逃げ道がない』と言います」

「私は彼女を愛している。身分差など問題ではない」

「身分のお話はしておりません。断ったあとも、彼女の生活が保障されるか、彼女に不利益が生じないかの話をしています」


 私は手帳の頁をめくった。


「殿下は今日も明日も王宮にお住まいです。彼女も同じく、今日も明日も王宮で働きます。愛の申し出を断られたあとも同じ屋根の下で暮らしていける方と、断った翌日からその生活すら危うくなりかねない者。同じ条件のように見えて、お二人の立ち位置は全く違うのです」


 殿下のその細い眉毛が吊り上がり、眉根に皺が寄った。


 王立恋愛倫理審査室は二十年前、王太后アデライド様の勅許で設立された。王宮侍女から先代国王の妃となられた王太后様は「私は運が良かっただけ、断れなかった娘がみな幸福になれるわけではない」と仰って自ら恋愛倫理審査室をお作りになった。ゆえに勅許は王族の恋愛案件を真っ先に審査対象と定めている。


 殿下もそれを思い出したらしい。何かを言いかけたその口を、鯉のようにぱくぱくと動かした。


「それでは、本件は審査室預かりといたします。本日より五日後、この大広間にて公開の本審査を行い、判定いたします。それまで殿下はメイリーンさんとの接触をお控えください」

「わ、私の愛を書類で止めるつもりか」

「止めるつもりはございません。そもそも愛は、止めようと思って止められるものではございませんから」


 私は手帳を閉じて一礼した。「ただし、断れない条件で差し出された愛を、恋愛倫理審査室は受理いたしません」


 大広間を出るとき、セシル様と目が合った。扇の陰の唇が動いた。ありがとう、ではなく、上出来、と動いたように見えた。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝の審査室には、いつも通り恋が積まれていた。


 比喩ではない。王宮の東棟の隅にある王立恋愛倫理審査室の執務机の上に、恋に関する申請書が山のように積まれているのだ。


 封蝋つきの求婚状に婚姻契約書、保護者同意書、なぜか花びらだけが挟まれた手紙。どれも差出人にとっては一世一代の愛の告白ではあるのだが、私たち恋愛倫理審査室にとっては、受け取った相手に逃げ道があるか、負債や観衆圧で返事を縛られていないかを確かめる審査対象である。


 審査の判定は、大きく「受理」「差し戻し」「却下」の三種に分類される。差し戻しは何度でも再提出できる。私たちは恋そのものを判定するのではなく、恋を伝えるその形が正しいものか、どちらかにとって不都合になっていないかを判定する。


 私はこの仕事が好きだ。ついでに言えば恋愛小説はもっと好きだ。机の引き出しには、読みかけの恋愛小説がいつも三冊入っている。


 恋愛小説は、結末まで読んでしまうとその恋の物語が終わってしまう。幸福な終わりでも、頁を閉じた瞬間だけは少し寂しい。だから私は急に寂しくならないよう、常に三冊の恋愛小説を少しずつ読み進めている。


 物語の中の恋にはうっとりと物想いに耽ることができるのに、書類の中の恋には自然と赤ペンが走ってしまう。我ながらどうかしている、と思う。


「婚約破棄を止めた英雄さん。昨夜はよく眠れたかしら」


 ひょいと現れた室長のマーガレット・グロウが、決裁箱を覗いて笑った。


「英雄ではありません。ただの審査官です」

「王族にも物怖じせず仕事をしてくれて助かるわ。引き続き入念な準備よろしくね。王家の遠縁たちが黙っていないでしょうから」


 それだけ言って、室長は自分の湯呑みを持って室長室へ消えた。あの人の言うことはいつも短くて、あとから効いてくる。


 王太子の案件は万全の状態で臨まなければ。そのために、積み上がっている他の恋の案件を素早く対応する必要がある。


 一件目。家庭教師から元教え子への求婚状。


 あなたの綴りの癖は私が誰より知っている、から始まる求婚状は初めて見た。詩的で情緒があるが、恩義を担保に取っている文言が三箇所。差し戻し。理由付記、教壇から降りてから書き直すこと。


