異世界で『餓死寸前』と診断されたので、解呪師さまのご飯を完食することにした
異世界に召喚されて、最初に言われた言葉は「医者を呼べ」だった。
コンビニでサラダチキンを買った帰り道、足元に光る輪が開いて、気づいたら石造りの大広間に立っていた。天井は高く、ステンドグラスは荘厳で、私を囲むローブの人たちは、なぜか全員真っ青だった。
「医者を! 早く!」
「毛布だ! 温かいスープを持て!」
倒れている人でもいるのかと振り返ったら、誰もいない。視線が全部、私に刺さっていた。
「あの、私、どこも痛くないんですけど」
「喋った……! 意識がある……!」
王様らしき人が玉座から転げるように降りてきて、私の手を握った。分厚い手が震えていた。
「すまない、聖女どの。我が国の召喚陣は、異界より最も大きな器を持つ乙女を選ぶ。まさか、このような状態の方を引き当てるとは」
このような状態。失礼な。昨日も野菜をとったし、夜の炭水化物は抜いたし、体調は万全だ。
大神官と呼ばれる老人が、水晶を私の額にかざした。水晶は一度光って、それから曇りガラスのように沈んだ。
「……魔力残量、二パーセント。栄養状態は」老人は水晶を二度叩いた。「故障かの。『餓死寸前』と出ておる」
「壊れてますね」と私は言った。
「壊れておらん」と老人は言った。
この世界では、魔力は食べた物と、食べた時の喜びから湧くらしい。よく食べ、よく満ちた人間ほど強い。聖女の仕事は年に一度、大地に祝福を注いで国中の畑を実らせること。歴代の聖女は、国一番の魔力の持ち主だったという。
「そなたの器は歴代でも最大級だ。だが中身が、ほとんど空なのだ」
「いやいや。私、普通に食べてますよ。普通に」
普通、と私が言うたび、周りの大人たちの顔が暗くなった。理由は分からなかった。
*
国家事業「聖女を満たす」の責任者として引き合わされたのは、王宮の解呪師だった。
厨房の真ん中で、男が寸胴鍋をかき回していた。背が高く、腕に古い火傷の痕があり、目つきは番犬のように悪い。
「テオだ。呪いを解くのが仕事だが」男は私を上から下まで見て、鍋に向き直った。「あんたのは、飯からだな」
「解呪師って、お料理するんですか」
「魔力は腹から湧く。なら呪い解きの半分は台所の仕事だ。名前は」
「千夏です。森千夏」
「チナツ。座れ」
出てきたのは、湯気の立つシチューと焼きたてのパン、鳥の丸焼き、芋のバター和え、よく知らない果物の山だった。どう見ても四人前ある。
「あの、私、少なめで大丈夫です。あと、できれば鶏むね肉を茹でただけのやつとか」
厨房が静まり返った。奥で誰かが木べらを落とした。
「……鳥の餌か?」
「主食です」
ひとまずシチューに口をつけた。肉が崩れて、芋が甘い。おいしい、と思った次の瞬間、頭の中の算盤が勝手に動き出した。これでだいたい、おにぎり二個分。パンを足したら三個。夜にこれは、明日の朝を抜かないと釣り合わない
スプーンを置いた。
「ごちそうさまでした。おなかいっぱいです」
腹が、低く鳴った。
長い沈黙のあと、テオは何も言わずに、私の皿へ追加のシチューを注いだ。
「嘘の腹は鳴らない」
*
三日目、大神官による正式な解呪の儀が行われた。
祭壇に寝かされ、聖水を振られ、長い祈りを聞いた。途中で少し眠くなった。
「むう……」老人の眉間に深い皺が寄った。「呪いの『声』を拾ったぞ。書き取れ」
弟子が羽根ペンを構える。老人は絞り出すように読み上げた。
「『もう少し痩せたら、絶対可愛いのに』」
「『女の子なのに、よく食べるね』」
「『残しちゃ駄目。でも食べ過ぎも駄目』」
「『その歳で夜に甘い物? 勇気あるなあ』」
弟子の手が止まった。「師よ、これは……脅迫文ですか?」
「分からん。じゃが術式としては悪質の極みじゃ。相反する命令の重ねがけ。逃げ道を全部塞いでおる」
私は祭壇の上で手を挙げた。
「あの、それ呪いじゃないです。ただの褒め言葉と、世間話です」