 二件目。魔術師から弟子への求婚だ。末尾に、断れば破門もやむなし。


「これは求婚状ではなく脅迫状ですね」


 当然、差し戻し。ついでに魔術師組合へ写しを一部送る。弟子本人の保護と、希望する場合は新しい師匠の紹介を依頼するためだ。破門をちらつかせて返事を迫る者に、教育者の顔をさせておくわけにはいかない。


 昼前には、先週差し戻した竜騎士の再提出分が届いた。辺境の姫への求婚状だ。姫の住む峰へ通う手立てはその竜騎士の竜だけで、断れば姫は移動手段を失う形だった。文面は満点で、それだけに惜しかった。理由付記にはこう書いた。あなたが彼女の唯一の交通手段であるうちは、その恋は選ばれたことになりません。恋文の出来と恋の形は、別の欄で採点される。


 再提出分には、峰に橋を架ける工事の見積書が添えてあった。恋のために交通整備を買って出る男がいるのだから、世の中は捨てたものではない。


 封筒を積み、書類を開き、逃げ道を確かめ、判を押す。


 世間は私たちを恋の敵と呼ぶ。断じて違う。私たちが差し戻しているのは恋ではない。求婚に見せかけた脅しだ。断れない状況で差し出されたきれいなだけの言葉の圧力だ。相手を思う気持ちは一切否定しない。差し戻しの末に受理へ辿り着いた案件を、私は何十件もこの目で見てきた。


 昼休みには引き出しの恋愛小説を開いた。騎士が姫を攫い国境を越える章だった。物語なら攫ってよし。どんどん攫ってくれ。現実なら即差し戻し、あるいは却下案件だが。この線引きができなくなった者から審査官を辞めていくと、研修で最初に教わる。


 窓の外から騎士団の号令が聞こえた。私は本に目を戻した。頁は、しばらくめくれなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後の便で、その封筒は届いた。


 特別封蝋。騎士団本部の意匠だ。宛名は審査室ではなく私個人、クラリス・エルウッド殿、と記載されていた。差出人の名を見て、指が止まった。


 アルベルト・グラント。王国騎士団の団長だ。


 私は彼を知っている。言葉を交わしたことは数えるほどしかないが、知っている。


 三年前の冬、中庭で洗濯係の娘が籠ごと派手に転んだとき、その場に居合わせた騎士団長が敷布を一枚残らず洗い場まで運び直したのを見かけた。洗濯係の娘に向かって優しい顔で笑い、怪我がないか心配してもいた。以来、私は執務の合間にときどき窓から訓練場を見るようになった。ただ、その姿を目で追うだけだ。


 その人が、私に。


 いや待て。落ち着け。宛名の誤りかもしれない。エルウッドという姓は他にもある。この審査室には私しかいないけれど。


 封筒の裏表を何度も確認する。確実に私宛だとわかり、思い切って封を切る。


 求婚状だった。


 日付はあの夜会の翌日だった。そういえば、あの晩の大広間には騎士団の警護が立っていた。私が殿下を止めるのを、この人はどこかで見ていたことになる。


 便箋は一枚だった。文字は大きく、その筆圧は強すぎるのか、紙が波打っていた。剣を握るその手のまま書いたのだと分かる筆跡だった。


 貴殿を一生守ることを誓う。何者からも守る。騎士団長アルベルト・グラントの名にかけて。


 心臓がひとつ大きく跳ねた。それから私は職業病を発症した。

 本紙を汚すわけにはいかない。私は審査用の控えを取り、そちらへ赤ペンを走らせた。


 一、「一生」の定義がない。期限も範囲も不明。

 二、「何者からも」に差出人自身が含まれるのかの記載がない。

 三、守られる側の意向を確かめる手続きがない。

 四、断った場合の取り扱いが書かれていない。

 五、署名に職名を併記している。騎士団長の名は重石であって印章ではない。

 六、そもそも私が守られたいと申し上げた記録がない。


 書き終えて読み返して、赤の多さに自分で少し引いた。恋文の返事を箇条書きで記す女がどこにいる? ここにいる。だが、陰ながら慕っていた相手から「守る」「一生」「騎士団長の名にかけて」の三つの単語を一枚に詰められて平気な顔をしていられる女も、そう多くはないはずだ。だが。


「全部重い」


 呟いてから、自分の指先が震えていることに気づいた。赤字の最後の一画が、指先から出た汗で少しだけにじんでいた。


 一度だけ白状する。便箋を開いた瞬間、私は嬉しかった。嬉しかったから、余計に赤が濃くなった。喜んだ自分をごまかすのに、職務に没頭するのが一番手っ取り早かったのだ。


 とはいえ、この案件を私は裁けない。宛先が審査官本人である場合、当人はその判定に関われないことになっている。除斥という定めだ。


 室長室をノックする。机で事務作業をしていたマーガレット・グロウに封筒ごと報告すると、彼女はにこにこと目を細めた。


「あなた宛なら、あなたは裁けないわね。正式な判定は私の方で預かります」

「お願いします。それと、この控えはどうすればいいでしょうか」


 私は赤字だらけの控えを掲げた。


「あなたからの私信として、申請者に返しておきます」


 室長はその控えを摘まみ上げると、まじまじと見つめた。「まあ、真っ赤な私信ね。六点も? よく見つけたこと」


「仕事ですから」

「それ、仕事のふりをして照れてるだけでしょう」


 図星すぎて返す言葉がなかったので、私は室長の机の上にある判子の整理を始めた。だが判子はとっくに整理されていた。室長は肩を揺らして笑った。私は笑わなかった。笑うと何かを認めた気になるからだ。


     ◇ ◇ ◇


 翌日、審査室の扉がノックされた。


 どうぞ、と返答しても入ってくる様子がなかったので、私が扉を開けた。扉の前に立っていたのは騎士団長その人だった。制服のまま帯剣もしていない。敷居の手前で止まり、こちらが勧めるまで入ってこなかった。扉をくぐるのに頭を屈める必要のある背丈で、屈めたまま先に頭を下げた。大きな人なのに、部屋の空気を圧迫しない。そういうところが困る。


「クラリス・エルウッド殿。先日は、赤を入れた返書を頂きました」


 真顔だった。怒鳴り込みなら迷惑ですと追い返せるのだが、礼儀正しい真顔はその理由が見当たらない。


「不備が六点あるとのことでした。順に、その詳細を伺ってもよろしいでしょうか」


 彼は私が椅子を勧めるまで、背の高い体を少し縮めて立っていた。座ると、机の上に私が赤を入れた控えの文書を広げた。辞書でも引くような手つきで、赤字を指した。


「一生、の定義がないというご指摘ですが、一生は一生では足りないのでしょうか」


 彼はじっと私の目を見つめながら言った。私は相手に動揺を悟られないよう、深く息を吸い込む。


「足りる足りないの話ではありません。確かめ直す場所がないのが問題なんです。一生と書かれると、途中で苦しくなっても、やめたいと言い出しにくくなります。守る側も、守られる側もです。せめて、いつ話し合うのかを書いてください。年に一度でも、季節ごとでも構いません」

「それは確かに、おっしゃるとおりですね」


 彼は私が赤を入れた控えにメモを書いた。


「二点目ですが『何者からも守る、に私自身が含まれるか』。これは、もちろん含めます。むしろ筆頭に据えます」

「即答なさるのですね」

「一番の脅威は我が内の善意だと、先日の殿下の件で学びました」


 思わず咳払いをした。話が早いにも程がある。


「三点目。守られる側の意向を確かめる手続き。これは、どのように確かめればよろしいでしょうか」

「直接尋ねるのです。守ってほしいかどうかと、守ってほしい範囲を。答えが変わったら、そのたびに尋ね直すのです」

「尋ねて、否と言われた場合は?」

「その場合は守らなくて結構です。たとえ、あなたが辛くても」


 彼は頷いて、またメモを書いた。頷くまでに三拍あった。その三拍を、私は評価した。即答していい話ではないからだ。彼は自分の頭で考え、納得し、頷いた。きちんと私の話に耳を傾け、自分で理解できるまで咀嚼し、そして飲み込んだのだ。


「グラント様。ひとつだけ先に申し上げます」

「なんなりと」

「守るという言葉で、私の選択肢を塞がないでください。守られている者は、守ってくれる人に否と言いにくいです。あなたの誠実は本物でしょう。ですが、その誠実が本物だからこそ、時にそれが人を縛り付けることもあると思うのです」