部屋が、静まり返った。
老人が私を見た。哀れむでも責めるでもない、長く生きた人の目だった。
「術者の姿が見えん。一人ではないな。十年、いや二十年がかりで、少しずつかけられておる。……解呪は、長期戦になりますぞ」
部屋の隅で、テオが腕を組んだまま、壁の一点をずっと睨んでいた。
*
解呪の方法は、拍子抜けするほど単純だった。一日三食、テオの飯を食べる。以上。
最初の壁は「最後の一個」だった。
大皿に残ったミートパイのひと切れを、私はどうしても取れない。手が伸びない。生まれてこの方、大皿の最後の一個を取った記憶が、たぶん一度もない。
テオはしばらく私の手元を見ていた。それからフォークでパイを突き刺し、私の皿に置いた。
「あんたの分だ」
「え、でも」
「最後の一個は、一番腹の減ってる奴のものだ。この国の法律だ」
「そんな法律が?」
「今できた」
この人は、平然と嘘をつく。
焼き菓子を出された日、私は「明日走るので」と言い訳しながら手を伸ばした。テオは首をかしげた。
「走ると、菓子が消えるのか」
「消えな……い、です」
「なら関係ないな。食え」
市場に連れ出された日は、よく晴れていた。
女騎士が屋台の串焼きを五本まとめて買い、店先ではおばちゃんたちが揚げ菓子の食べ比べで揉めていた。テオも串を二本買って、一本を私に寄越した。歩きながら食べるなんて、と思ったけれど、炭の香りには勝てなかった。皮が薄く割れて、熱い脂と塩気が広がる。
ふと、銀食器屋の鏡に映った自分と目が合って、反射的に顔をそむけた。お腹をへこませる、いつもの癖ごと。
テオは何も言わなかった。代わりに菓子屋の前で足を止め、「半分こにします?」と聞いた私に、黙って二個買った。
「半分の菓子は、半分の味しかしない」
「それも法律ですか」
「いや、これはただの真理だ」
*
夜中に目が覚めて、水を飲みに厨房へ下りた。
隅に、粉を量るための大きな秤があった。
乗るつもりなんてなかった。なかったのに、足が勝手に半歩、前に出た。
「夜食か」
背後の声に飛び上がった。テオが寝癖のまま立っていて、私の視線の先の秤を見た。
「何を量る気だった」
「……体重計っていうのが、向こうにあって。毎朝乗るんです。重さを量って、記録して」
「で、その数字が増えると、死ぬのか」
「死なないですけど」
「減ると、強くなるのか」
「ならない、ですけど」
「じゃあ、何の数字なんだ」
答えられなかった。二十七年、ほとんど毎朝量ってきたのに。
テオはそれ以上聞かず、秤の上に小麦粉の袋を載せた。
「ちょうどいい。パンケーキを焼く。卵を取ってくれ」
明け方の厨房で食べた焼きたては、ばかみたいに甘くて、温かかった。数字の代わりに粉を量る秤を、私は少しだけ好きになった。
*
ひと月が経った頃、事件は起きた。
その日の夕食は、豆と腸詰めのスープだった。気づいたら、皿が空だった。
おにぎり換算を、忘れていた。
おかわりを注がれて、それも食べた。パンで皿の底を拭って、それも食べた。お腹の底が温かくて、手足の先まで火が通って、それで気づいたら、スープに涙が落ちていた。
「……変ですね。すごく、おいしいのに」
止まらなかった。二十七年分、と言われたら、そうかもしれなかった。
テオは騒がなかった。理由も聞かなかった。黙って新しいパンを切り、私の前に積んだ。
「泣きながら食う飯は、塩を足さなくていい。経済的だ」
「最低の慰めです」
「食ってから言え」
食べた。世界で一番おいしい、しょっぱいパンだった。
後日、どうして解呪師になったのかと聞いたら、テオは鍋の灰汁を取りながら、少しだけ間を置いた。
「昔、戦場で兵站をやっていた。……人はな、食えなくなった奴から死ぬんじゃない。食う気を失くした奴から死ぬんだ。だから、作る側に回った」
それ以上は語らなかったし、私も聞かなかった。ただ、この人の盛る山盛りの意味が、少しだけ分かった気がした。