 騎士団長は長いこと黙った。机の上の控えを見て、それから顔を上げた。


「配慮が足りませんでした。書き直します」

「再提出は何度でも受け付けます。制度上」

「エルウッド殿個人としても、再提出は何度でも受け付けるということでよろしいでしょうか」


 真顔で騎士団長が尋ねた。


「それは」


 騎士団長と目が合う。澄んだ目をしていた。私は直視できず視線を外す。


「聞かないでください」


 言い方が少しきつい感じになったと、自分でも感じた。


 その広い背中が帰りかけた時、

「なぜ、私なのですか? あなたなら、お相手に不自由はなさらないでしょう」

 と思わず尋ねた。


「昨年の秋、中庭であなたが貴族の子弟を叱っているのを見ました」


 騎士団長が即答した。覚えがある。使用人の娘に執心して、彼女が洗濯場から戻る道や厨房へ向かう廊下で待ち伏せを繰り返す貴族の若者がいた。立ち止まれば気があると噂される。逃げれば主人筋に逆らったことになる。使用人の娘にとっては、八方塞がりの状態だった。


「相手が伯爵家の子でも、あなたは一歩も引かなかった。使用人の娘が無事に帰れるように、見守っていた。あのとき、私はあなたを好きになったのだと思います」

「騎士団長ともあろう方が、審査と関わりのないお話を」


 急に直球の好意をぶつけられたので、私は早口でそう答えた。


「あなたが訊いたんでしょう」


 その通りだったので、私は黙って扉を示した。彼は一礼して帰っていった。廊下の足音が聞こえなくなるまで、私は次の書類を開けなかった。


 騎士団長からの二通目は、その翌日に届いた。受付の若い書記が「騎士団長閣下から再提出です」と妙に澄んだ声で告げた。私は通常の業務と同様のそぶりで封筒を受け取る。


 今度は審査室の正規の受付を通っていた。宛名の下に、除斥の定めに基づき室長の判定を仰ぐ、と騎士団長自筆の添え書きまである。調べてきたのだ。私の職場の定めを、私に求婚するために。


 私が指摘した六点はすべて直っていた。期限は双方が確かめ合いを続ける限り、と改められ、職名の署名は消え、断った場合の条項まで足されていた。やるじゃないの、と思ったのが運の尽きで、次の行で赤ペンを持った指が止まった。


 貴殿の審査官としての職務の継続を認める。


「認める?」


 思わず声に出して読んでしまった。


 余白いっぱいに書いた。私の仕事は、あなたに許可されるものではありません。


 差出人は翌日また扉の前に立っていた。赤入りの控えを手に、耳だけを赤くしていた。


「全くもって、その通りです」


 彼は言った。「あなたの職務はあなたのものだ。私が書いていいのは、妨げないという誓いまでだった」


「お分かりいただければ結構です」

「三通目を書きます」

「まだ書くのですか」

「不備がなくなるまで書きます。審査とはそういうものでしょう」


 それは再提出を何度でも受け付ける恋愛倫理審査室の定めだ。完全に正しい。正しすぎて腹立たしい。


 私は念のため釘を刺した。


「申し上げておきますが、正式の判定は室長がなさいます。私の赤はただの私信です。判定ではありません」

「判定じゃなくても、私のために書いてくれた言葉ですよね。だったら世界で最も真剣に受け止めるべき言葉です」


 真顔で言うのだからたちが悪い。


 扉が閉まってから気付いた。頬が緩んでいた。私は誰もいない執務室で咳払いをして、次の書類を引き寄せた。


     ◇ ◇ ◇


 王太子案件の本審査は、夜会で宣告したとおり、五日後に行われる。


 場所は王宮の大広間。公開審査である。王族または高位貴族に関わる案件は、衆目の下で審査する。それが恋愛倫理審査室の定めだ。


 期日の前日、私は西棟の小部屋でメイリーンと向かい合った。同席は記録係が一人だけ。王族も上司も、扉の外にすら置かない。


「ここで書いたものは、あなたの言葉としてだけ扱われます。誰の顔色も要りません」


 メイリーンはペンを取り、便箋の上で長いこと手を震わせていた。あの夜と同じ笑顔を作ろうとして、失敗して、俯いた。


「書けなければ、書けませんでした、と書いてください。それも立派な回答です」


 メイリーンは小さく頷いた。それから、あの、とか細い声を出した。


「これを、殿下は本当にご覧にならないのですか?」

「ご覧になりません。お望みなら、あなたが書いたという事実ごと伏せることもできます」

「読んで、ください」


 彼女は顔を上げた。作り笑いではない、真顔だった。


「あの広間で読んでください。わたしが声にできないことを、わたしの言葉として」

「承りました。それが恋愛倫理審査室の仕事です」


 ペン先が走り出すまで、私は窓の外の雪を数えて待った。

 待ちながら、昔のことを少し思い出していた。


 父の商会が傾いた年、十六の私に縁談が来た。相手は貸主の息子で、断れば一家の屋根が飛ぶ縁談だった。あのころの私も、メイリーンと同じように笑っていた。笑うしかない状況では、人は笑うしかない。


 その縁談を止めたのは、審査室の年配の審査官だった。差し戻しの理由付記の一行を、私は今でも覚えている。


 本状は求婚にあらず、取り立てである。


 私はあの一行に救われて、この恋愛倫理審査官の銀章を付けた。だからこれは仕事だが、仕事だけではない。


 夕刻、審査室に戻ると空気が重かった。マーガレット室長が一枚の書状をひらひらさせる。


「王家の遠縁の貴族たちから連名のお手紙よ。王族に楯突く部署など王国に要らぬ、ですって。明日あなたが負けたら、ここは王族に恥をかかせた部署として畳まれるでしょうね」

「審査室が畳まれたら、メイリーンさんの回答書はどうなりますか」

「公の場には出せなくなるわ。殿下に都合の悪い私信として、どこかの引き出しにしまわれるでしょうね」

「王太后さまのお耳には……」

「離宮でご静養中よ。文を送っても、お返事が審査の日に間に合わない」


 室長はにこにこしたまま、私の胸の銀章を指で弾いた。「ここは王太后さま肝煎りの部署よ。潰される前に、潰されない仕事をなさい」


「勝てますでしょうか」

「勝ち負けを決める部署じゃないわよ、ここは」


 室長は湯呑みを置いた。「ここは確かめるための部署なの。明日あなたが確認するのは殿下の恋の強さではなく、メイリーンさんが否と言える状況が作れているかどうか。それを間違えないでね」


 負ければ消えるのは私の職ではない。断れない娘を守る、この国でただひとつの装置だ。十六の私を掬い上げた網を、私の代で破らせるわけにはいかなかった。


     ◇ ◇ ◇


 当日の大広間は、あの婚約破棄の夜会より人が多かった。


 詰めかけた貴族たちの目当ては審査ではない。見世物だ。王太子と侍女と、王族に楯突いた小役人がどう転ぶか。観衆圧という言葉を最初の書式に刻んだ先人は正しい。人垣はそれ自体がひとつの圧力となり、重くのしかかる。


 壇上に置かれた審査卓の中央にはマーガレット室長が、その右に私が立った。当事者席にはエドガー殿下とセシル様が座り、メイリーンは末席で借り物の椅子に浅く腰かけていた。


 開始の鐘が鳴る前から、賭けの倍率を囁き合う声さえ聞こえた。部署が残るかどうかに銀貨を張る者までいる。悪趣味を通り越していっそ清々しい。


「王立恋愛倫理審査室、公開本審査を始めます」


 室長の声はあくまで柔らかい。


「審査する案件は二つ。王太子エドガー・スターリング殿下による婚約破棄、ならびに侍女メイリーンさんへの求婚の意向です。確認するのは三点。断ったあとの逃げ道があるか。恩義や金銭の負債で返事を縛っていないか。観衆の前で返答を迫っていないか」


 殿下は、前回のように声を荒げなかった。代わりに、用意してきた書面を掲げる。


「先日は取り乱した。非礼を詫びる。彼女の職は保証する。実家には支度金を送る。弟の奉公先も用意する。住まいも王宮に整える。これで逃げ道とやらに不足はあるまい」


 言葉は存外に整っていた。この数日で誰かに知恵を借りたのだろう。殿下自身の言葉というより、よく磨かれた答弁を読んでいるようだった。当事者席の後ろで、何人かの貴族が小さく頷いた。まずい流れだと思った。保証という言葉は聞こえがいい。保証の紐を握るのが保証する側だという一点は、聞こえの陰に隠れる。