*
祝福の儀が近づくと、礼法指導のオルガ夫人がやって来た。背筋が定規のような、銀髪の老婦人だ。
「聖女たるもの、人前で大口を開けてはなりません。食事は小鳥のように。儀式の前は三日、禊の断食を」
「断食!?」厨房でテオが声を荒らげた。「せっかく二割まで戻した魔力を、空にする気か」
「決まりです」夫人は眉ひとつ動かさなかった。「私が娘だった頃からの、決まりです」
決まり、という言葉には不思議な力がある。気づくと私は頷いていて、その夜から、出された皿を半分残すようになっていた。久しぶりに、頭の中で算盤が音を立てた。
テオは何も言わなかった。ただ、まな板に包丁を下ろす音が、少しだけ強くなった。
*
儀式当日。三日ぶりの固形物抜きの体で、私は大聖堂の祭壇に立った。
国中から人が集まっていた。豊作を祈る、千の目。
祈りの言葉を唱え、両手を大地に向ける。手のひらが弱々しく光って消えた。
もう一度。今度は火花も出ない。視界の端が暗くなり、膝が石の床についた。会衆の悲鳴が、遠くに聞こえた。
「だから言ったんだ」
大聖堂の扉が開いて、長い影が射した。テオが大股で歩いてくる。手にあるのは聖剣でも錫杖でもなく、湯気の立つ鍋と、籠いっぱいのパンだった。
「な、何ごとです! 神聖な儀式に、台所の者が」
「国の一大事だ。今からこの国に新しい法律を作る」テオは祭壇の段に鍋を置き、王様を振り返った。「『聖女は、食ってから働く』。陛下、よろしいか」
王様は半泣きで、何度も頷いた。
テオは器にスープを注ぎ、片膝をついて、私の目の高さで差し出した。
「チナツ。あんたの分だ」
千の目の前で、私はそれを受け取った。
オルガ夫人が息を呑むのが分かった。小鳥のように。人前で大口を。残しちゃ駄目、でも食べ過ぎも駄目。頭の中で、二十七年分の声がした。
でも。
最後の一個は、一番腹の減ってる奴のもの。この国の、法律だ。
私は口を、大きく開けた。
豆と腸詰めと、底で溶けた芋。熱が喉を通って、お腹に落ちて、灯がともる。二口目。三口目。パンをスープに浸して、皿の縁まで拭って、それから私は、生まれて初めて千人の前で言った。
「おかわり」
手のひらが光ったのは、その時だった。
光は床を走り、大聖堂の柱を駆け上がり、開いた扉から野へあふれた。枯れ色だった丘が見る間に緑へ変わり、麦が伸び、果樹に花と実が同時についた。歓声が屋根を揺らした。
祭壇の下で、誰かのお腹が、高らかに鳴った。
オルガ夫人だった。
夫人は耳まで赤くなり、それから観念したように、私が差し出したパンを受け取った。
「……私の時代は、見られる前に食べ終えるのが淑女でした」
そう言って、人前で、ひと口かじった。背筋は定規のまま、目だけが少し潤んでいた。
*
後日、古文書係が大発見をした。建国の初代聖女が残した「解読不能の聖句」千年間、学者たちを悩ませてきた祈りの最後の一語は、古い食堂の言葉で「おかわり」と読むのだそうだ。
歴代最強と呼ばれた聖女たちの記録は、よく読めば、ほとんどが食事の記録だった。
「あんたは記録を塗り替える」夜の厨房で、明日の仕込みをしながらテオが言った。「魔力残量、六十パーセント。まだ伸びる」
「太りますよ」
「魔力が増える、と言え」
「……増えますよ」
「結構なことだ」
鍋から、明日のスープの匂いがした。私は帰還の魔法陣の話を思い出していた。一年勤め上げれば、元の世界へ帰してもらえるという話。コンビニと、毎朝の体重計と、誰かの「普通」が待っている世界。
「テオさん。私、考えたんですけど」
「俺は、一生分の飯を作る予定がある」彼は鍋から目を上げずに言った。珍しく、早口だった。「向かいで食う係が、要る」
それがこの人の精一杯の言い方だと、もう知っていた。
「その係に、おかわりはありますか」
「一生分ある」
私は世界で一番、偉そうに言った。
「じゃあおかわり」