「審査室に問う。これのどこが断れない形だ」

「では確認いたします」


 私は手元の書式をめくった。「その支度金と住まいと奉公先は、彼女が求婚を断っても同じように渡されますか」


「……それは」

「断れば消える保証は、逃げ道ではなく首輪と申します」


 広間のあちこちでざわめきが起こった。だが殿下は怯まなかった。むしろ声を張った。


「ならば聞くが、王太后さまはどうなのだ」


 広間の空気が変わった。


「王太后さまも王宮の侍女であらせられた。先代陛下に望まれて妃となり、国母となられた。あの御成婚が過ちだったとでも言うのか。私とメイリーンの、いったい何が違う」


 うまい。正直そう思った。設立者の名を盾に取るとは。


 人垣のあちこちでさらに多くの頷きが生まれる。確かに前例がある。侍女から妃へ。それはこの国でいちばん有名な恋物語だ。


 答えようと息を吸ったとき、視界の端で室長の扇が横に倒れた。まだ待て、の合図だった。判定の場で審査官が熱くなるのを、この人は良しとしない。


 風向きが戻らないまま、殿下は一歩踏み出して、末席を指した。


「メイリーン。君の言葉で聞かせてくれ」


 来た。最悪のタイミングで来た。


「あの夜、君は私に、お慕いしております、と言った。皆の前でもう一度そう言えばいい。君も私を、愛していると」


 大広間中の目が、いっせいに彼女へ向いた。


 メイリーンは立ち上がった。立ち上がってしまった。侍女は王族に名を呼ばれて座ってなどいられない。組んだ手が膝の前で白くなっている。口の端が持ち上がる。あの作り笑いだ。


 どこかの夫人が扇の陰で囁いた。囁きは広間ではよく通る。


「あの娘が誘ったのではなくて?」

「侍女が玉の輿を狙ったのでしょう」

「殿下もお気の毒に」

「けれど王太后さまの例もありますものね」

「そうよ。素直に喜べばいいのに」


 圧が音を伴って彼女に集まっていく。頷けば身の程知らずの悪女になり、首を振れば王族に恥をかかせた罪人になる。どちらへに転んでも、彼女は潰れる。


 当事者席の後ろで、王家の遠縁にあたる侯爵が立ち上がった。


「室長殿。茶番はこのあたりでよかろう。当人が慕っていると申すなら、その恋は成立しておる。王族の御心を書式で縛るこの部署こそ、廃するべきではないかな」


 廃止、という言葉に、広間の一部から拍手が起こった。拍手は伝染する。


「だいたいこの部署は日頃から、竜騎士だの魔術師だのの恋路にまで目くじらを立てておるそうな。恋とは、審査するものかね。なあ、諸君」


 笑い声が起こる。拍手が厚くなる。侯爵は満足げに袖を払った。


「王太后さまの御慈悲で生まれた部署が、王太后さまの前例に泥を塗るとは。皮肉なものよな」


 壇上で私は、網の破れる音を聞いた気がした。メイリーンの気持ちは無視され、審査室が潰れる。次に断れない娘が現れたとき、その娘を守るべき組織はもう存在しない。


 隣で室長が扇を握り直すのが見えた。さすがの室長でも、この流れは言葉ひとつでは変えられない。変えられるものがあるとすればそれは……。


 私はメイリーンを見た。彼女はまだ、立ったまま笑おうとしていた。笑って頷いて、この場を丸く収めようとしていた。十六の冬の私の顔が重なる。


 メイリーンの唇が開いた。お慕い、と口が形を作りかける。


「回答書を読み上げます」


 私は封書を掲げ、彼女の言葉をかき消すように腹の底から声を出した。広間の隅まで届け、と願った。


「恋愛倫理審査室の定めにより、弱い立場の当事者の意向は、権力者のいない別室で本人が記した回答書をもって正といたします。ただいまの、皆の前で言明せよとの侯爵のお求めは、観衆圧の審査基準に抵触します。ゆえに却下いたします」


 侯爵が何か言いかけたが、室長が扇をひとつ鳴らして黙らせた。


「こちらの封書は昨日、西棟の小部屋にてメイリーン自らの手で記したものです。また、この広間で代読を望んだのはメイリーン本人です。これより、代読いたします」


 封を切る。メイリーンの視線が私の手元の便箋に落ちて、彼女はゆっくりと目を閉じた。


「王宮に仕える侍女のメイリーンです。殿下のお気持ちに、お返事申し上げます。いまのわたしは、殿下のご求婚にお応えできません。以前、殿下に『私を慕っているのだろう』と名前を呼ばれたとき、わたしは、お慕いしております、と申し上げました。王族にそう尋ねられて、いいえとは言えませんでした。あれは嘘ではありません。でも、本当でもありません。いいえと言えば実家の弟の奉公先がなくなると思いました。正直なところ、わたしは殿下をお慕いしているのかどうか、それまで自分で考えたことがありませんでした。断ってもよいと分かり、いま、わたしは初めて自分の気持ちに向き合うことができると思いました。ですがまだ、落ち着いて考えることができておりません。ですので今回、殿下のお申し出をお受けすることはできません」


 私は読み終えて、便箋を封に戻した。


 広間は静寂に包まれていた。さっきまで拍手をしていた手が、行き場を失い徐々に下がっていく。扇の陰の囁きも消えていた。いつの間にか人垣の圧もなくなっていた。


「殿下は先ほど、王太后さまの御成婚を前例に引かれました」


 静けさの中へ、私は王太子に向き直る。


「王太后さまは恋愛倫理審査室の設立にあたり、こう仰せになりました。私は運が良かっただけ。断れなかった娘がみな、幸福になれるわけではない。この部署は、王太后さまの幸運を前例と呼ばないために作られたのです。殿下の仰る美談の当人が、二十年前にそれを願われました」


 大衆を煽っていた侯爵はよろけて椅子に座りこんだ。殿下は口を開きかけたが、半開きのまま止まった。そのまま殿下は末席のメイリーンを見た。そこでも何かを言いかけてやめた。相手の顔色を見てから言葉を選ぶということを、この人はいま、生まれて初めて実行したのかもしれない。


「わたくしからも、よろしいかしら」


 凛とした声がした。あの夜、王太子から婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢、セシル・ハーグベルト様が当事者席から立ち、一通の書状を審査卓に置いた。


「婚約解消の申し出です。当家に瑕疵なきことは明白につき、こちらから殿下との婚約を解消いたします」


 こちらから、という言い方に、広間の空気がかすかに揺れた。彼女は捨てられた令嬢の顔をしていなかった。


 マーガレット室長が、差し戻しの判子を手に取った。


「判定を申し渡します。本案件、差し戻し。付随して以下の通り。

 一、王太子エドガー・スターリング殿下の本件求婚は却下。

 二、以後三年間、殿下の求婚、婚約、婚約解消に関わる一切は、恋愛倫理審査室の事前審査を必須とする」

「私から自由な恋愛を奪うというのか」


 殿下の声が、初めてかすれた。


「いいえ。力なき者の自由を奪わないためです」


 マーガレット室長は、声を荒げずに続けた。


「三、恋愛倫理講習三十日の出席を命ずる。

 四、ハーグベルト公爵家との婚約は、公爵家側に瑕疵なきものとして解消。王家より公爵家へ公式の謝罪を行う。

 五、侍女メイリーンは本人の望む部署へ異動のうえ身分を保全し、実家への補償を王家の負担にて行う」


 読み上げが進むたび、マーガレット室長は審査書に判子を押した。乾いた音が広間に響くたび、殿下の肩が少しずつ落ちていく。


 廃嫡ではない。牢に入るわけでもない。けれど殿下は大衆の面前で、自分の恋が「選ばれた恋」ではなく「断れない相手に迫った求婚」だったと、正式に記録されたのだ。


 その事実は派手な断罪よりよほど効いたらしい。殿下は自分の愛が相手を追い詰めていたことを、ようやく理解したような表情を見せた。


 セシル様は扇を閉じ、握っていた指を一本ずつ緩め解いた。末席のメイリーンは真顔だった。婚約破棄を突きつけられた人と求婚を迫られた人が、同じ広間で少しだけ自分自身を取り戻していた。


 十日後、王宮の南翼で私はメイリーンとすれ違った。異動先は、彼女自身が選んだ厨房付きの部署だ。もう王太子の目を避けて遠回りする必要はない。彼女は自分で選んだ廊下を、自分の足で歩いていた。すれ違いざま、メイリーンは静かに会釈した。口の端を上げて笑ってはいなかった。代わりに、まっすぐ前を向いていた。それで十分だった。


     ◇ ◇ ◇


 三通目の求婚状が届いたのは、雪解けの朝だった。


 正式な手続きはすでに済んでいる。宛先が私である以上、判定は除斥により室長預かり。マーガレット室長は昨日のうちに受理相当と裁定を出していた。制度上、この求婚状にもう何の問題もない。


 今、私の手元にあるのは判定の済んだ原本ではなく、私宛の一通の私信だ。


 私はそれを開き、テーブルの上に置いた。反射的に赤ペンを持つ。いつものように不備を探す。


 書き出しは時候の挨拶だった。求婚状に時候の挨拶。律儀にも程がある。雪解けの水音に触れ、訓練場の土が緩んで新兵が三人転んだと報告し、それから本題に入っていた。


 一生、の語はどこにもなかった。代わりに、確かめながら進みたい、とあった。何者からも守る、は、妨げるものがあれば共に取り除きたい、に変わっていた。


 そして最後の頁に、見慣れない書式が綴じられていた。


 騎士団長権限の一部返上届の写し。王宮東棟、つまり審査室の区画に関わる警備の監督権を返上し、審査官の勤務評価に関わる一切から身を引く旨。私の実家の商会と騎士団の取引についても、自身を係から外すとあった。


 末尾には、さらに一文があった。


 断られた場合、私は以後二年、職務の外で貴殿に近づかない。この誓いは、本状の到達をもって効力を持つ。


 断ったあとの私が困らないように、王宮東棟への権限も、私の実家との取引も、先に自分から手放していたのだ。返上届の日付は公開審査の前日だった。審査室が残るかどうかも分からないうちから、この人は私の赤を真剣に読んでいた。


 赤ペンの先が便箋の上をさまよう。


 不備がない。期限がある。逃げ道がある。負債は乗っていない。観衆もいない。


 十六の冬の私が欲しかったものが、便箋の形をして机の上にある。


 悩める。私はいま、安心して悩んでいる。悩んだまま返事をしてもいいし、悩んだまま断ってもいい。試しに返事の文面を考えてみる。拝復、貴状確かに受領いたしました。堅い。堅すぎる。時候の挨拶から返すべきか。雪解けの候。待て待て、私は何を書こうとしているのだ。そう、恋文の返事だ。


 窓の外から訓練場の号令が聞こえ、我に返る。あの声の主は、返事を急かさないだろう。二年でも平気で待つだろう。そういう人だと、三通の求婚状が証明している。


 ようやく、赤ペンが動いた。長年の相棒は、主人より先に答えを知っていたらしい。余白に一行。


 まずは、お茶をご一緒に。


 返書は翌朝の便で騎士団本部宛に送られた。


 昼過ぎ、窓の外の号令がふいに途切れた。書類から顔を上げて見下ろすと、訓練場の真ん中で騎士団長が一枚の紙を手にしたまま固まっていた。新兵たちが遠巻きに顔を見合わせている。稽古はそっちのけだ。新兵のひとりが拍手しかけ、隣の騎士に肘で止められていた。


 見てはいけないものを見た気がした。それでも目を離せずにいると、彼が顔を上げた。


 目が合った。


 彼は紙を丁寧に畳んで胸元に納め、こちらへ一礼だけした。それだけだった。号令が戻り、訓練場は何事もなかったように動き出す。


 私は窓辺から一歩引いて、握ったままだった赤ペンを引き出しの奥にしまった。恋愛小説の隣なら、少しは大人しくしてくれるだろう。


 だってこの恋はもう、審査済みなのだから。

 それでもこの胸の奥は、まだ審査を待つみたいに落ち着かない。


 困ったものだ。この胸の高鳴りは、差し戻せそうにない。

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― 新着の感想 ―
王子の頭がアレなぶん、王太后はとても賢い人でしたね。
主人公の恋は可愛いが、この期に及んで「私から自由な恋愛を奪うというのか」とかいう王子が王になる国の将来が心配。なんか面倒な遠縁も居るようだし。
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